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カミュ「不条理と自殺」(『シーシュポスの神話』「不条理な論証」より)

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カミュ「不条理と自殺」(『シーシュポスの神話』「不条理な論証」より)

カミュ「不条理と自殺」(『シーシュポスの神話』「不条理な論証」より)

2024/02/22

昨日投稿した記事に関連して、

カミュの『シーシュポスの神話』より

一番冒頭に置かれている「不条理と自殺」を

紹介することにしました。

 

カミュの『シーシュポスの神話』は

「不条理な論証」「不条理な人間」

「不条理な創造」「シーシュポスの神話」

という4つの章に分かれています。

 

さらに、最初の章「不条理な論証」は

「不条理と自殺」「不条理な壁」

「哲学上の自殺」「不条理な自由」

中見出しのついた4つの部分に分かれていて、

「不条理と自殺」は最初に置かれています。

 

 

(引用ここから)

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不条理と自殺

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は3次元よりなるかとか、精神には9つの範疇があるのか12の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えなければならぬ。そして、ニーチェののぞんでいることだが、哲学者たるもの身をもって範をたれてこそはじめて尊理敬に値するというのが真実であるとすれば、そのとき、この根本問題に答えることがどれほど重要なことであるか――この答えにつづいて決定的動作が起るかもしれないのである――それが納得できよう。以上は心情では明白に感じられることだが、この明白さをさらに深くきわめて、精神にとって明瞭なものたらしめなければならない。

 

ある問題のほうが別のある問題より差迫っているということを、いったい何で判断するのかと考えてみると、ぼくの答えはこうだ、その問題の惹き起す行動を手がかりにしてだと。いまだかつてぼくは、存在論的論証の結果を理由としてひとが死ぬのに出会ったことがない。ガリレオは重要な科学的真理を強く主張していたが、その真理ゆえに自分の生命が危険に瀕するや、いともやすやすとそれを捨ててしまった。ある意味でこれは当を得た振舞いだった。その真理は、真理だからといってそのために火焙りの刑に処せられるだけの値打ちはなかったのだ。地球と太陽ど、どちらがどちらのまわりをまわるのか、これは本質的にはどっちでもいいことである。ひとことで言えばこれは取るにたらぬ疑問だ。これに反して、多くの人びとが人生は生きるに値しないと考えて死んでゆくのを、ぼくは知っている。他方また、自分に生きるための理由をあたえてくれるからといって、さまざまな観念のために、というか幻想のために殺しあいをするという自己矛盾を犯している多くの人びとを、ぼくは知っている(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬためのみごとな理由でもあるわけだ)。だからぼくは、人生の意義こそもっとも差迫った問題だと判断するのだ。この問題にどう答えるべきか。あらゆる本質的な問題について、本質的な問題とは、ときにひとを死なしめるかもしれぬ問題、あるいは生きる情熱を十倍にもする問題をいうのだが――おそらく思考方法はふたつしかない、ラ・パリス的な思考方法とドンキホーテ的な思考方法とである。このふたつのもの、つまり明証性と熱情的態度との均衡によってのみ、ぼくらは感動と明晰とに同時に至ることができる。それゆえ、じつに目だたぬものだが同時に悲痛きわまるこのような主題においては、精緻な学識にもとづく教壇的弁証法は、良識と共感との両者から発するより謙譲な精神の態度に席をゆずらねばならぬことが解るのである。

 

これまで自殺は社会現象のひとつとしてしか扱われなかった。しかし、いまここでまず問題にしようとしているのは、それとは反対に、個人の思考と自殺との関係である。自殺というこの動作は、偉大な作品と同じく、心情の沈黙のなかで準備される。当人自身もそれを知らない。ある夜、かれはピストルの引き金を引く、あるいは身を投げる。自殺をした不動産管理人があったが、ある日ぼくは、その男が5年前に娘をなくし、それ以来というものすっかりひとが変ったようになってしまった、そうした事情が「かれの内部にすこしずつ穴を穿っていったのだ」という言葉を聞いた。これ以上正確な表現はのぞめまい。思考をはじめる、これは内部に穴があきはじめるということだ。こういう発端に社会はあまり関係していない。飲み食いあらしてゆく虫は、外部の社会にではなく、ひとの心の内部にいる。ひとの心の内部にこそ、原凶たる虫を捜さなければならぬ。実存に真っ向から向きあった明察から、光の外への脱出へと至り、死をもたらすあの動き、それを追跡し、理解しなければならぬ。

