子曰、志於道、拠於德(「論語499章1日1章読解」より)
2023/07/07
今年の1月までは
毎週日曜を古典研究カテゴリの投稿日と決め、
易経や仏典、論語などについて
記事を書いていました。
最近は毎日サイコロを振って立てている
易経のふりかえりを書くだけに
なってきていたので
今日は久し振りに論語についてです。
2019年の元旦から翌年5月13日まで約1年半の間、
全部で499章ある論語を1日に1章ずつ読んで
その内容をfacebookに投稿することを
日課としていました。
そのことについて書いたふりかえり文を
2021年の11月半ば頃に3回にわたって
紹介したことがありますので、
未読の方は、次の記事をまずご覧ください。
このblogでは、
論語499章1日1章読解の中から
わたしが個人的に大事だとおもう章を
少しずつ紹介してきたんですが、
今日は、述而・第七の6番(通し番号153)です。
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【述而・第七】153-7-6
[要旨(大意)]
(君子にとっての)信条を理念的なところから日々の実践までのつながりを大局的に語った章。
[白文]
子曰、志於道、拠於德、依於仁、游於藝。
[訓読文]
子曰ク、道ニ志シ、德ニ拠リ、仁ニ依リ、藝ニ游ル。
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、道(みち)ニ志(こころざ)シ、德(とく)ニ拠(よ)リ、仁(じん)ニ依(よ)リ、藝(げい)ニ游(よ)ル。
[ひらがな素読文]
しいわく、みちにこころざし、とくにより、じんにより、げいによる。
[口語訳文]
先生(先生)が言われた。「まず、道に志すこと。そして、徳を根拠とすることで、仁に依拠でき、それを芸によって(楽しんで)実践する。」
[井上のコメント]
この章は、499章ある論語の中でも十指に入るくらい重要な章だと言われている人もあり、それに対して異論はないのですが、抽象的表現でわかりにくい章でもあります。まず、この章には主語がなく、どんな人を主語に述べようとしているのかがハッキリしていません。ただ、孔子という人は、自分が実践して確認できていないことについては、積極的には語ろうとしなかったようですし、言葉だけで理解したところで仕方の無いような内容なので、孔子自身の体験をふまえつつも、「わたしが」と明言するのを敢えて避けたようにも読めます。ただ、意味合いとしては、「君子は」を主語で語ろうとしたものという理解でよいでしょう。
全体の流れとしては、「志於道」→「拠於德」→「依於仁」→「游於藝」と4つの順序を踏むことと、大きなところから日常の実践までがつながっていることの大事さを言っている章という風に捉えると理解しやすいとおもいました。たとえば、この章全体の主旨を企業経営になぞらえると、創業(起業)の志が最初にあり、そしてその志に基づいて、経営の拠り所となる企業理念がひとつに定まり、その理念に基づく大きな方向性としての経営戦略(方針)が策定され、そして、日常の仕事レベルに落とし込んだ経営戦術(方策)があるという感じです。
「志於道」については、学而第一為政第二で確認したように、孔子は十五歳のときに、学問の道に志したわけですし、また、「拠於德」については、為政第二の16番(通し番号32)のコメントで紹介した、『書経』の商書・咸有一徳編にある「徳惟(こ)れ一なれば、動いて吉ならざるなし、徳二三なれば動いて凶ならざるなし」の通りです。つまり、あれもやりたい、これもやりたいという徳二三でなく、徳一つまり、ひとつの徳に拠り所が定まっていることで、「依於仁」と自ずと仁に依拠した行動がとれる。でも、これまで何度も触れてきたとおり、孔子は論語のなかで「仁」についての定義を明確に語っていないのは、そもそも「仁」とは、理想化された徳目として明文化されたものでなく、人と人の間に偶発的に立ち現れるものであるためで、「游於藝」つまり、「藝」とは、教養であり六芸(礼・楽・射・御・書・数)のことですから、生活のなかでの具体的に実践すること、しかも「游」、遊び心をもって自由に身を委ね、楽しむ心境が大切と理解すればいいでしょう。
ちなみに、「游於藝」は、「藝ニ游(あそ)ぶ」と訓をふるのが普通で、「藝ニ游(よ)ル」という冨永半次郎の読み方を採用しました。「游」は「由」の仮借とみて、訓がその前の「拠」「依」と同じ読み方「よる」となり、韻を踏んでいるのが面白いとおもいます。
2023.7.7追記:実はこの述而・第七の6番(通し番号153)の原文とコメントは、1年以上前に投稿した論語499章読解「一以貫之」(通し番号381)の記事でも紹介したことがありました。でも、その記事を読まれていた方でも内容の細かい所までは覚えておられないかもしれませんし、重複しても全然問題がないと判断してこの章についての記事を再度投稿したのは、この章には非常に重要なことが書かれているためです。とりわけ、孔子が「仁とは何か?」と門人たちから問われた際に、異なった説明をしていることは、6月に24回にわたって書いてきた連載記事、改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について で触れたウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念に通じているものでした。つまり、わたしたちが、論語を読んで「仁とは何か?」と問うとき、名文化された定義や説明を求めてしまうのは、ひとことでいうなら「原因と結果の取り違え」であって、言葉はコミュニケーションの結果として生まれたものであるのに、言葉があたかも最初からあったかのように誤解しているためで、論語に書かれていることを自分の辞書で解釈しようとしてしまうからだとおもうからです。
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