幽体離脱を起こさせる脳部位がある?!(池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』より)
2024/03/29
3月なのに寒い日が続いていましたが、
今日は早朝の冷え込みもなく
昼間はとても暖かくて、
ようやく春本番の到来を感じています。
さて、昨日3/28投稿した記事に、
ナム・ジュン・パイクさんのアート作品
「TV仏陀」のことを紹介したんですが、
それを書きながら、
池谷裕二さんが2009年に上梓された
『単純な脳、複雑な「私」』に書いてあった
自己観察をめぐる諸々の話をおもいだしました。
わたしも昨年手に取って読んだ本なので、
2023年読書ふりかえり記事でも紹介したんですが、
池谷センセイご自身も、
本書はもっともお気に入りというか、
「わたしが出してきたすべての本のなかで、
一番思い入れがあり、一番好きな本」
とあとがきに書かれています。
池谷さんが母校の高校生たちに
レクチャーされたお話を整理してつくられた本で、
脳科学研究最先端の情報を扱いながら、
そのあまりのわかりやすさと話題の豊富さに
何度もビックリ仰天しました。(°□°;)
それで、「池谷さんの本、たくさんあるんですけど、
どの本から読んだらいいですか?」という
相談を受けたときには、わたしも
まず、この本からオススメするようにしていますし、
タイトルに書いたように、
人間の脳には、幽体離脱を引き起こすような
脳部位があるってことを含め、
自己観察をめぐる話題としては、
とてもインパクトのある興味深いことを
非常にわかりやすく話されているので、
それをご紹介したいとおもった次第です。
(引用ここから)
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2-40 自分か他人かを区別できなくなる
この「脳回路の使い回し」を別の観点から発展させよう。
脳の活動を人工的に操作すると、いろいろなことが起こる。たとえば、自分を他人だと勘違いするという実験がある。君らは自分が写った写真を見ると「ああ、これは俺だ」って認識できるでしょ。それができなくなっちゃうっていう話だ。
TMSという実験装置を使う。経頭蓋磁気刺激法とも呼ばれるんだけど、頭皮の表面から強烈な磁場をかけて、脳の一部をマヒさせる刺激装置だ。これを使うと、ある特定の脳領域の活動を一時的に抑制することができる。たとえば言語野をマヒさせれば、その瞬間は言葉が出せなくなる。視覚をマヒさせると視野の一部が欠ける。なかなか劇的な効果が出るんだけど、脳には重大な悪影響はないと言われているので、とりあえず安心してね。
この装置を使って、側頭葉のある部分を刺激してマヒさせると、写真に写っている人物が自分か他人かわからなくなってしまうんだ。
ということは脳には自分を認識する回路が備わっているってことだよね。つまり、自分という存在、「自己」もまた脳によって創作された作品だということになる。そして、その専用回路が働かないと、自分か他人かを区別できなくなる。
2-41 幽体離脱を生じさせる脳部位がある
マヒさせる実験じゃなくて、脳を直接に電気刺激して活性化させる実験もある。
刺激すると、刺激場所に応じていろんな反応が起こる。たとえば、運動野を刺激すると、自分の意志とは関係なく、腕が勝手に上がったり、足を蹴ったりする。視覚野や体性感覚野を刺激すると、色が見えたり、頬に触られた感じがしたりする。
そうやって、刺激によっていろんな現象が生じるんだけど、なかには信じられないような現象が起こることがある。たとえば、これは一昨年に試された脳部位なんだけど、頭頂葉と後頭葉の境界にある角回という部位。この角回を刺激されるとゾワゾワゾワ〜と感じる。
たとえば1人で夜の墓地を歩いていると、寒気がすることない?
———あります!
