老子は形なきものの形を見、声なきものの声を聞くことを教えた最初の人
2024/03/24
諸子百家といわれる古代中国の思想家のひとり
老子について書いているんですが、
今日もその続きです。
老子という人物が本当に実在したのかどうか、
不明な点も多いため、
神話上の人物とする意見まであって
確定していません。
それでも、『老子道徳経』に書いてある内容は
非常に高度な精神性をもっていることは確かで
道教(道家)の祖とされています。
その一昨日の記事では『老子道徳経』から
第47章を紹介し、
昨日投稿した記事では
わたしが老子を読んでみようと
おもうようになったきっかけのひとつ、
梅棹忠夫さんの本に出会ったことについて
『わたしの生きがい論』を紹介しました。
老子がわたしたち日本人に与えた影響も含め、
梅棹忠夫さんを通じて得た
老子的な世界観など、
わたしが梅棹さんから学んだことが何だったかを、
記事の最後には過去記事のリンク集も整理して
明らかにしたつもりです。
さて、本日の記事のメインコンテンツは、
福永光司さんの『老子』注釈書に付された
解説文のからの抜粋です。
ここには東洋哲学、東洋思想の原点というべきものが
たしかに言語化されているように感じるので、
まずは福永さんの文章を
じっくり味わいながら読んでみてください。
(引用ここから)
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「東洋文化の根底には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものがひそんでいるのではなかろうか。我々の心はかくのごときものを求めてやまない」といったのは、西田幾多郎であるが(『働くものから見るものへ』の序文)、老子は中国において「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」ことを教えた最初の人である。
また、「人類を悩ますあらゆる災禍は、人間が必要なことを為すのを怠るところから生ずるのではない。かえってさまざまな不必要なことを為すところから生ずる」といい、「人がもし老子いわゆる〝無為〟を行なうならば、ただにその個人的な災禍をのがれるのみならず、同時にあらゆる形式の政治に固有する災禍をも免れるであろう」といったのは、トルストイであるが(『無為』 柳田泉訳)、人類の文明の歪みと危険性を警告し、人間の不必要ないとなみの徹底的な切り棄てを教えて、無為の安らかな社会に人類の至福を説いたのも、老子がその最初の人である。
老子において「形なき形、声なき声」とは、彼の哲学の根本をなす〝道〟を説明する言葉であった。そして彼のいわゆる〝道〟とは、形あり声ある一切のものが、そこから生じてき、そこにまた帰ってゆくこの世界の根源にある究極的な実在であった。人間を含む一切万物は生滅変化をくり返す有限の存在であるが、〝道〟は万物の生滅と変化を超えて久であり無限である。
有限の存在である人間が、悠久無限な実在であるこの〝道〟に根源的な目ざめをもち、その形なき形をじっと見すえ、その声なき声にじっと耳をすますとき、己れが本来どのような存在であり、何を為してゆけばいいのか、人間が本当の意味で生きるということは、いったいどのようなことであるのかが明らかになると教えるのが、老子の哲学の根本である。彼はそのために〝道〟がいかなる実在であるかをさまざまな言葉で説明する。人間の言葉で説明することのできないものが道であると前提しながらも、あるいは詩的な表現で、あるいは象徴的・譬喩的な言葉で、もしくは逆説的・否定的な言い方でさまざまに説明する。
「形なき形、声なき声」というのもその一つであり、「窈たり冥たるもの」「恍たり惚たるもの」「根源的に一つであるもの」などとよぶのもそれである。あるいはまた、「永遠に盈ちることのないもの」「限りなく疲れを知らぬもの」「万物を生み出だすこの世界の母」などとよぶのがそれであり、「大いなるもの」「あるがままのもの」「加工されぬ原木のごときもの」「まだ染められぬ白絹のごときもの」「人間のような欲望と知識をもたぬもの」「人間のするようなことは何ひとつしなくて、しかも人間には及びもつかぬ偉大な仕事をおのずからにしてやってのけるもの」などと説明するのがそれである。
老子の著作すなわち『老子』という書物の大部分は、このような〝道〟を説明する直接的・間接的な言葉で埋められている。『老子』という書物は何よりもまず、形なく声なき根源的な実在―――〝道〟を説明する哲学的な著作なのである。
形なく声なき道をさまざまな言葉で説明する 『老子』という書物はまた、それと併わせてこの道に目ざめをもつ者の安らかな在り方、道に目ざめをもたぬ者の危うい在り方を説明する。道に目ざめをもつ者とは、老子において「聖人」とよばれ、あるいはまた「善く道を為むる者」「一を抱く者」「僕を全うする者」「静を守り柔を守る者」などとよばれる。老子の「聖人」ないしは「柔を守る者」は、一切万物の根源にある形なく声なき道に深い目ざめをもつから、すべての形あり声あるものが、やがてはそこに帰ってゆくのだという鋭い凝視をもつ。
彼は形あり声あるものが悠久絶対なのではなく、悠久絶対なのは形なく声なき道であることを諦観するから、すべての形あるもの・声あるものの「形」と「声」とに囚われることがない。形あるものに囚われることがないからまた、形あるものをよぶ「名」と「名」によって成り立つ世界に囚われることがない。彼にとって「名」の世界は、「形」の世界と同じく相対的なものであり、絶対的な存在ではあり得なかった。彼はただ道の世界を究極的に真実なるものと観るから、道の在り方をそのまま己れの在り方とする。
