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講演録『教えない教育、治さない医療』(その3)

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講演録『教えない教育、治さない医療』(その3)

講演録『教えない教育、治さない医療』(その3)

2023/04/23

講演録『教えない教育、治さない医療』(その2)からの続き

 

井上:「食」というのはこの「自然の思い」ということと、ものすごくつながってくると思うのですが、最近その、チェルノブイリの原発事故以来、環境汚染といいますか、そういうことから自然食の運動、というか、無農薬のもの、無添加のものを求める動きがありますね。非常に「食」に関心を持つ人が増えて来て、食養とか自然食という考え方が随分広まって来たと思うんですが、先生のお話をうかがっていますと、先程、基本的に食とおっしゃったのは、食がすべてだと言うふうには考えていらっしゃらない、ということでしょうか。

 

山下:そうですね。あの、身体という意味ではやはり「食」でしょうね。でも、人間を構成する要素をもし分類できるとしたら、ぼくらを構成している要素の中で、「食」というのは10パーセントくらいでしょうか。もちろん、10パーセントが変われば大変な問題ですから、決しておろそかにはできないんですけれどもね。人間を構成する要素の中で、大きなものは「意識」です。これが7割以上を占めます。とすれば「意識」をどうにかするということで、よりダイレクトに変化がありますね。

 

それから、もう一つ言いますと、人間が持っている───ぼくは浅知恵といいますけれど、それがみな実は失敗に───時間の経過とともに、失敗になってくるんです。よく言うんですけれども、あの、アメリカが開拓時代に、サイドワインダー作戦というものがありまして、開拓者にとってガラガラ蛇は大敵なんですね。で、ガラガラ蛇を退治したら農作や開拓がうまく進んで農作物がよくできるようになるだろうと思って、一所懸命ガラガラ蛇をやっつけた時代がある。最近では毛沢東が中国ですずめ狩りをやりましたが……。で、どうなるかって言うと、ガラガラ蛇が減って安心して開拓出来るようになったというのは事実でしょうけれども、もう一方で、ガラガラ蛇が減ったお陰でネズミが増えて、ネズミに農作物を荒らされて結局は、結果は同じことにしかならなかった、ということで、じゃあ、ガラガラ蛇を退治したことに何の意味があったかというと、あまり意味がなかったわけです。

 

やっぱり自然というものは全部不必要なものがなくて、もう全部が必要だからこそ存在するわけで、それを一方を憎み一方を喜ぶというのは、全部自我でしかないわけです。だから、死ぬということも必要であれば死んでいいわけで、自分が世の中に存在することに、存在する意味が見つからなくなれば、それは死んでもいいわけです。自分が満足して死ねるというのが一番いいのだと思いますが、死ぬということも必要なんです。それから、決して死ぬということを怖がることはありません。ぼくは通過儀礼だと思っていますから。単なる入試で大学の門を入った、と同じことですから、その辺怖がる必要はないし、皆さんらくに死にますんで、安心してもらっていいと思うんですよ(笑)。だから、そんなに怖がるものじゃないということがおわかりになると、実は病気もそんなに怖くなくなって来て、じゃあ、今何をしたらいいか、ということもだんだんに自然とわかってくるわけです、そうなりますと、病気というのは勝手に治って行くという経過をとります。

 

井上:先生のようなお考えで「治療」というものをとらえて、医師という仕事をされてみえる方は他にもいらっしゃるのでしょうか。

 

山下:あの、イノチに対する考え方はいろいろありますから、やっぱりぼくらは「治す」ということをたまたま一所懸命教えられて来ましたので、よく似た考え方はあると思いますけれども、わたしのように、徹頭徹尾やらないというのは非常に珍しいと思います。

 

井上:「何もしない」「治さない」ということによって、患者さん、病気を持っておられる方が自ら「気づく」という、そういう場所を提供されている、そのためには「教えない」という……

 

