寺子屋塾

一念(今村仁司[編訳]『現代語訳 清沢満之語録』より)

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一念(今村仁司[編訳]『現代語訳 清沢満之語録』より)

一念(今村仁司[編訳]『現代語訳 清沢満之語録』より)

2024/01/06

昨日1/5から中村教室が始まっています。

 

寺子屋塾は〝教えない教育〟を

看板に掲げていますし、

個別学習、個別対応の教室なので、

指導者のわたしが塾生たちに

一方的にレクチャーするスタイルをとっていません。

 

「何を聞いてもイイ」というルールがあるので、

塾生からの問いから

対話がスタートすることもあれば、

「聞かれてなくても話してイイ」というルールも

あるので、問いの形をとっていなくても

構いませんし、

わたしの方から話題を提供したり、

塾生に対して問いかけたりすることもあります。

 

塾生たちとの対話のテーマは本当に多様で、

その多様さはこのブログで

わたしが書いている内容の多様さにも

表れているようにおもうのですが、

そうしたなかにあって、

〝読書のガイド役〟というのは、

塾生たちからわたしに対して期待されている

重要な役割のひとつと言ってよいでしょう。

 

教室の壁面にある

らくだメソッドのプリント棚のまわりには、

教育や学習関連の本だけでなくマンガから哲学書まで

さまざまなジャンルの

書籍、雑誌等が置いてありますし、

1年365日、Facebookでこの本棚にある本を

1日1冊ずつ紹介したこともあります。

 

また、中村教室を開いた当初から、

塾外でも参加出来る公開イベントとして

読書会を継続的に開催してきたこともあり、

年末年始に1年間の読書ふりかえりを行うことも

そういう流れから10年以上にわたって

習慣化してきました。

 

一昨年2月から昨年1月末までの1年間は、

投稿するblog記事のカテゴリを

曜日で決めていたので、

1週間に1回は読書の話題を書いていたんですが、

この1年ほどはそれを無くしたため、

別カテゴリの記事のなかでも、

本の紹介をすることはあっても、

純粋に本のことだけを取りあげた記事は

少なくなっていたように感じています。

 

そんなこともあって、今年のお正月には

これからこのblogでは、読書の話題にもうちょっと

力を入れていきたいなということを考えていました。

 

 

さて、昨年12/30から4回にわたって

2023年のふりかえり「年間読書ベスト24」を

投稿してきましたが、

そこで取りあげた本は、為末大さんや阿部謹也さん、

方条遼雨さんの本のように、

blog記事で何度も取りあげてきた本もあれば、

そうではない本もありいろいろです。

 

24冊に1冊ずつ

わたしなりのコメントは書いたものの、

それだけではその本の魅力を書き切れないものも

すくなくありません。

 

それで、今日から何日かにわたって、

これまでにこのblog記事で取りあげたことが

ほとんどない本について、

内容を紹介する記事を書いてみようと

おもいたったんですが、

今日は冒頭タイトルにあるように

1/4に投稿した(その3)の記事でとりあげた、

『現代語訳 清沢満之語録』です。

 

わたしが清沢満之のことを最初に知ったのは、

安冨歩さんの『合理的な神秘主義』だったんですが、

取りあげられた24人のなかに

清沢満之が入っていました。

 

次の図はこの本の129ページに出て来ます。

それにしても、前のコメントに書いたんですが、

ウィトゲンシュタイン「語りえぬもの」「神秘」や

マイケル・ポランニー「暗黙知」と密接に関連し、

しかも両者に先行し凌駕しているという点において

日本最初の独創的哲学者であり、

以後、清沢に匹敵する独創的な思想家は日本に

残念ながら出現していないってスゴクないですか?