 

あるひとりの人間の自殺には多くの原因があるが、一般的にいって、これが原因だといちばんはっきり目につくものが、じつは、いちばん強力に作用した原因であったというためしがない。熟考のすえ自殺をするということは(そういう仮説をたてることができないわけではないが)まずほとんどない。なにが発作的行為を触発したか、それを確かめることはほとんどつねにできない。新聞はしばしば「ひと知れず煩悶していた」とか「不治の病があった」とか書きたてる。一応もっともに思える説明である。だがじつは自殺の当日、絶望したこの男の友人が、よそよそしい口調でかれに話しかけたのではなかったか。その友人にこそ罪がある。そんな口調で話しかけられただけで、それまではまだ宙に浮いていた怨恨や疲労のすべてが、一時にどっと落ちかかることがありうるのだから。

 

しかし、精神が死の側に賭けたその正確な瞬間、そのときの微妙な足どりを見定めるのは困難ではあるが、それにくらべれば、自殺というこの行為の前提となるさまざまの結論を、この行為自体から描き出すのは容易である。おのれを殺す、これはある意味で、そしてメロドラマでよくあることだが、告白するということだ。生に追い抜かれてしまったと、あるいは生が理解できないと告白することだ。だが、この類比にあまり深入りはすまい、そして、普通よく使われる言い方に戻ることにしよう。そう、おのれを殺すとは、《苦労するまでもない》と告白すること、ただそれだけのことにすぎない。もちろん、生きるのはけっして容易なことではない。ひとは、この世に生存しているということから要求されてくるいろいろな行為を、多くの理由からやりつづけているが、その理由の第一は習慣というものである。みずから意志して死ぬとは、この習慣というもののじつにつまらぬ性質を、生きるためのいかなる深い理由もないということを、日々の変動のばかげた性質を、苦しみの無益を、たとえ本能的にせよ、認めたということを前提として。

 

とすれば、精神が生きてゆくのに必要な眠りを精神から奪ってしまうこの見定めがたい感覚とは、いったい、どのようなものなのか。たとえ理由づけがまちがっていようと、とにかく説明できる世界は、親しみやすい世界だ。だが反対に、幻と光を突然奪われた宇宙のなかで、人間は自分を異邦人と感じる。この追放は、失った祖国の想い出や約束の地への希望を奪われている以上、そこではすがるべき綱はいっさい絶たれている。人間とその生との、俳優とその舞台とのこの断絶を感じとる、これがまさに、〔なんとも筋道の通らぬ、およそ理というものに反したという感覚〕不条理性の感覚である。自殺を想ったことのある健康人ならだれでも、これ以上説明をしなくても、この感覚と虚無への熱望とのあいだには直接のつながりがあると認めることができるであろう。

 

この試論の主題は、まさしく、不条理と自殺とのあいだの関係、自殺がどこまで不条理の解決となるかというその正確な度合いである。この場合、ごまかしをしない人間なら、真実だと信じていることがその行動を規定するはずだということを、原則と認めることができる。とすれば、生存の不条理性の確信が、かれの行動を支配するはずだ。この種の結論は、はたして、理解不能の生存状況からできるだけはやくはなれることをひとに要求するものであろうか、明晰に、うわべだけとりつくろって悲壮に見せることなどしないでこう自問するのは、当然な精神の傾斜である。もちろんぼくはいま、自己自身と一致しようと身構えている人びとについて語っているのだ。

 

