寺子屋塾

或曰、以徳報怨、何如(「論語499章1日1章読解」より)

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或曰、以徳報怨、何如(「論語499章1日1章読解」より)

或曰、以徳報怨、何如(「論語499章1日1章読解」より)

2023/01/15

日曜は古典研究カテゴリーの記事を書いていて、

主に易経や仏典、論語などをとりあげています。

 

2019年の元旦から翌年5月13日まで約1年半の間、

全部で499章ある論語を1日に1章ずつ読んで

その内容をFacebookに投稿することを

日課としていたんですが、

その中からわたしが個人的に大事だとおもう章を

少しずつ紹介してきました。

 

今日は、先週1/8に書いた記事でご紹介した

雍也第六の17番(通し番号136)と同じ

「〝直〟とは何か」に関わる

憲問第十四の36番(通し番号368)についてです。

 

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【憲問第十四】368-14-36
 
[要旨(大意)]
怨みに対し恩で応えることについて孔子の考えを述べている章。
 
[白文]
或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報德、以直報怨、以德報德。
 
[訓読文]
或ヒト曰ク、徳ヲ以テ怨ニ報イルハ、何如、子曰ク、何ヲ以テカ德ニ報イン、直ヲ以テ怨ニ報イ、德ヲ以テ德ニ報ユ。
 
[カナ付き訓読文]
或(ある)ヒト曰(いわ)ク、徳(とく)ヲ以(もっ)テ怨(うらみ)ニ報(むく)イルハ、何如(いかん)、子(し)曰(いわ)ク、何(なに)ヲ以(もっ)テカ德(とく)ニ報(むく)イン、直(ちょく)ヲ以(もっ)テ怨(うらみ)ニ報(むく)イ、德(とく)ヲ以(もっ)テ德(とく)ニ報(むく)ユ。
 
[ひらがな素読文]
あるひといわく、とくをもってうらみにむくいるは、いかん、しいわく、なにをもってかとくにむくいん、ちょくをもってうらみにむくい、とくをもってとくにむくゆ。
 
[口語訳文1(逐語訳)]
ある人が言った。「怨みに対して恩で返すのはどうでしょう。」先生(孔子)が言われた。「何を用いて恩に返すのか。怨みには本心にて報い、恩には恩にてお返しする。」
 
[口語訳文2(意訳)]
ある人「受けた仇を恩で返す。これをどうおもわれますか?」
孔子「では恩には何を返すのかね? 受けた仇にはありのままの本心で返し、ご恩にはご恩を返したらいい。」
 
[口語訳文3(従来訳)]
ある人がたずねた。――
「怨みに報いるに徳をもってしたら、いかがでございましょう」
先師がこたえられた。――
「それでは徳に報いるのには、何をもってしたらいいかね。怨みには正しさをもって報いるがいいし、徳には徳をもって報いるがいい」(下村湖人『現代訳論語』)
 
[語釈]
或:「あるひと」と読む。
直:ここではありのままの本心。
徳:ここでは恩恵の意。
 
[井上のコメント]
ある人の言う「以徳報怨」という言葉は、老子の第六十三章にあります。よって、本章を読み解くポイントは、「直ヲ以テ怨ニ報イ」の「直」とはどんな行いを指しているかについて、老子と孔子のスタンスの違いを読み解くことにあると言っていいでしょう。孔子のいう仁の德・・・「德」という漢字は、ぎょうにんべん(行う)+直+心と書きますから「直」は徳を構成する重要な要素のひとつであるわけですが、「直」は、決して単一な意味の言葉ではなく、複数の意味を含んでいるためです。


たとえば、従来訳として記した下村湖人『現代訳論語』の注釈には、次のように書かれています。

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ここに、ある人というのは、おそらく老荘流の人をさすのであろう。老子は明らかに「怨みに報いるに徳を以てす」といっているのだから。
孔子には、老子・荘子・仏教・キリスト教のように、飛躍ということがなかった。つまり孔子は常にこつこつと地上を歩いた人であり、現実社会の秩序ということを忘れて、一挙に理想に突入し、愛の燃燒によつて罪を浄化するというような心境には終生なれなかったのである。そういう点で、孔子に霊感的なものを求めるのは比較的困難である。しかし、そこに基督などとはちがった彼の偉大さ、いわば平凡人の偉大さとでもいうべきものがあったと思う。理想としては、「汝の敵を愛する」のが見事だとしても、現実社会は永遠に「怨みに報いるに正しさを以てする」必要があるであろうことを、われわれは忘れてはならないのである。
(以上引用終わり)
------------------

つまり、下村湖人は「直」を「正しさ」と訳しているのですが、これに対して九去堂は「『怨みに報いるに正しさを以てする』と論語の本章を解釈するのは誤り。『平凡人』の孔子は、怨みには怒りで返した。」と書いて、報復の意味で訳しています。わたしは「正しさ」と訳するのは誤りという見解には同意しますが、もし、この「直」が報復の意味であるなら「怨みに報いるに怨みを以てす」とするはずで、孔子の言う「直」は、報復のような直情的なものともまた違うようにおもうのです。


それで、一応「ありのままの本心」と訳してはみたものの、学而第一の2番にある「本ヲ務ム」の「本とは何か?」について、また、論語にしばしば登場する「仁とは何か?」について、孔子はその時々によって、また相手によって異なる言葉で語り、言語で一律に定義していません。それと同じで、もし、これを読まれた方が言語的に理解できるように「直」について説明しようとするならば、膨大なコンテキストに触れなければならなくなってしまいますから、結局わたしが寺子屋塾の場で「実体験」「対話」を通して伝えている活動というのも、これと似たようなものなのかも、と一人合点してしまいました。


雍也第六の17番(通し番号136)にも「直」が登場しているのですが(子曰、人之生也直、罔之生也、幸而免)、そこにコメントとして書いた文章を参考として再録しておきます。

 

[参考]
・要旨では、直を「まっすぐ」という意味で捉え、口語訳文では、「素直な正直さと書きましたが、「〝直〟とはどういうことか?」を捉えることは、この章のひとつのポイントと言ってよいとおもいます。現代の日本語の表現では、「正直さ」「素直さ」「純粋」「まっすぐ」「ありのまま」というように色々な解釈が可能でしょうが、そうした各々の言葉の表現の違いにとらわれずに、「直」という言葉が内包する意味合いの方にダイレクトにフォーカスして把握する必要があるとおもうからです。ようするに、孔子がこの章で言いたいことの焦点は、「周りに直ではない人間が多いからといって、人間に対する信頼を失わないでほしい」という気持ちなのではないかとおもうので。
ちなみに、古注では、直を正直さという意味合いで解釈し、直は努力によって獲得するものだという立場をとっているのに対し、新注では、直は努力を伴わなくとももともと人間に備わっているという立場をとっているようです。
わたし自身は、新注の立場に近いのですが、現実には何もしなくても直をそのまま発揮できる人は稀で、多くは教育や生育環境などによってねじ曲げられてしまっているため(安冨歩はこれを「魂が植民地化されている」と表現されています)、特別な能力を獲得するために努力するというよりは、本来の自分自身を取り戻すための・・・「魂の脱植民地化」のための鍛錬は必要であるように感じています。

(雍也第六の17番・通し番号136に記した井上のコメント)

 

 

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