 

満之ゆかりのお寺・西方寺は愛知県碧南市にあり、

満之は名古屋の出身で、

こんな日本人がいたんですね。

 

しかも39歳という若さで亡くなったとは・・・

 

 

それで今日は、『現代語訳 清沢満之語録』より

「一念」と題された文章をご紹介します。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「行さき、むかひばかりみて、足もとをみねば、ふみかふるべきなり」という昔の人の教訓がある。これにはよほど深い意味があるとおもう。
われわれが道を行くときに、遠方ばかりみていたなら、あるいはつまずき、あるいは倒れ、あるいは難儀なところにおちいるようなことがおきる。それゆえ、われわれはまず自分の足もとに気をつけなくてはならない。


世の中には、自分のことは少しも考えないで、自分以外のことばかりをあれこれと批評しているものがいる。このような人物は、じつに足もとをみないこと、はなはだしいものだ。このようなものは、人間の旅路において、必ずつまずき倒れる。ささいな変事にであっても、すぐにうろたえさわいで、そのためにかえって悶え苦しまなくてはならない。これはきわめて愚かなことである。われわれはこのような境涯におちいってはならない。


これとはちがうタイプの人がいる。このような人は自分以外のことばかりに目を注いではいない。自分以外のことよりは、まず第一に自分の基礎を定めなくてはならないと心得ている。けれどもその考えが遠く将来にばかり向かっている。将来、私はこういう事業をしよう、ゆくゆくはわしはこういう人物になろうと、いつも心が将来にばかり注がれている。これは前のタイプのものに比べてみるときには、とにかく自分以外のものだけをみるのではなくて、目をまず自分の上にむけたのであるから、かなり進んだ考えではある。けれどもやはり足もとをみていない。遠い将来ばかりをみていて、近い現在を忘れている。だからこのタイプの人も、前のタイプの人と同様に、ただちにつまずき倒れるおそれがある。ことにあえば、うろたえさわいで、苦悩のなかに沈むにちがいない。われわれはこのような境涯にいてはならない。とくに道を修めるものは、ここのところを十分に気をつけなくてはならない。


ところが、世の中には不幸にも、道を修めようとするものの間で、このような不十分な考えをもっているものが少なくない。これらの人は現在をみないで、将来だけを望んでいる。精神の自由、得脱〔煩悩を断じて菩提を得ること〕または満足をぼんやりと遠いゆく末に望んでいて、それを現在に得ようと努力しない。精神的に享受できる幸福と妙楽を、茫漠たるはるかな将来にのみ眺めていて、それをただいまの現在に得ようとはしない。これはすこぶるよろしくない考えである。なぜかといえば、いまのわれわれは将来に立っているのではなくて、現在に立っているからである。もしわれわれが将来に立っているものであれよろしく将来を望み、将来に依頼するべきである。けれどもわれわれは現在に立っているし、現在に住しているのだ。現在に立ち、現在に住んでいるのが、将来を自分の立場としたとして、それが何の役に立つというのだろうか。現在が続いて将来となる。現在を離れて将来はない。しかるに将来を望んで現在をみないものは、現在を捨てて将来に立とうとするものだ。その人の精神はその立場をまったく現在においていない。その人は現在に安住の基礎をもっていない。

 

ところが現在における種々の事情の変動はその人を四方から襲いかかり、少しも休まない。この人はどうしてこの事態に対処することができようか。まさにここでこの人はつまずくにちがいないし、倒れるにちがいない。種々様々な苦悩におちいり、不平不満から人を怨み、天を恨み、つねに不安煩悶のおもいで暮らさなくてはならない。このように現在において苦しみ悶えているものが、いつになったら安寧満足の境地に進むことができるのだろうか。それはきわめておぼつかないことである。このように将来だけを遠望し、現在をかためない人は、じつに浮き雲の上に落ち着こうと企てるようなものだ。いうまでもなくそんなことはまちがいである。われわれはこのようなまちがいを離れて、いたずらに将来ばかりをみないで、まず現在の足もとを踏み固めなくてはならない。外の事柄や外の物がどれほど強かろうと、けっしてそれによってくずされない堅固な現在の基礎を得なくてはならない。つまりわれわれは現在の一念を確固たるものにしなくてはならない。


一念とは何だろうか。仏教では、これを種々に説明して、百一の生滅を一刹那と名づけ、六十の刹那を一念となすといった説明もあるが、ここではそうした説明は必ずしも必要ではない、一念とは、きわめて短い時間の間に、われわれの精神の上におきるひとおもいである。この現在のひとおもいを堅固にしなければならない。遠い将来を望まず、はるかなゆく末にたよらず、ただこの現在の一念にこそ、きわめてたしかな基礎を築かなくてはならない。