それそれ、あんな感じらしい。 角回を刺激すると、自分のすぐ後ろに、背後霊のように誰かがベターっとくっついている感じがするようなの。うわーっ、だれかにつけられている。だれかに見られている……強烈な恐怖を感じるんだって。
でもね、その実態を丁寧に調べてみると、自分が右手を上げると、その人も右手を上げるし、左足を上げてみると、その人も左足を上げる。座っていると、その人も背後で座っていることがわかる。これで理解できるよね。そう、実は、背後にいる人間は、ほかのだれならぬ自分自身だ。要するに、「心」は必ずしも身体と同じ場所にいるわけではないってこと。僕らの魂は身体を離れうるんだ。この例では、頭頂葉を刺激すると、身体だけが後方にワープする。
この実験でおもしろいのは、その「ゾワゾワする」という感覚について尋ねてみると、背後の〝他者〟に襲われそうな危機感を覚えているという点だ。これはちょうど統合失調症の強迫観念に似ているね。
これで驚いてはいけない。身体と魂の関係については、さらに仰天するような刺激実験がある。
先ほどの実験と同様に角回を刺激する。右脳の角回だ。すると何が起こったか。
刺激された人によれば「自分が2メートルぐらい浮かび上がって、天井の下から、自分がベッドに寝ているのが部分的に見える」という。これは何だ?
———幽体離脱。
その通り。幽体離脱だね。専門的には「体外離脱体験」と言う。心が身体の外にワープするというわけ。
幽体離脱なんていうと、オカルトというか、スピリチュアルというか、そんな雰囲気があるでしょ。でもね、刺激すると幽体離脱を生じさせる脳部位が実際にあるんだ。つまり、脳は幽体離脱を生み出すための回路を用意している。
たしかに、幽体離脱というのはそんな珍しい現象じゃない。人口の3割ぐらいは経験すると言われている。ただし、起こったとしても一生に1回程度。そのぐらい頻度が低い現象なんだ。だから科学の対象になりにくい。
だってさ、幽体離脱の研究がしたいと思ったら、いつだれに生じるかもわからない幽体離脱をじっと待ってないといけないわけでしょ。だから現実には実験にならないんだ。つまり、研究の対象としては不向きなのね。
でも、研究できないからといって、それは「ない」という意味じゃないよね。現に幽体離脱は実在する脳の現象だ。それが今や装置を使って脳を刺激すれば、いつでも幽体離脱を起こせるようになってきた。
2-42 他人の視点から自分を眺められないと、人間的に成長できない
でも、幽体離脱の能力はそんなに奇異なものだろうか? だって、幽体離脱って、自分を外から見るということでしょ。
君らの中でもサッカーをやってる人だったらわかるよね。サッカーの上手な人は試合中、ピッチの上空から自分のプレイが見えるって言うじゃない。あれだって広い意味での幽体離脱だよね。そういう俯瞰的な視点で自分を眺めることができるから、巧みなプレイが可能になるんだろうね。サッカーに限らず、優れたスポーツ選手は卓越した幽体離脱の能力を持っている人が多いと思う。
スポーツ選手だけじゃなくて、僕らにもあるはずだよね。たとえば、何かを行おうと思ったときに障害や困難にぶつかったりもする。そういうときには反省するでしょう。
どうしてうまくいかないんだろうとか。あるいは自分の欠点って何だろうとか。それから女の人だったら、「私は他人からどんなふうに見えているかしら」と考えながら、お洒落や化粧をする。こうした感覚は一種の幽体離脱だと言っていいよね。自分を外側から客観視しているからね。他人の視点から自分を眺めることができないと、僕らは人間的に成長できない。自分の悪いところに気づくのも、嫌な性格を直すのも、あくまでも「他人の目から見たら、俺のこういう部分は嫌われるよな」って気づいて、はじめて修正できるわけだ。だから僕は、幽体離脱の能力は、ヒトの社会性を生むために必要な能力の一部だと考えている。
いずれにしても、幽体離脱の神経回路がヒトの脳に備わっていることだけは、実験的にも確かだ。
そして僕は、この幽体離脱の能力も、「前適応」の例じゃないかと思っているの。
だって、動物たちが他者の視点で自分を見るなんてことはたぶんしないでしょ。おそらく動物たちは、この回路を「他者のモニター」に使っていたんじゃないだろうか。