このように問題をはっきりした言葉で提出してみれば、これは単純でしかも同時に解決不能の問題と見えるかもしれぬ。だが、単純な問いはかならず同じく単純な答えを産む、明証性は当然の結論として明証性をもたらすと想定するのは誤りだ。先験的には、つまり問題のたて方を逆にしてみれば、ひとはおのれを殺すか、殺さないかのどちらかであるのと同じように、哲学的解決としてはふたつしかない、しかりという解決と否という解決のふたつしかないように思える。とすれば何とも明快すぎるほど明快な話になるだろう。だが、結論を出さずにたえず問いかける人びとのことを考えに入れなければいけない。ぼくはいま皮肉をいっているつもりはほとんどない。大多数の人びとがそうなのだ。同じくぼくは、否と答える人びとが、まるでしかりと考えているかのように振舞っていることにも気がついている。実際はこういう人びとは、ニーチェの基準を受入れていえば、どっちみち結局のところしかりと考えているのだ。反対に、自殺をする人びとが、じつのところ人生の意義を確信していたという場合もしばしばある。こうしたいろいろな矛盾は、いつでもあるものだ。いや、いまの場合においてほど、つまり論理をとおすことがつよく要求されるこの場合においてほど、矛盾があらわに示されたことはないということさえできよう。哲学の理論とそれを講ずる人びとの行動とをくらべあわすのは、いかにもおきまりの考え方のひとつであるが、それでもはっきりとこういわなければいけない、生に意義をあたえることを拒んだ思想家たちのうち、文学の領域内のものであるキリーロフ、伝説から生れたペレグリノ仮説に属するジュール・ルキエを除いては、この人生を拒否するにいたるほどまでに自己の論理をつらぬいたものはただのひとりもないのである。ご馳走をいっぱいならべた食卓につきながら自殺を讃美していたショーペンハウアーのことが、笑い話としてよく引合いに出されるが、これはじつは笑い話の種にはならないのだ。悲劇性をまじめにとろうとしないこうした態度は、それ自体としてはそれほど重大視する必要はないが、結局はそれで、当人自身の値打ちが解ることになるのである。

 

このような矛盾やこのような曖昧さにつきあたってしまって、それではいったい、生についていだきうる意見と、生からはなれようとして行う行為とのあいだには何の関係もないと思うべきなのか。いや、こんな方向にそって大げさに考えるのはいっさいやめよう。ひとりの人間が生に執着する、ここにはこの世のあらゆる悲惨よりもさらに強いなにかがある。身体の下す判断は精神の下す判断と等価のものであり、そして身体は滅亡を前にすると後じさりをする。ぼくらは思考の習慣よりまえに生きる習慣を身につけているのだ。毎日毎日ぼくらは死のほうへと向って走らされているのだが、そうやって走りつづけているあいだ中、身体のほうがつねにこのように精神より先行しており、その差はどうやっても取戻せないものなのだ。要するに、ここでいう矛盾の本質はどこにあるのか、それをぼくは《体をかわす》という言葉で要約したい。たくみに体をかわす、これはパスカル的な意味での慰戯以下のものであり、また同時にそれ以上のものでもあるからだ。〔自殺および不条理についで〕この試論の第三の主題をなす「たくみに体をかわす」じつは深刻な動き、それは希望である。死後にもうひとつの生を「ご褒美として生きられる」ようにならなければいけないと考えて、そのもうひとつの生を希望する、いやそれは希望というよりはむしろ欺瞞だ、生そのもののために生きるのではなくて、生を超えたなんらかの偉大な観念生を純化し、生にひとつの意義をあたえ、そして生を裏切ってしまう偉大な観念のために生きている人びとの欺瞞なのだ。

 

