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〈書き言葉〉は自分の心の中に降りていくための道具(吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』より)

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〈書き言葉〉は自分の心の中に降りていくための道具(吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』より)

〈書き言葉〉は自分の心の中に降りていくための道具(吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』より)

2023/07/13

今日は本の紹介です。

 

6月は、このblogで

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について
というテーマで、

24回続けて記事を書いたことがありました。

 

その22回めには、コミュニケーションの問題や、

日本語の構造や特質について考えようとする際に

大きなヒントを与えてくれるフレームとして、

吉本隆明さんの主要三部作の中核をなす

『言語にとって美とはなにか』に出てくる

〝自己表出〟と〝指示表出〟について触れ、

吉本さんがどうやってその概念を

導き出したかという話を紹介しています。

 

ただ、〝自己表出〟と〝指示表出〟については、

「文章を書く」というテーマからは

離れていないとはいえ、

文藝評論の土台にしようとして書かれた

理論的な話でもあり、

『心的現象論』や『共同幻想論』との

関連性も絡んでくるため、

その全体を理解するのは易しくありません。

 

それで、〝自己表出〟と〝指示表出〟という

考え方を踏まえながらも

もう少し易しく読める本はないかと

選んでみたんですが、

15歳の子どもたち4人に向けて語られた

2012年に亡くなった吉本さんの

最晩年の肉声を収めている

『15歳の寺子屋 ひとり』があり、

この本から「文章を書く」に触れている部分を

以下抜粋しました。

 

(引用ここから)

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●・・・なんだかうまくいえない。いうには言ったけど、相手にわかってもらえた気がしない。もやもやしてやりきれない気持ちになることが、みなさんにもきっとあるでしょう。それで僕は、自分がいいたかったことを紙に書いて残すことにした。せめて文字にして残そうと。そうすれば、あとで自分で見て「あの時はこうだったな」とわかるし、もしかしたら人が読んで「ああ。こういう気持ちなら自分にもよくわかるよ」って思ってもらえるかもしれない。


ぼくは、みなさんと同じ15歳か16歳の頃、詩を書き始めました。友達とガリ版で詩集をつくったりしてね。書いたからといって「こう読め」とか「こう思え」と人に強制することはできません。そう考えると、書いたものを誰かが読むということは、偶然と偶然が出会うことなんですね。偶然と偶然が出会って「あなたのいっていることはすごくよくわかるよ」と共感してもらえるかどうかは、ほんとに、はかない希望です。僕は、そういうはかない希望でもってものを書きはじめて、いつの間にか物書きが仕事になっていました。


詩や文学は好きでしたけど、高校は工業高等学校に通って化学の勉強をしていましたから、戦争というものがなかったら、きっとそのまま技術者になっていたと思います。書くことは、言いたいことがうまく伝えられない自分の慰めのために始めたことでした。それが仕事になってるなんて、今でも不思議な気がします。

 


●・・・みなさんも、ためしに自分が思ったことを紙に書くということをやってみるといいです。別に誰に見せるわけでもないんだから、きちんと書かなくたっていいんです。へんにかまえる必要もないし、好き勝手にわけのわからんことを書いてみるといい。そうすると、〈話し言葉〉と〈書き言葉〉っていうのはまるでちがうものだということが、きっとよくわかると思います。


ふだんはまったく意識してないと思うけれど、書くことと、話して相手にそれを通じさせようとすることはまったく別のことなんですよ。〈書き言葉〉っていうのは、何か得体の知れないところがある。書いてみると、自分でも気がついていなかった自分自身の気持ちがわかることがあるし、それをもっと深く掘り下げていくこともできる。〈話し言葉〉が相手に何かを伝えるための道具だとしたら、〈書き言葉〉は自分の心の中に降りていくための道具だといってもいい。


今の学校は、どうも〈話し言葉〉を重視している気がします。意思の疎通のための言葉、人と議論するための言葉、コミュニケーションのための言葉の大切さは教わるみたいだけど、〈書き言葉〉については、単純に作文を書くってくらいしか教わらないんじゃないですか。そのせいで、かえって書くことが苦手になっちゃったという人もいるんじゃないかなあ。


僕は話すことに苦手意識があるので、アナウンサーみたいによどみなくしゃべる人には憧れがあります。だけど、すらすらとしゃべることができるからといって、全部が伝わるとはとうてい思えないんですね。流暢にしゃべることができる人は自分がいったことが相手にどんなふうに伝わるかに案外無頓着だったりして、こりゃあ、危なっかしいなあと思うことがけっこうあります。どんなにしゃべるのがうまい人でも、伝えきれないものはどうしたってあるはずです。樹でいったら、地面の上に見えている枝葉じゃなくって、根っこの部分が言葉にもあるんですよ。地面の下の見えてない部分がね。

 

 

●・・・つまり、あなたが「自分はひとりだな」と思うようになったのは、自分以外の誰かを意識するようになったからともいえる。人と比べて自分はどこがどう同じで、どう違うのかをいろいろと考えるようになって、自分のことがだんだん見えてきたからでもある。だとしたら、相手にうまく伝わらない、誰ともわかちあえないその気持ちこそが〈自分〉じゃないですか。自分でもわけがわからない、もやもやしたその気持ちのなかにこそ、自分自身をもっと深く知るための手がかりが潜んでいる。書くことはそれを掘り起こすための方法でもあるんですよ。

人にわかってもらうのは二の次でいいんです。いわなくったっていい。それを誰にもいわないでも、誰かにわかってもらわなくてもいいから、自分がなぜそう感じるのか、自分の考えを自分で知っておく。書くことはそういうときの手助けになるはずです。自分と向き合うための方法でもあるし、そうやって自分自身の実感を繰り返し探っていくことで、心が鍛えられるというのかな。

あの人は何も言わないけど、本当は気持ちの中で自分によく問いかけ、自分でよく答え、それを繰り返している。それは言葉に表さなくても、行動に表さなくても、心のなかでそういうふうにしてるってことがある。人は誰でも、誰にも言わない言葉を持っている。沈黙も言葉なんです。沈黙に対する想像力がついたら、本当の意味で立派な大人になるきっかけをちゃんと持っているといっていい。


僕はうまく伝えられなかった言葉を紙に書いた。届かなかった言葉が、僕にいろんなことを教えてくれた。自分や誰かの言葉の根っこに思いをめぐらせて、それをよく知ろうとすることは、人がひとりの孤独をしのぐときの力に、きっとなると思いますよ。

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(引用ここまで)

 

この本はもう100回近く読んでいるんですが、

読み直してみて、

自分自身と向き合い、自分の根っこを探るように、

心の中に降りていくための〈道具〉として

「書くこと」を活用する・・・そんな書き方を

これからも続けて行こうと改めておもいました。

 

 

また、この本については、ちょうど1年ほど前に、

本の内容を整理した記事を投稿しています。

 

本の全体像を掴む手がかりに

なるかもしれないので、

未読の方は、次の記事も併せてご覧ください。

吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』の内容を整理してみて

 

あと、この本にライターとして関わられた

瀧晴巳さんが吉本さんが亡くなられた直後に

書かれたエッセイが見つかったので、

それもシェアしておきます。

吉本隆明さんのこと。『十五歳の寺子屋 ひとり』に寄せて。

 

ちなみに、この本の後に、

同じ編集者によってつくられ

吉本さんが亡くなられた後に出版された

『フランシス子へ』についても

旧ブログで紹介しました。

吉本隆明『フランシス子へ』

フランシス子&吉本さんの写真を発見! 

 

 

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