そもそも〝自分で決める〟とはどういうことか?(その1)
2024/02/04
1/25に投稿した記事
の後半部でケシーさんが、
「誰の言うことも聞かないこと」って
話されてましたね。
今日の寺子屋塾ブログは、それが
〝自分で決める〟ってことに関係していると
気づきましたか?って話題についてです。
つまり、ケシーさんの言う
「誰の言うことも聞かない」って話と、
寺子屋塾の〝教えない教育〟というのが
実はつながっているってことなんですが、
その両者がつながっていることに、
気がついた方はいますかってことなんですが。
「自分の外にある、自分の感覚を無視した
外側の考え方を採用することで、
みんな白アリ化していく」と
ケシーさん、言われてましたね。
まあでも、それって、
たしかにその通りなんですが、
一面では、ある程度やむを得ないところも
あるんじゃないかとおもうんです。
つまり、そうなってしまう理由のひとつとして、
わたし自身を含め、わたしたちの多くが
子どもの頃に通っていた学校、
日本では、義務教育期の学校教育において、
先生が生徒を〝教える〟やり方が
中心になっていることは挙げられるでしょうから。
結局、教えるときには、先生の側では
集団をつくって一斉に授業する方がやりやすいし、
生徒の側でも、
先生の言うことに対しては、
そのまま従うことが良いことだと
おもってしまいがちなんですね。
つまり、このやり方には利点も多いけれど、
どんな場合においても、
先生の言っていることが
必ずしも正しいという保証などありません。
だから、先生の言うことを
生徒が鵜呑みにするばかりだと
自分のアタマで考える力が育たなかったり、
自分で判断したり、自分で意見を述べる力が
身につかなかったりするという
リスクを抱えることにもなるわけで。
さらには、思考力や判断力の欠如が昂じて、
まわりの環境に合わせて、
自分の行動や考え方を変える程度が度を越し、
過剰適応といわれる状況を招くと、
うつ病やパニック障害といった
二次障害まで引き起こしかねないと
指摘している識者もあるようです。
もちろん、そうした話は極端な例であり、
うつ病やパニック障害の原因のすべてが
教える教育にあると見做しているわけではないし、
わたしは教えるという行為そのものや、
教える教育自体を
否定的に捉えているわけではありません。
家庭や学校では難しいことやできないことを
学習できる場やツール、チャンスを
提供できるサードプレイスが
寺子屋塾ですから、
〝教えない教育〟をモットーとしながら、
先生の教えに従おうとするのでなく、
「今の自分を観て、自分で決め、自分でやる」
セルフラーニングという学び方を
提唱し実践しているわけです。
ただ、ケシーさんも
「自分が白アリを演じてることに
自分で気がつくのって至難の技なんです」って、
言われてましたが、
この〝自分で気がつく〟〝自分を観る〟ってのが
なかなか簡単でないんですね〜
その簡単でない理由をちゃんと説明しようとすると
それだけで10回分ぐらいの記事を
書かなければいけなくなるので、
端的に結論を3つだけ挙げておくと、
ひとつは、自分のことは自分でわかったつもりに
なってしまいがちだということ。
(→本当は自分が自分を一番わかっていない)
ふたつめは、
人間のアタマが身体を動かし、
大脳が身体をコントロールできていると
勘違いしていること。
(→本当は身体が先で脳が後から認識するだけ)
そして、みっつめが、
自分を自分でどのように観察すればよいか、
その方法論については、
研究途上にあってまだ確立されたものでないこと。
(→確立されていたらこの世はもっと生きやすい)
細かく挙げていけば
まだまだいろいろあるんですが、
大きなところはこの3つでしょう。
つまり、親や先生の言われたことだけを
いつもやるようにしていれば、
問題やトラブルは発生しにくくなるかも知れません。
でも、それでいいの?ってことなんですね。
親や先生にしたって、神さまでなく人間ですから、
当然、見えない盲点や死角を抱えているわけで。
問題やトラブルが起きないことのみを善しとして、
親や先生が予め考えた枠組みの中だけで
生きるってこととは、
そういう中で人間としての成長、成熟が
難しくなってしまうというリスクを
同時に抱えることでもあるわけです。
だから、自分で決めて、自分でやろうとすれば、
うまくいかないことがどんどん起きてくるし、
ほとんどの人が、その通りには
できない体験をすることになるんですが、
その「できない体験が大事!」という
わたしが教室でも常々口にしている言葉の真意は、
自分で決めるからこそ、できないからこそ、
その〝できない体験〟に
重要な意味や価値があるってことがわかってくるし
人間の心のなかで、
自分の意識でコントロール可能な領域なんて
ほんのわずかでしかないことに
自ら気づいて欲しいってことなんですね。
こうした体験をきっかけにしながら、
自己観察、自己理解の扉を開いた人には、
昨日投稿した記事で紹介した
篠田桃紅さんの
自分の行動に責任を持って考え、自分でやる。
それが自由で、
だから自らに由る(=因る、依る)という
字を書くのです。
という言葉も、
実感を伴いながら
響いてくるのではないでしょうか。
※この続きはまた明日