NHK 最後の講義「俳優・柄本明」を観ました
2022/10/23
いつも日曜は古典研究カテゴリーの記事を
投稿しているんですが、
今日は日曜で、普段はお休みの中村教室で
急遽イレギュラーなイベントを開催したので、
イレギュラーなテーマで書きます。
寺子屋塾では2016年6月以降、原則として
3ヶ月に1回のインターバルで開催してきている
「インタビューゲーム4時間セッション」という
定例イベントがあります。
最初のうちはわたし井上が進行役を務めてましたが、
第10回から塾生有志に進行役を任せ
わたしはサブファシリテーター役にまわり
2人態勢で場に臨むようにしてきました。
それで、進行役経験者は今年の6月に開催した回で
10名を超えていることもあり、
去年の夏頃から、いちど進行役の経験者だけで
あつまりを持ちたいと考え、
何度か日程の調整も試みたことがあるんですが、
多忙な人が少なくなく、
時間が経てば人数もだんだん増えていきますし、
結局全員が集まれる日が見つかる確率は極めて低くて、
たぶん、半永久的にやって来ないということだけが
わかったのでした。
それで、すこし考え直してみたんですが、
インタビューゲーム4時間セッションだけでなく、
読書会や上映会など、自分で
何らかの場をつくる企画をしたことがある人まで
すこし幅を広げれば、全員じゃなくても
集まれる人だけで集まるというのでも、
じゅうぶん有意義な時間を過ごせるんじゃないかと。
塾生たちの予定を確認すると、
今日の午後ならわたしを含めて
6名は集まれることがわかり、
そして、その6名のメンバーでシェアするのに
ちょうどいい素材としてわたしが選んだのが、
今年8月20日にNHKで放映された
番組のアウトラインは
上記NHKホームページの通りなんですが、
この番組を制作したテレビマンユニオンの
スタッフ・長澤智美さんのコメントが
こちらのページにあったので併せてご紹介。
(引用ここから)
ーーーーーーーーー
私にはこれがどうしてこんなに面白いと感じるのか、言語化することができません。つまり、さっぱりわからない。テレビは視聴者にわかってもらうのが当たり前だと思って制作してきましたが、柄本明さんのこの番組は、「不条理劇」を見ているかのように、わけもわからず笑えるのです。「俺にもわかんねえよ」を連発する柄本さん、まるで放心状態の聴講生たち。なんでこんな表情になっちゃうんだろう。理屈を言うことはたやすい。言葉で表現することも一番慣れている。そこに安住するな。「わかった」と思った途端に、面白さは逃げていく。ほめてもらえばそりゃあうれしい。ダメな自分は見たくない。どこからダメになるの? ヘンなの…。地獄へ落ちろ…。
収録時間は4時間を超える大講義でした。どんな講義だったかは上記のように説明できません。感じてもらえればありがたいです。「わかったフリ」も「わからないフリ」もいやな感じです。どちらでもないんです、本当です。頭がぐちゃぐちゃになりそうです。
ーーーーーーーーー
(引用ここまで)
柄本さんの最後の講義は
演劇ワークショップのスタイルをとっていて
ほんとうに、理屈で説明のつかない内容の授業で、
わたしもアタマがぐちゃぐちゃに
なってしまったので、
本当は番組の内容を
全部書き起こしたいくらいなんですが、
番組の最後の方で語られた
印象にのこった柄本さんの言葉を
ひとつ紹介するだけにとどめます。
・・・つまんないってやつを
つまんないで捨てちゃダメなんだよ
つまんないっていうところに
なんか ものすごく
いろんなものがあるんだよ
ところが なんか うまくいったものだけ
こうやって 人間って好きなんだよ
それはしょうがないよね
誰しもそうだね
うまくいった自分が 好きなんだもの
うまくいかない自分は 嫌いさ
でも うまくいかないっていうところに
なんかきっと
いろんないろんなことが
あるんじゃないかね
以下は
ビデオ鑑賞と意見交換を終えた後の
参加メンバー4名の感想文です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
●・どこを耕されてきた人かという土壌によって、アプローチが違うよなと。(番組の中もだけど、今回ここに集まっているメンバーにも言えること)
・自分が仕事としてファシリテートしているアートクラスがあるんですが、〝絵で表現〟する機会・場の中だからこそ出来ることを探したいと思えました。
・「不安は持っていていい」アートクラスの生徒本人以上に、お母さんにこのスタンスになれる何かを創りだしたいと思いました。変なフィルターのないメンバーで、率直でめっちゃ有意義な場で楽しかったです!
●今日で2回目の鑑賞だったけど、1回目は1人で観て井上さんに感想を共有しただけだったので、今日の皆さんの感想を聞いて、また見解が広がったようにおもった。ただ、算数や数学のように答があるわけではないので、それで不安が解消される訳ではないけれど、見方が拡がることで、「そういう捉え方もあるんだ」と知ることができて、視野が拡がることは大事なことだと思う。
結局、自分を生きるしかないし、実は既にどんなときも自分を生きているのだとおもうけれど、それに寄りかかったり安心しきったりせず、かといって不安に縛られたりもせず、淡々と観察、観測していけたらとおもう。一人で生きているのではないのだから。
●「演劇」を伝える講義だったと思う。演じることをリアルでない(不自然な)ことを自然にやろう(やっている)と思うところが観客とのズレなんだと伝えたかったのではないか。自分が「本物ではない」「わかっていない」ことを自覚し不安定であることが〝本当〟だと言われていたと思う。不安定は、これでいいのか、と相手と探り探りやっていく過程につながる。それが「ひとりじゃない」「社会」ということか。「ゴドーを待ちながら」での「わからない」けど「泣けた」の下り、柄本さんは「わからないことを追究していく苦しみと喜び」と「演劇愛」を伝えて下さったと思う。家族といるとき、会社、寺子屋塾、コーチングの友達、それぞれに違う私がいる。演じている。周りとのつながりを意識してインプロの日々が続く。今日の場はインプロが強く意識された。普段でもこの視座で見てみよう。
●講義の中に劇団員に演技指導する場面がありましたが、その冒頭部から指導が入った場面が印象的でした。「当たり前を問う」というのは、そのようなことだろうと思いました。場を見るというか読むというか、そういったことがすごくて、本当にいろんなことを考えてきたのだろうと感じました。演劇という視点からの見方をしていたものですが、人が生きている上での出来事であるが故に、何にしても重なる部分があるのだろうと感じました。つまりファシリテーション、さらには人生を謳歌するには、人とはいかなるものかを知ることなのだろうと思いました。