たとえば、視野の中に何か動く物体が見えたら、それが動物であるかどうか、そして、それが自分に対して好意を持っているのか、あるいは食欲の対象として見られているのかを判断することは重要だよね。実際に動物たちはこういう判断を行っている。だから動物の脳には「他者の存在」や「他者の意図」をモニターする回路が組み込まれているはずだ。
それが高等な霊長類になると、行動の模倣、つまり「マネ」をするという能力に進化する。ニホンザルはあまりマネをしないんだけれども、オランウータンはマネをする動物として知られている。たとえば動物園にいるオランウータンなんか、自分で檻のカギを開けて出ていっちゃう。並んでいるカギの中から、いつも飼育員が使っているのを探し当てて、自分で開けて出ていっちゃう。つまり、飼育員を見ていて、そのマネするわけだ。野生のオランウータンだと、現地人のカヌーを漕いで川を渡ったという記録もある。
2-43 他人の眼差しを内面化できるのが人間
マネをするというのはかなり高等な能力だ。他人のやっていることをただ眺めるだけではダメで、その行動を理解して、さらに自分の行動に転写する必要がある。鏡に映すように自己投影する能力がないとマネはできないよね。 模倣の能力がある動物は、環境への適応能力が高いし、社会を形成できる。
ヒトの場合はさらに、自分を他人の視点に置き換えて自分を眺めることができる。まあ、 でも鏡に映った自分の姿を「自分」だと認識できるから、自分を客観視できてはいるんだろうけど、
でも、ヒトは鏡がなくても自分の視点を体外に置くことができる。
そして、その能力を「自己修正」に使っている。他人から見たら俺の欠点ってこういうところだよなとか、クラスメイトに比べて自分の苦手科目はこれだよなとか、そんなふうに一歩引いてものを眺める。そういう「心」の構造は、長い進化の過程で脳回路に刻まれた能力の転用ではないか、と僕は思うんだ。
このように進化論的に「他者の心」の誕生を考えるのはとてもおもしろい。では、いつ「他者の心」を詮索する能力が芽生えたんだろうね。
進化の過程で、ネアンデルタール人とかクロマニョン人とか、いろんな人類がいたわけでしょ。
ネアンデルタール人の末裔はもう2万数千年前に滅亡してしまって存在しないけれども、遺跡調査によれば、彼らは飾りものを身につけていたかもしれない。身体を飾っていた可能性も一部では提唱されている。
だとすれば、他人の視点で自分を見ていたってことになるよね。「これきれいかしら」ってね。 さらに発掘調査によれば、墓に花を供えてたんじゃないかという説も出てきている。死者を悼むという意識があったとしたら、かなり「人間らしい心」を持っていたんじゃないかって気がするよね。
だから、ヒトがヒトらしくなったのは、ちょうどそのぐらいの時代じゃないかと思う。
2-44 僕らは自分に「心」があることを知ってしまった
おっと、もう終わりの時間が迫ってきたね。最後に僕の仮説を話しておしまいにしよう。こうした進化の名残で、いまだに見られるプロセスが、今日の講義の前半で話してきた、「自分の身体の表現を通じて自分の内面を理解する」という心の構造だ。
いったん脳から外に向かって表現して、それを観察して心の内側を理解するというのは、一見すると、ひどく面倒な手続きを踏んでいるように思えるよね。だって、自分の脳なんだから、いきなり脳の内部に、脳自身がアクセスすればいいのに、なぜ、こんな無駄と思える二度手間をわざわざ踏むのか……。
おそらく、進化の過程で、動物たちは他者の存在を意識できるようになった。そして次のステップでは、その他者の仕草や表情を観察することによって、その行動の根拠や理由を推測することができるようになった。他者の心の理解、これが社会性行動の種になっている。
しかし逆に、この他者モニターシステムを、「自分」に対しても使えば、今度は、自分の仕草や表情を観察することができるよね。すると、他者に対してやっていたときのように、自分の行動の理由を推測することができるようになる。これが重要なんだ。
僕は、こうした他者から自己という観察の投影先の転換があって、はじめて自分に「心」があることに自分で気づくようになったのでないかと想像している。つまり、ヒトに心が生まれたのは、自分を観察できるようになったからであって、もっと言えば、それまでに先祖の動物たちが「他者を観察できる」ようになっていたことが前提にある。