山下:ぼくは、やっぱりそうですね。教える、というか何か覚える、というか───皆さんそうでしょう───教えられたことを目的にしませんか。自分でその原理を「何だったか」と考えて、自分なりの方法論をとるということをなかなかしないんじゃないですか。教えると教えられた通りにしかやれない。例えば、食養を教えると、玄米と野菜さえ食っておればいい、というような。こんなのは食養でも何でもない。食養というのは、何を考えているかということを覚えて戴きたいんです。

 

実は、おもしろい話があって、山形の方から骨腫瘍───頭の骨の骨腫瘍で患者さんが去年の春おいでになって、ウチの病院で大ゲンカしたしたんです。ウチはしょっちゅう患者さんと大ゲンカしますのでね(笑)。それで、怒って帰って行ってしまわれたんです。ところがお帰りになってから何か考え直されたんでしょうね。一所懸命に食養をやっていただくようになって、今年の春ちょっと気になりましたので、東京へ行くときに、ちょっと廻りまして山形の方まで行ったんです。患者さんと駅で30分、会ってお話ししたんです。そうしたらすごく喜んで下さったんですね。それで、帰りにぼくが東京へ向かうので電車に乗って、プラットホームに立って見送って下さったんですけど、この頭のあたりにこれぐらいの腫瘍があったんですが、その時、何の気なしに患者さんが自分の頭を撫でたんですね。そうしたら、その腫瘍の大きさが変わっている、と。電車に乗っているぼくの手を持って「もういっぺん触れ!」って言うんで、触らしてもらったら、半分ぐらいになっているんですね。だから、意識が変わるということはそれくらい病気に大きな影響を与えるんですね。ぼくも最近あれほど顕著に変わった例というのは見たことがなかったですね。やっぱりぼくたちの病気っていうのは意識の産物である、としか思えなくなります。

 

それから、末期ガンと呼ばれる患者さんで、わたしのところにおみえになって治って行かれた患者さんが結構あるんですけれども、実はこのあたりの様相が何となく自分で気がつかれた方は治るんです。よく言うんですけれども、「おもしろい」という言葉は「面白い」って書くでしょう。つまり、顔が白くなる、っていうことですね。顔に透明感が出て来たら、必ず病気は治ります。顔が濁っている間はどんな軽い病気も治りません。だから世の中が面白くなりだしたら、その人は病気は治ります。

 

井上:ということは、面白く生きるということが一番の早道という……

 

山下:病気の心配をするよりも先に生きることの方が大事ですよ。頭の中で棺桶を想像して「怖い怖い」と言っているような生活───それを80年生きるか、楽しくてしょうがない人生を60年生きるか、と問われたら、ぼくはやっぱり60年の方をとります。

 

それから、もうひとつ言わせていただきますと、この辺がわかるかわからないかというのは、どんな「原風景」を持っていたか、子どもの頃にすごくいい思いを持っているか───たぶん、原風景というのはそんなに生易しいものじゃなくって、わたしたちが生命の誕生、母親の腹の中にいるときの風景だとぼくは本当は思っていますが、そんなことですとなかなかわかりにくいですから、例えば生まれてからどんないい思いを持っているか、子どものときの楽しい思い出を持っているかということがすごく大きな問題になります。

 

それからもうあとひとつは、いいしつけをされているかどうかということ。しつけのいい人というのは非常に病気が治りやすい。しつけが悪い今の大人になりますと病気が非常に治りにくい、と言うのは、この辺に気がつく素因を持っているかということですね。そういう意味では平井さんの「教育」というお話しにすごく関わってくると思うんですけれども、間違った教育、非常に物的な───あの、知識というのはひとつの「モノ」ですからね、あれは。そっちを偏重して育ってきたか、それとも人間として生きることの情感を持って生きてきたかということでは、もう病気の治り方に雲泥の差がある。だから、非常に子どもを育てるということは、ある意味で怖いというか、楽しいというか、そういうことになりますね。

 

井上:えー、一応時間がまいりまして。ちょうどしつけというお話しが出てきたところで平井さんの方にバトンタッチしたいと思います。どうもありがとうございました。

 

講演録『教えない教育、治さない医療』(その4)に続く

 

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