道は一切万物を生みいだしながら己れを創造者として意識することがなく、人間をも鳥獣をも、さらにはまた草木虫魚をも差別することがない。富める者をも貧しき者をも、善人をも不善人をも均しく受け入れてゆき、道の前ではあらゆる存在が平等である。道はまた一切万物を包容して何物とも対立せず、何物に対しても争わない。これを固執せず、みずからの功を誇らず、ひっそりとしてただ静かに、ゆったりとしてただあるがままである。
しかも万象の生滅変化、盈虚盛衰の中におのずからなる調和の理法を開示して、余り有るものを損し、足らざるものを補い、己れの理法に順うものに与し、己れの理法に背くものを懲らしめてゆく。いわゆる〝天の網は疎にして失わず〟である。だから聖人もまたこれの英知を外に輝やかさず、その光を和げて民衆と歩みを共にし、誇らず驕らず、これに囚われることがない。人間の言葉による価値づけや作為による秩序づけをすべて相対的なものとみ、世の人の美とするものも実は醜であり、善とするものも実は不善であることを看破する。不善の人をも善人と同じように受け入れ、不信の者をも信ある者と同じように受け入れ、名の世界に自縄自縛とならず、固定観念に釘づけされることがなく、自由に物を救い、また人を救ってゆく。
彼はまた己れを低きに置いて他人と勝を争わず、争わないということを己れの処世の根本とする。争わないためにはどのような汚辱にも耐え、どのような卑賤の地位にも甘んじ、凹地に溜まる濁水のように世の垢れを一身に引きうける。己れの生活をやかにし、奢りと泰りを棄て、文明の虚飾にまどわされず、盗賊の奢侈を求めない。これを神の座において他人の罪を裁くことをせず、死刑を否定し、暴力を憎み、戦争を人類最大の不祥事とする。要するに彼にとっての根本的な関心は、己れのふるまいが道の在り方にかなっているか否かにあり、道の在り方にそむき、もしくはそれを歪めそれを害なうものはすべて「偽」―――人為のさかしらとして厳しく否定されるのである。
老子は彼の聖人―――道に目ざめをもつ者をこのように説明する。そして、道に目ざめをもつ者すなわち聖人のこのような在り方を〝無為〟とよび、また〝徳〟(儒教の徳と区別する場合は特に〝上徳〟もしくは〝常徳〟)とよぶ。〝徳〟とは道の在り方を己れの身につけている、それを体得しているの意であり、〝無為〟とは己れのさかしらを棄て作為を棄てた在り方が道の本来的な無作為と同じであることをいう。
『老子』という書物の大部分はまた、このような無為の在り方を己れの徳とする者―――道に目ざめをもつ聖人の、世に処する知恵を説明する言葉で埋められている。あるいは陋巷(ろうこう)に褐(ぼろ)を被(まと)う名も無き民として、あるいはまた、天下に君臨する有徳の王者として、道に目ざめをもつ者のこの世的な地位はさまざまであるが、彼が有為の批判者・無為の実践者として、道の在り方をそのまま己れの在り方とする「一を抱く者」「柔を守る者」であることには変わりない。
老子の「一を抱く者」「柔を守る者」は、人間の作為が道の渾沌に崩れおちるところから人間の本当の「為」―――崩れない生き方を考える。形あるものに囚われないということが彼の処世の根本であり、形あるものに囚われないために形あるものの崩れるところから崩れない生き方を考えるのである。だから彼の無為の実践はしばしば水の柔軟さを典型とする。水は器にしたがって自由に己れの形を崩しながら、いかなる場合にも崩れない己れをもつ。
あるいはまた、彼の無為は女性の強靭さにしばしば譬えられる。女性は常にじっとしていて受けて立ち、受けて立ちながらしぶとい能動性をもつ。老子の無為とは、具体的には水の柔軟さと女性の強靭さとに憧憬する思想であった。『老子』という書物のなかには、水と女性の在り方を典型とする無為の処世が、生活の英知としてさまざまな言葉で説かれている。『老子』という書物は〝道〟を説明する哲学的な著作であるとともに、道に目ざめをもつ者の徳―――無為の処世を説明する実践的な著作なのである。
『老子』という書物は、このような〝道〟と〝徳〟―――一切存在の根源にある真理とその真理に本づく人間の崩れない在り方―――を主題として、老子という哲人の体験的な真理を書きとめた著作である。それは哲学的な著作であるとともに実践的な著作であり、根源的な真理を語りながら、同時に処世の英知について語る。深遠な哲理がいろいろな言葉で語られ、処世の英知がさまざまな言い方で説明されているが、老子の究極的な関心は、要するに「常の道」と「常の徳」―――無為自然の道と無為自然の徳について明らかにすることにあった。この書が古くから道徳経、すなわち真の道と真の徳とについて説明する不滅の古典とよばれているのも偶然ではないのである。
※『中国古典選10・老子(上)』解説より
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(引用ここまで)
福永さんは、老荘思想・道教研究における
第一人者といわれた中国思想史研究者です。
とはいえ、日本における老荘思想・道教研究は、
古くから行われていたものの、
儒教や中国仏教などの本流に比べれば
長い間、亜流というか末端の研究分野でした。
そうした状況のなかにあって、
福永さんは、1974年から5年にわたって
東京大学文学部で道教研究の講座を持つなど、
日本における老荘思想・道教研究を
中国についての学問分野のなかで、
対等な分野として独立するまでに至らしめた
一番の功績者といってよいでしょう。
わたしが持っている福永さんの『老子』注解書は
冒頭の写真のように文庫本2冊なんですが、
上巻の冒頭にある解説は
24ページほどある長いもので、
上に引用して紹介した文章は、
全体の1/5ほどの分量にあたります。
さて、明日もこれまでの流れで、
道教、老荘思想においては老子と並ぶ
もう一人の雄である荘子を取りあげる予定なので、
楽しみにしていて下さい。
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