こうしてすべてが問題を混乱させるのに力を貸す。これまで言葉だけをあやつって、人生に意義を拒むことは、人生は生きるに値しないと宣言することに必然的に至るのだと思うふりをしてきたのは、むだではなかった。じつは、このふたつの判断のあいだには、否応なしにその両者を結びつけなければならなくなるような通約数などいささかもないのだ。だから、これまでいろいろな混同や断絶や不一致を指摘してきたが、それらに迷わされるのを、ただひたすらに拒むべきである。いっさいをしりぞけ、真の問題へと直進しなければいけない。人生が生きるに値しないからひとは自殺するのだ、なるほどこれは真理かもしれない、―――だが、これは自明の理なのだから、真理とはいっても不毛な真理である。しかし、このように生存を侮辱し、このような否認のなかへと投げこんでしまうのは、生存にはいささかの意義もないということから由来するのか。生存の不条理性は、ひとが希望あるいは自殺によってそこから逃れることを要求するものなのか。これこそ、他のいっさいをしりぞけて、あらわに描き出し、追究し、具体的に説明すべきことである。不条理は死を命じるか、これこそ、超然とした精神のあらゆる思考方法や戯れから切りはなし、他のいかなる問題よりも優先させるべき問題である。《客観的な》精神はどのような問題のなかにも微妙な差だとか矛盾だとか心理だとかを導入するすべを知っているが、そんなものは、いまのこの探究、この情熱のなかに入りこむことはできない。ここで必要とされるのは、不公平な思考、つまり論理的な思考、ただそれだけである。これは容易なことではない。なるほど、論理的であるということは、つねに楽にできる。が、極限まで論理的でありつづけるというのは、ほとんど不可能なことなのだ。こうして、みずからの手で死んでゆく人びとは、自分の感情の斜面にしたがって、その最後まですべり落ちてゆくのである。このように考えてくると、自殺についての考察は、ぼくの関心をそそる唯一の問題、死に至るまでつらぬかれた論理が存在するか、という問題を提出するきっかけをぼくにあたえてくれる。はたして、そういう論理が存在するのか、しないのか、それがぼくに解るのは、ぼくがここでその出発点を示そうとしている論証を、過度の情熱のとりことはならず、ひたすら明証の光のなかだけで辿ってゆくことによってしかない。それは、ぼくが不条理な論証と名づけるものだ。多くの人びとが、この論証をはじめた。だが、その人びとははたしてこの論証をきびしくつらぬいただろうか、ぼくはまだそれを知らない。

 

カール・ヤスパースが、統一的世界像を構成することの不可能性を明らかにして、「この限界はわたしをわたし自身へと導く、そうやって至りついた地点では、客観的視点など、わたしがただ表象しているにすぎないものであり、わたしはそんなものの背後に身を引いてしまうわけにはいかない。そこでは、わたし自身も他者の存在も、わたしにとってもはや客観的対象とはなりえないのだ」と叫んだとき、かれもまた、多くの他の人びとのあとをうけて、思考がその果てに到達した地点、あの荒涼たる乾ききった場所を呼び起しているのである。多くの人びとのあとをうけて、そう、そんなふうに言えるだろう、だがそれにしても、その人びとが、その場所から脱出しようといかに急いでいたことか。思考がゆらめくこの最後の転回点に到達した人びとは多いし、もっとも目だたぬ人びとたちのあいだにさえ、そういうひとは多い。このとき、かれらは自分の生命という、かれらのもっとも貴重な持ち物を放棄した。他の人びと、精神の人びとのうちでもまさに第一人者である人びともまた放棄した、だが、放棄したといっても生命を放棄したのではない、思考のもっとも純粋な反抗のうちに、かれらは、思考の自殺を実行したのである。しかし、真の努力とは、それとは反対に、可能なかぎりきびしく思考をつらぬいて、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討することなのである。不条理と希望と死とがたがいに応酬しあっているこの非人間的な問答劇を、特権的な立場から眺めるためには、粘りづよさと明徹な視力とが必要である。そのとき、この基本的でしかも同時に微妙な舞踊について、精神はそのさまざまなフィギュアを分析し、つづいてそれを明示して、みずからそれをふたたび生きることができる。

 

アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』「不条理な論証」より


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(引用ここまで)

 

コテンto名著 というwebsiteで

「不条理の論証」の4つの中見出しについて

そのエッセンスをふまえた解説文が読めます。

ご参考まで!

 

カミュの『不条理の論証』(1)不条理と自殺 

 

カミュの『不条理の論証』(2)不条理な壁 

 

カミュの『不条理の論証』(3)哲学上の自殺 

 

カミュの『不条理の論証』(4)不条理な自由 

 

 

※冒頭の写真はカミュの墓

 

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