事実を柔らかく受け止められる心はどうしたら育つ?(その2)
2023/07/19
昨日投稿した記事の続きです。
一昨日このblogに投稿した
を読んだ塾生の一人からもらった
事実を柔らかく受け止められる心は
どうしたら育ちますか?
という質問に対しての、
わたしなりの回答を書いています。
らくだメソッドの学習が
事実を柔らかく受け止められる心が育つことに
どんなふうにつながっているか
という話なんですが。
たとえば、その人の認知そのものに
働きかけることが
行動変容を促す可能性があることについては、
精神療法のひとつである
認知行動療法に近いと言えるかもしれません。
過去の塾生のなかには、
らくだメソッドで学習しているうちに
鬱症状が寛解したり、
不登校だった小学生が
ある日突然「ぼく、学校に行く」と言い出したり、
日々生きづらさを感じていた人が
生きるのが楽になったということが
起きたことはありました。
でも、それはあくまで結果論にすぎないというか
因果関係のわからない「可能性」でしかなく、
わたしは医師でもカウンセラーでもないので、
治療行為にあたることはできませんし、
「これをすれば治ります」と言ってしまうと
医事法違反になってしまいますから、
わたしのできることはあくまで
学習に対するアドバイスの範疇を
超えられないことはもちろん、
現実には、個別に異なるきめ細かな対応や、
対話的関わり、継続的ケアが必要になってきます。
不特定多数の方がアクセスする可能性がある
このようなblogに
記事を書くという形のアクションでは、
書ける内容、範囲にも自ずと限界があって、
総論的、原則的な話に加えて、
実践するとっかかりのヒントぐらいにしか
ならないとはおもいますが・・・。
さて、前置きがすこし長くなってしまいましたね。
昨日の記事では、
第1の重要ポイントとして
基準が明確にあること(結果がわかること)を
基準にとらわれずにやり続けること
という話を書きました。
小4で学習する2けたのわり算の話や、
高橋悠治さんのピアノ演奏の例なども出して、
手順を守ってゆっくり正確にやることの大切さを
強調したつもりです。
それで昨日同様、今日の記事の焦点となる
第2の重要ポイントについての結論を、
先に示しておきたいんですが
取り組むべき自己課題の全体像を見抜き、
できるところからアプローチする
ということです。
昨日の記事にも書いたように、
なぜ、最初は「ゆっくり正確に」なのかといえば、
これもまさに〝順序〟の問題であるわけですが、
鈍行の普通列車に乗れば
沿線の風景が細かいところまで見えるのに、
超特急の新幹線に乗ったときには
それが見えなくなってしまうのと同じで
ゆ〜っくりやらないと自己課題も見えてきません。
アタマで手順を完璧に理解していたとしても、
その通りに身体は動いてくれないでしょう?
ゆっくりやれば、なぜそうなのかが
ちゃんと見えてきますよ。
つまり、ある程度の速さでできるようになることは、
いまできることに最善を尽くした結果として
向こうから訪れてくることであって
自分から意図して目指すことじゃないんですね。
そもそも、何のためにそうしているかと言えば、
できたか、できなかったかを
自分で判断するための
〝めやす〟にすぎないわけですから。
よって、速さということよりも、
自分に見えていない盲点が存在することを知り、
気づいていない癖を自覚することなど、
自分を知ることの方が
優先順位が高いと考えるからです。
それに、正確な手順が身に付いていない段階で
速くやることを意識してしまうと、
不自然な動きを身体が覚えてしまって、
間違いを起こしやすいし、
それまでの自分の癖を自覚するどころか、
新たな癖を身につけてしまいかねませんから。
一昨日の記事に、
あるべき姿や理想を強くもつ人には、
できない自分の現状をそのまま受け入れる
現実視ができない傾向がある
ということを書きました。
ようするに、なぜ現実視ができないかと言えば、
その根底には、
できない自分を許せない〝怒り〟があるわけで、
そして、その「許せない」とおもっている主体者は、
他でもない自分自身というわけですから、
そこにはおそらく〝焦り〟もあることでしょう。
いったい何を焦っているのか、
何を急いでいるのか・・・
そして、その自分の怒りや焦りが
自分の何に対して向けられているのかを
ゆっくりしっかり観察することで、
きっと大切な何かが見えてくるのではないかと。
6/16〜17に投稿した記事
・改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その11)
・改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その12)
に書いたんですが、
その記事に引用した
加藤哲夫さんの「自分探しはらっきょうの皮剥き」
に書かれていた
〝目隠し構造〟というのは、
現状の自分を見たくないがために、
「現状の自分」と「あるべき姿」の乖離が
つくりだしてしまうわけですね。
でも、あたりまえのことですが、
目隠しをしても、しっかり目を開いていても、
自分は自分です。
自分に対して、目隠しをしたからといって
特別な自分になれるわけでも、
何かが変わるわけでもありません。
次のつぶやき考現学も読んでみて下さい。
つまり、あるべき姿というものを絶対化せずに、
自分の中で相対化できるかどうかに
かかっているわけですが、
自分の内部での葛藤というのは
そのほとんどが、ひとり相撲であって、
ほぼエネルギーのロスでしかないんですね。
まあ、わかっているはずなのに
そうしてしまうというのが、
人間の〝心〟というものの不合理さでも
あるわけなんですが。
その人間の心というものをどうやったら
把握できるかということを考える上で
わたしがこれまで一番参考になったのは、
吉本隆明さんから学んだ
人間がつくりだす3種類の幻想領域という話で、
これはそのまま対人関係の問題でもあります。
くわしくは次の記事に書いたので、
未読の方はご覧ください。
つまり、自分自身との関係も
大事な人間関係のひとつであり、
寺子屋塾で実践しているセルフラーニングは、
自分自身との折り合いのつけ方について
学ぶことでもあるので。
そして結局、〝順序〟ということを意識するなら、
自分自身との人間関係を調整することと
他者との人間関係を調整することと、
どちらも同じように大事なことではあるんですが、
どちらから始める方が得策だとおもいますか?
ということです。
以前、米光一成さんの言葉を紹介した記事を
今日の名言シリーズで書いたことがあるんですが、
自分のことは自分が一番わかっているという
錯覚に陥っている人が
どうもすくなくないみたいなんですね。
事実を柔らかく受け止める心を
いかに育てるかという点においても、
自覚が十分に伴っていない自己認識という
不確かなモノに振り回されない姿勢というか、
自分の内側に矛盾や分裂を認める能力は、
大切なのではないでしょうか?
この続きはまた明日に!
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