自立してるかどうかは関係性できまる(つぶやき考現学 No.29)
2023/10/24
自分が自立しているかどうかは、
まわりの人との関係性の中で
はじめて決まることとするなら、
自分ひとりだけで考えても
答えが出せない問いだ。
なぜなら、この世には、
自分ひとりだけの力で生きている人など
ひとりもいないのだから、
すくなくとも、
すべてのことが自分ひとりで
できるようになることが
自立ではないだろう。
それに、自分の生き方について、
主体的に選択しているようでいて、
その実は、他者からコントロールされ、
強制され、無意識のうちに
選択させられていることも
少なくないように感じるからだ。
だから、自分のことは自分ですることを
あくまで基本原則としながら、
自分に何が足りないかを自覚し、
その足らない部分について、
まわりの人の力を上手に借りられる人を
自立している人というのではないだろうか。
人間はつながりの中で生きていることを
日々自覚しながら生活していることや、
自分のことを
自分ひとりだけで決めているのでなく、
人と人との関わりの中で
自ずと決まっていくとおもえることを
自立というのではないだろうか。(1998.2.27)
※井上淳之典のつぶやき考現学 No.29
COMMENT:もう25年も前に書いた詞ですが、
今も考えていることはあまり変わっていません。
少し前に教室で塾生の1人に
「自己決定力のある人というのは、
自分だけで決めていない人なんですよ」と話したら
キョトンとした顔をしていました。笑
「そもそも『個人』という言葉は、
『社会』の存在を前提につくられた」という話を
聞いたことがあります。
自分ひとりで決められるようになるといっても、
まわりとのつながりの存在を前提とせず、
その存在が意識できないのであれば、
それは単なる手前勝手であって、
自己決定力などではないとおもうのですが。
つまり、「自分のアタマで考える」ということは、
「自分のアタマだけで考えない」ということでも
あるんじゃないとおもうのですが、
ますますわけがわからなくなりましたか? 笑
でも、「自分とは何か?」を問うことを抜きに
「社会とは何か?」を考えることなんて、
できないんじゃないかとおもうんですが。
たとえば、社会の存在を意識することなしに
各々が「個の自立」を追究していったら、
いったいどういうことになるでしょうか?
他者との関わりのないところで、
個々の幻想ばかりがひとり歩きして肥大化すれば、
人と人との関係はますます稀薄になり、
さまざまなつながりを
結果的に分断してしまうのではないでしょうか?
そして、このことはまさに、
「失われた30年」という言葉に象徴される
この30年の日本社会の現状のように感じるのは
わたしだけでしょうか?
人と人との関係性は目には見えないので、
自分ではない他の人たちが
目の前の事実をどう認識しているかは体感できず、
想像することしかできません。
でも、すくなくとも「自立」と「孤立」とは
似て非なるものであることを
感じられる自分でありたいとおもうのです。
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