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独学のすすめ(谷克彦『食と暮らしの技術』序文)その2

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独学のすすめ(谷克彦『食と暮らしの技術』序文)その2

独学のすすめ(谷克彦『食と暮らしの技術』序文)その2

2023/02/15

昨日の記事の続きで谷克彦さんの著書

『食と暮らしの技術』から、

「独学のすすめ」と題された序文の2回目です。

 

冒頭の写真左側は、谷さん最初の著書

『いのちは海から 塩』(1981年初版)

右側は1990年に日本食用塩研究会より

自費出版された

『海の精を求めて 塩運動20年の歩みと今後の展望』

 

この序文を丁寧に読めば、谷さんの人となりについては

垣間見えるとおもいますが、

谷さんの略歴や塩運動の歴史について

関心がおありの方はこちらの記事をご覧下さい。

 

(引用ここから)

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東京は生活する場ではない、仕事をする所だとは、時々耳にしていた。しかし、東京生まれで東京育ちの私にとって、この生活環境を離れて、他のことを考えることはできなかった。東京は、やはり勉強する刺激があるように思えていたからである。
ところが、この大都会では、昼日中、家に居る人は、老人か、病人か、家庭の主婦だ。当時の私のような年若い者が、家で留守番みたいな生活をしているのは、話にも聞いたことがなかった。妹を学校に行かせ、父が出勤すると、私は独りになる。母は、もう家を出ていた。朝飯と夕飯の用意をしながら家に拘束されることは、この年齢では、エネルギーを持て余して、とても苦痛なものである。そして毎日、家に居て、机の前に坐りながら不得手な勉強をしていると、社会の歯車から完全にはずれてしまったような孤独感にしばしばおそわれるのだった。
しかしながら、毎年3月には、一年間の学習の締めくくりとして、大学受験を試みた。受験費用の安い、当時の国立一期校と二期校、その中間にあった公立大学の入学試験だけは、きちんと受けることにした。まったく受験勉強をしていない私にとって、かなり酷なことであった。白紙の答案もしばしば提出した。私には、受験勉強はほとんど眼中になかった。ただ将来、学究者として、立派な、歴史に残るくらいの研究をしたいという一心であった。
といっても、物理学、数学、化学の勉強にだけ、ウエイトを置いていたわけではない。西洋科学文明を理解し、その発想法を会得するために、西洋史、西洋思想、心理学、文学、哲学の分野も学んでいた。もちろん、受験科目なんか度外視して、科学の学究徒となるべく最短距離をめざしていたのである。
毎年秋になると、大きな予備校の模擬試験も受けた。ところが、予備校では、受験生の成績は順位と点数はもちろん、名前と出身校が全員張り出された。何千人かのうち、私は下から3番目にランクされていた。恥ずかしく辛かった。が、私は耐えることにした。こんなことで屈するようでは、とても将来、研究者としての道は拓けはしないのだ。その苦痛に耐えぬくことができるかどうか、毎年ここの予備校の模擬試験を受けることにした。
しかしそうはいってみたものの、毎年、毎年、はるかに後輩たちが、私を軽く追い越して、大学に進学してゆくのを見届けることは、たいへんな苦痛であったので、大学に進学したほうが、あるいは自分の目標に早道かもしれない、と考えるようになった。
そこで、意を決して、4年目にして日本大学の工業化学科に入学してみた。
この考えは、やがて、とんでもない間違いであることを知った。大学紛争のかなり前ではあったが、学園はひどく荒れていた。
第一、実験、研究のチャンスがほとんどなかったのである。独学の者にとって、やはり設備の整った研究室で、思い切り実験をやってみるのが夢である。ところが、化学科の学生のもっとも基礎になる定性分析の実験を、1つの実験台に2人がかりで同時にやるのだから、スペースがまったくない。しかも、午前中だけの時間しかない。いくらスピードを上げて実験を進めても、半日の時間でやれるわけがない。昼休みを返上して続けたとしても、半分しかやれないし、それを過ぎると、次の学生がドヤドヤ入ってきて、途中で追い出される始末である。
こんな生存競争のはげしい大学では、とてもまともな研究ができるどころではない。数学も、物理学も、化学も講義に出るより、明らかに独学のほうが能率が上がる、とまた思い直したのであった。
クラスの連中は、大学の教学方針がおかしいと集まっては、不満を述べていた。どうしたらよいか、と話し合ったりもしていた。私は、その渦にも入らなかった。大学の方針は明らかに悪い。しかし、それを直そうとしても、とても卒業までになんとかなるものではない。それよりも、私は、今どうしたらよいのか迷っていた。私は、解答を性急に求めていた。
こんな教学方針の悪い大学は、とても簡単に、それを直すことはできない。そんなことよりも、こんな大学に皆んなが行かなくなることが大切だ。そうすれば、大学当局も反省せざるをえないと思った。大学に不満なら、皆んなやめたらよい。入学して6ヶ月目だった。