だからヒトは、今でも、「身体表現を通じて自分を理解する」という不思議な手続きを踏んでいる。常識的に考えれば、「脳の持ち主は自分なんだから、脳内で自身に直接アクセスすれば、もっとストレートに自分を理解できるんじゃないか」と思うよね。「体を通じて自己理解する」というのは、理解までのステップが増えてしまって非効率だ。
でも、「生物は先祖の生命機能を使い回すことによって進化してきた」という事実を忘れないでほしい。
いや、「使い回す」ことしか、僕らには許されていない。「無」からいきなり新しい機能を生み出すことは進化的にはむずかしいことだ。そんな困難なことに時間を費やすくらいなら、すでに存在しているすばらしい機能を転用して、似て非なる新能力を生み出す方が、はるかに実現可能性が高いし、効果的だろう。
そうやって生まれたものが、僕らの「自己観察力」だ。これは「他人観察力」の使い回し。自己観察して自己理解に至るというプロセスは、一見、遠回りで非効率かもしれないけど、進化的にはコストは低い。
こうして僕らは、自分を知るために、一度、外から自分を眺める必要が生じてしまった。これこそが「幽体離脱」だ。しかし、それによって、僕らに「心」が芽生えた、いやもっと厳密に言えば、自分に心があることを知ってしまった。
このように脳機能の使い回し、つまり、「前適応」こそが、進化の神髄だ。
ということは、これは未来に対しても同じことが言えるよね。もしかしたら、現在の人類の持つ「心を扱う能力」を、未来の人類が活用して、もっととんでもない新能力を開拓してしまう可能性もあるってことだね。将来の人類のために、僕らの脳が今どんなふうに前適応しているのか、そういうことに思いを巡らせてみるのも楽しいよね。
第二章 脳は空から心を眺めている より
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(引用ここまで)
今回引用した箇所は、第二章の終結部分で、
この章では、「脳機能の使い回し」つまり、
「前適応」の例が様々挙げて語られています。
とくに、池谷さんは脳の研究者なのに、
「実は、脳よりも身体の方が賢くて
自分の置かれた状況をよく把握している」と
しかも、その事実を脳自身が
ちゃんと認識していると言えてしまうって、
ある意味スゴいことですよね。
脳が認識してから身体が動くんじゃなくて、
本当は、身体が動いたことを
後から脳が認識しているってのが真実で、
人間は、そういうふうに、
身体の動きを通じて自己認識しているんだと。
他者のまなざしを内面化すること、
つまり、他者を観察する行動を使い回して
〝自己観察〟っていう行動が
あとから生まれてきたわけです。
その自己観察がなぜ重要かってことだけじゃなく、
さらに、驚くべきことに、
そうした行動が〝心〟の発生にもつながったと、
人間の進化の過程として
捉えられているところなど、
つねに科学的な視点を手放すことなく、
順を追って考察されていて、
ナルホド〜と納得してしまうんですね〜
いまではこの本は
中高校にレクチャーしてまとめられた
第1弾『進化しすぎた脳』とともに
講談社のブルーバックスシリーズに収められ
入手しやすいですから、
今日の記事を読まれて興味を持たれた方は、
ぜひ本書を入手され、読んでみてください!
さて、『単純な脳、複雑な「私」』は
高校生レクチャーシリーズの2冊目として
出版されたものだったんですが、
実は昨日、坂本龍一さんの命日でもあった3/28
高校生レクチャーシリーズ第3弾(完結編)として
上梓されたんですね〜
わたしもまだ手に入れていないんですが、
読む前から、すでに今年の年間読書ふりかえりに
入りそうな予感がしていて
ワクワクしているところなんです。
【池谷裕二さん関連の過去記事】
・池谷裕二さんの脳科学研究とらくだメソッド(YouTube動画の紹介)
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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は
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