けれども、これがなかなか容易なことではない。なぜかといえば、われわれの精神は動きずめに動いていて、変わりずめに変わるし、猿が踊り狂うよりもはげしく、風が荒れまわるよりもはやく、たえず転じ移っているからである。このように変動してやまない精神にたいして、われわれはどのようにして不変不動の立場を与えることができるのだろうか。


これを実行するためには、われわれのよりどころを定めなくてはならない。われわれの精神はつねにそのよりどころに従うものである。われわれの精神がつねに変動するものにたよっていると、われわれの精神も変動する。われわれの精神がまったく変動しないものをよりどころにするなら、われわれの精神は変動しない。ところがこの世俗世間における相対有限の事物はことごとく変動する。したがって、この相対有限の事物にたよって成り立つ種々の普通の知識や感情や意志などは、すべてみな変動する。それゆえわれわれは、 現在の自分の一念をきわめて堅固にしようとおもうなら、ぜひとも相対有限の事物をたよりにしてはならない。またその相対有限の事物に依存して成り立っている通常の知識や感情や意志などをたよりにしてはいけない。


さらに一歩を進めて絶対無限に接しなくてはならない。すなわち、この現世的な区別界の本体をなす絶対無限の平等界をみつけなくてはならない。われわれの精神がこの本体をみつけるにいたれば、この本体は唯一であり不変であるから、この本体をみてこれに接した私の一念は、けっして変わることがないし、動くこともない。天はくだけ、地は破れても、これだけは変わらぬという堅固な境地に住することができる。仏の教えではこれを、一念の信心とも、金剛堅固な心ともいわれる。その一念の堅固さを金剛〔ダイヤモンド〕の堅さに喩えたのである。われわれは金剛のごとく堅固な一念の信を得て、はじめて自分の足もとを踏みかためたといえるのである。こうしてはじめて、永劫の末までもつまずくことがないし、倒れることもない安心な旅路を進むことができる。


ただしこの絶対無限の体は、相対有限から遠く離れてあるのではない。波が水から離れないように、鏡の上の花の影が鏡の面を離れないように、この無限の体は区別や差異のなかの事物と融即して存在する。それはけっして有限な事物と隔離することはできない。だからわれわれの精神がこの無限の体を認めるのは、区別・差異の事物と融即しているように認めるのである。したがって、われわれの精神においても、変わり動く精神のなかに融即しつつ、不変不動の一念を得るのである。変動する精神をまったく討ち滅ぼしてからこの一念を得るというのではけっしてない。だからわれわれの精神はまったく不変不動の冷灰枯木のようになるのではない。つねに変わり、つねに動き、つねに働きながら、しかもそのなかに不変不動のおちつきを得るのである。手短にいえば、いままではつねに不安のおもいや苦悩のおもいで苦労してきたものが、堅固な一念を得たときから、安心し、落ちつきを楽しみながら働くことができるようになる。

 

どれほど心が動こうとも、われわれはこの現在一念の堅固な土台に立って動き、どのように精神が動こうとも、この現在一念の金剛の地盤に立って動くのである。外界の誘惑は猛火のごとく自分を襲ってこようとも、私は迷わされることはない。種々様々の状況変動が、泰山が崩れるがごとくわが身の上をおしつぶしにかかろうと、私はうろたえることはない。つねに寂静な安住のすみかに立って、しかもその上で自由自在の働きをし、苦しみなく悩みなく、自分の事業に努力することができる。これこそが、まさに現在における金剛堅固な一念を得たことによって到達した境涯なのである。

 

今村仁司[編訳]『現代語訳 清沢満之語録』より「一念」


※〔〕内の文言は原文にない今村さんによる註釈

 

【参考記事】

松岡正剛・千夜千冊1025夜 藤田正勝・安富信哉『清沢満之』

 

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●旧ブログに投稿した2021.9.1〜2023.12.31

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