私は、比較的おもしろかった物理実験と政治学と法学の3時間にしぼって、あとは講義には出ず、陽当たりのよい噴水のある池の端で、数学の問題を解くのを日課とした。そして、学年末と同時に退学をした。
私は、東京を出ることにして、関西へ行った。
父には、理由をまったく話さず、毎年、大学を受験しては決まったように、「不合格だった。来年も頑張ります」と判で押したように釈明した。父は、「今さら大学を卒業しても、その年齢では大手の企業では採用してもらえないぞ。いいな」という。
私の考えは、父とは天と地ほども異なっていた。学究者の道を歩むつもりだなどと、父にはとてもいえなかった。現実は、あまりにもきびしかった。私は、父の仕送りの負担を極力けずるために、狭くて安い下宿を探し、食費を抑えた。えらく腹が減った。もともとやせていた私は、55キロから47キロに体重が落ち、寝返りをうつと、腰の出っ張った骨がゴリゴリッと音がするほどだった。
当時、空腹が頭脳労働に有効だ、ということを知っていたわけではないが、能率は見違えるほどに上がっていた。睡眠時間も少なくて済んだ。しかし、空腹が度を越すと、食物のことが頭にちらついて、いらいらしてくるのには参った。
なんとか、京都、大阪の2年間は能率も上がり、やるだけのことはやったという、充実感をそれなりに覚えることができた。
そして、6年間の放浪生活にピリオドを打って、再び大学生活に戻ることにし、立命館大学の理工学部数学物理学科へ入学を果たした。数えてみると、この7年間に23の大学を受け、4つ合格して、19の大学をスベっていた。
ずいぶんいい年齢になって、大学に入った私にとっては、よい成績で大学を卒業しようなどという色気は毛頭なかった。たとえ、万が一、トップで卒業したところで、苦節6年者には自慢にもならなかった。私は、研究者になるための腕を磨く最短距離を、つねに念頭に置いていた。
6年間の放浪生活で、もっとも苦戦をしたのは、実験が思うようにやれないことだった。第一線で研究をやっている人たちが、どのように進めているのか、非常に興味があった。そこで、私は、実験関係の時間は徹底して大事にした。とうとう、1回生の終りごろより、原子核物理学研究室に出入りができるチャンスをつかんだ。私は嬉しかった。非常に素朴な疑問をよくぶつけては、その解答から、自分なりに懸命に考え詰めた。
高学年になるにつれて、実験がおもしろくなってきた。実験の準備から始まって、データ解析、次の実験の企画と相当な時間を割いていた。また、全国の物理科の学生の集まるセミナーにも、積極的に参加するように心がけてもいた。これでは、とても講義なんかに出ていられないと思った。
講義は、最初の1、2時間だけ出席して丹念に聴くと、講師の質がよくわかった。授業に出るか出ないかは、講義内容にオリジナリティーがあるかないかで、判別することにした。どの本にでも出ているような話ばかりの講義は、省略することにした。
高学年になると、その結果、1週間に2、3時間も受講すれば、もうあとは実験室にこもることになってしまった。得意だった数学に時間をかけるのが減る一方で、実験関係の仕事は、理論関係の仕事の何倍も何十倍もの時間を要した。
何か良策を見つけようと、理論物理学の先生に相談を持ちかけてみた。
「物理をやる者にとって、数学そのものは真理探求の道具にすぎない。数学に時間をかけていては、それだけで一生を終ってしまう。研究ができなくなる。基礎数学だけをよく勉強しておけばよい。あとは研究テーマをこなすに必要な高等数学を、その研究過程で身につけるようにする。とにかく、1回生の初等数学をよく勉強しておきなさい。将来、理論物理学関係の研究をするに しても、それで十分である」とのご託宣であった。
私は、そこで高等数学の講義をすべて省略することにした。1回生の初等数学の講義を、卒業するまで聴講することに方針を換えたのである。
長年の独学の習慣がすっかり身についてしまっていた。自分独自の勉強計画を立てることにして、大学のカリキュラムに自分を合わせようとは思わなかった。自分の勉強計画に大学のカリキュラムのほうを合わせた。
おかげで、テキストもノートもない科目がたくさんあった。したがって、講義もよく聴いていないので、試験にはほとんど何も書けなかった。私は、よく答案に「もう1年勉強します」と書いて、白紙のまま提出した。みっともないので、皆んなにわからないように、そっと出した。数学も物理学も、そういう科目が圧倒的に多かった。
それでも、数学の試験の前には、いつも友人たちがやってきて、「問題」を解いてくれ、という。皆んな、私が試験でも優秀な成績を取っている、と勘違いをしていた。私は、自分の腕だめしのつもりで、懸命に解いた。
私は、学内の試験勉強は何もやらなかった。だから、悪い成績であった。入学試験勉強をやらないで入学した大学だから、きっと試験勉強をやらずに卒業もできるだろう、と思っていた。しかし、実際問題、そんなに単純にゆくはずがなかったが......。(
谷克彦『食と暮らしの技術 実践健康ノート』より)(続く)

 

※続きは明日投稿する予定です

 

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