情報洪水の時代をどう生きるか(その4)
2022/12/04
今日は日曜なので、いつもは古典研究カテゴリーで
記事を投稿しているんですが、
12月に入ったタイミングで
「情報洪水の時代をどう生きるか」という
テーマで書き始めたため、
そのひとつのテーマについて、
前日までに書いた内容をふりかえりながら、
続きを書くというイレギュラーな形で
記事を書いてきました。
したがって、昨日までの記事や、
情報洪水の時代というテーマについて
書き始めたことの前提となる記事を未読の方は、
それをまず確認されてから
本日分の記事をお読み頂ければ有難いです。
庄司薫『バクの飼い主めざして』のこと
情報洪水の時代をどう生きるか(その0)
さて、昨日書いた(その3)のポイントは、
観察する行為を空間軸中心の視点から
時間軸、時間認識へとシフトさせ、
そして、そもそも情報というものが
どのように生まれるのか、そのプロセスを観察し、
そのしくみを見抜いて、
自らが情報生産者になることと言っていいでしょう。
でも、これはなかなかに難易度が高い話なので、
ゆっくりと順を追ってふりかえっていきます。
いま、自分の目の前の視界に入るような事物、
たとえば、コーヒーカップでも何でもいいんですが、
人間にとって同じ空間の中にいれば認識できるので、
リアリティがあるというか、
その実在を確認することができますよね?
でも、「現在」「過去」「未来」といった時間軸や
時間認識というものは、
言葉になってしまうと簡単に扱えるんですが、
そのぶん、錯覚を生んでしまいやすいし、
現実には目に見えず、手で触れることもできないので
ちょっと厄介なんです。
6月に「今日の名言シリーズ」のカテゴリーで
次のような記事を書きました。
この記事に書いた
「未来が過去を決めている」という話が腑に落ちないと、
情報生産のプロセスをしくみとして見抜くという話を
理解するのは難しいかも知れません。
過去に起きたどんな事実も、
人間の脳内にある記憶にすぎないわけですから、
その過去を受けとめているのが〝今〟でしかないなら、
わたしたちは、過去が未来を決めているように、
おもっているのは錯覚で、実際はその逆なんですね。
わたしたちが、生きて実在しているのは、
常に「今、現在」でしかなく、
「未来」というのは、未来永劫やって来ません。
現在、どう生きているか、どう行動しているかが、
ずっと連綿とつながっていて、
あとからふりかえってみたときに、結果として
「過去」「現在」「未来」にあたる
〝経過〟が生じていたと言えるだけです。
つまり、「時間」というものは、
佐治さんが言われている通り、
人間の脳の中では存在することができても、
〝実在〟するものではありません。
「情報生産のしくみを知る」ということは、
プロセス全体を俯瞰して、そのために必要な手順や
パターンを認識することに他ならないので、
かなり抽象度の高い思考が
要求されることと言ってよいでしょう。
でも、難しく考える必要はないのです。
リアルな事物の場合、料理をつくるにしても
最初に自分が何を食べたいかを考えたときに、
たとえば、カレーライスをつくると決めたのなら、
お米や人参、ジャガイモ、豚肉を集め、
材料を切り刻んだり、煮たりして調理し、
ご飯を炊いて、盛り付けるという
一連の〝手順〟がありますよね?
結局、目には見えない情報生産の場合においても、
この手順を、そのまま置き換えて
考えればいいわけなので。
事業計画書でも卒論でも、何でもいいんですが、
同じように、その必要な情報を生み出すための
一連の〝手順〟が存在するので、
そのプロセスに着目すればいいわけです。
問題意識の醸成 ↓ テーマを決める ↓ 素材を集める(テーマに沿って取材) ↓ 加考する(集めたデータを整理、統合する) ↓ 発信(受信者に分かりやすく伝達する)
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さて、情報がどのように生まれてくるのか
そのしくみやからくりが
自分で見抜けるようになってくると、その次には
「価値ある情報とはどんな情報なんだろう?」
というような問いが浮かぶようになるでしょう。
つまり、「〝考える〟とはどういうことか」とか、
「〝発見する〟とはどういうことか」という
自分で立てた原理的な問いから
ものごとを考えることが
すこしずつできるようになってきますから、
まわりの情報に振り回されることも
次第に少なくなっていくのではないでしょうか。
ということで、
次のテーマは「初源に立ち返る原理思考」です。
(つづく)