「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その6)
2024/04/17
昨日投稿した記事の続きです。
4/12から「自己決定」「自己責任」って言葉の
真意がなぜ伝わりにくいか
をテーマに書き始め、今日で6回目になりました。
これから書こうとしている記事は、
昨日まで投稿してきた記事をすべて
読んでいないと理解できない内容ではありません。
ただ、関連するテーマではあるので、
これまでの5回のうちに未読記事がある方は、
まずそちらからご覧戴ければ幸いです。
・「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その1)
・「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その2)
・「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その3)
・「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その4)
・「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その5)
さて、これまで「自己決定」「自己責任」という
言葉をめぐっていろいろ書いてきましたが、
欧米と日本の考え方の違いであるとか、
精神医療・福祉分野などでも
やや抽象度の高い話題が多かったようにおもいます。
わたし自身、「自分で決めて、自分でやる」
セルフラーニングスタイルの教室
寺子屋塾を30年間運営しながら
500名以上の塾生たちと関わってきたので、
もっとも自然に学力が身につく学習法として
十分に手応えを感じていますし、
特殊なやり方をしている意識はありません。
しかしながら、教育の世界全般を見渡したとき、
セルフラーニングという学び方は、
オーソドックスなやり方として
広く市民権を得ていないことも事実です。
そもそも「自分で決める」とはどういうことか、
それを学習の現場に採り入れることで、
どういう変化が具体的に起きてくるのか、
わたしの教室内で起きている
塾生の気づきを詳細にわたって書いても、
おそらく、実体験のない皆さんにとっては、
あまりピンと来ない内容でしょうから、
もっと身近なところから
具体的に表現する必要を感じていた次第です。
それで、早くから「自己決定権」という課題に
着目しておられた弁護士の鈴木利廣さんが
42歳のとき、
らくだメソッドの開発者・平井雷太さんが
インタビューされた記事が、
ニュースクール叢書『教育は越境する』という冊子に
掲載されていたことをおもいだしました。
このインタビューは1989年という、
いまから35年前に行われ
月刊『私教育』という雑誌に掲載されたもので、
この冊子も、わたしが寺子屋塾を開く前の
1993年につくられたものです。
Amazonで検索しても見つからないような
レア物の冊子なんですが、
いまのわたしが読み直してみても
まったく古さを感じません。
おそらく、この記事を読まれる皆さんの関心事は
そもそも「自己決定」は、何のために必要で、
子どもやパートナーなど
身近な人の「自己決定権」を大切にしながら
関わることを実践することによって、
具体的にどんな変化があるかについてではないかと。
この鈴木さんへのインタビュー記事は、
鈴木さんご自身の家族関係や仕事、家事といった
生活次元で起きた変化プロセスが
非常にわかりやすく語られているので、
今日から3回に分けて、
その全文をご紹介しようとおもいたちました。
まずは、ブックレットのまえがきから、
なぜ鈴木弁護士にインタビューすることになったか
平井さんがその経緯に触れて書かれた文章から
お読みになってみてください。
(引用ここから)
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鈴木利廣氏は私と同じ文京区にすむ弁護士で、インタビューする以前から名前は知っていました。子どもの権利条約にもかかわっている方だと聞いていても、それだけではインタビューする気が起きません。それに近所に住んでいれば尚更です。わざわざインタビューしなくても、いつでも話ができると思っていると、そういう方は自然とインタビューの対象から外れます。
しかし、ある日、ふと手にとった全国PTA問題研究会主催による第17回全国大会のパンフレットに彼の名前がありました。パネリストの一人として「子どもの自己決定権とは」をテーマに話すことになっています。この時に聞いた話が非常に印象に残って、「自己決定権」という言葉は学習面でも使えるとても重要な概念だと思いました。(中略)
鈴木氏の弁護士事務所に訪ねてインタビューを行いましたが、話を聞くうちに「自己決定権」の問題を考えることで、それが自分の生き方・他者との関係を問い直すきっかけになっていくことに気づきました。近所に住んでいるからいつでも聞けると思っていると、こんな気づきに今でも出会っていないのかもしれません。身近な人にインタビューをしてみることで、思わぬところに思わぬ宝が潜んでいる。身近であるからこそ見えなくなっている。そんなことを体験したインタビューでした。
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(引用ここまで)
鈴木利廣さんは2008年にNHKの人気TV番組
『プロフェッショナル・仕事の流儀』にも
出演されたことがある著名な方ですから、
ご記憶の方がいらっしゃるかも知れません。
以下は、
自己決定権を考えることで、
自分をめぐるあらゆる人間関係が変わっていった
と題されたインタビュー内容の
冒頭から全体の約1/3にあたる部分です。
(引用ここから)
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●自分の命は自分で守る
———鈴木さんが自己決定権という言葉に最初に接したのはいつごろですか?
鈴木 1980年前後ですね。
———何かきっかけがあったんですか?
鈴木 あまり明確には覚えてないんですが、自己決定権というのは医療ミスに関わる問題を扱っているときに出てきたんです。
アメリカでは、1970年代当時インフォームド・コンセント(知らされたうえでの同意)というものがありました。薬の副作用や手術の危険性を十分知らされたうえで患者の同意が得られなければ、手術や投薬をしてはならない。そういう説明をすることが医師の義務であるという論が、日本でも1980年代の後半になってかなり出てきました。1980年に「医療と人権」(日本弁護士連合会主催)というシンポジウムをやったとき、患者の権利について出された全米病院協会の宣言を読んだりしているうちに、インフォームド・コンセントという考え方が自己決定ということに基づいていることを知りました。 そのシンポジウムの報告書のなかでは、明確に自己決定権という言葉を使っています。
———初めて自己決定権という概念に触れたときはどんな感じでしたか?「これだ!」という思いをもちました?
鈴木 いえ、率直に言ってそんな感じはしませんでした。患者の権利というのはいくつかあって、自己決定権はその一つということです。患者の権利のなかで自己決定権が最も重要であると認識し始めたのは1984年以降なんです。
1984年10月に患者や弁護士が中心になって「患者の権利宣言全国起草委員会」という任意の集まりをつくり、「患者の権利宣言(案)」というのを出しました。それを朝日新聞がとりあげて、「この患者の権利宣言(案)は内容の3分の1が『知る権利』 にさかれている」とコメントをつけていました。このコメントを読んで、自己決定権についてはあまり重要性を意識していなかったけれど、実際にやっていることはそこに向いていたんだな、とあらためて思ったんです。
———自己決定権を意識するようになって何かが変わっていきましたか?
鈴木 あらためて患者の自己決定権を意識し始めたくらいで、すぐには反応しませんでした。でも、患者の権利宣言(案)を出したことが教育問題ではフリースクール研究をやったり、家庭のなかでは子どもたちや女房の自己決定権を考えたり、自分の事務所にいる3人の事務員の労働における自己決定権を考えたり、障害者の問題を考えるきっかけにはなっていったと思います。でも、教育や子どもの問題というのを考える場合は簡単にはいかないなと思いましたね。
———どういうことですか?
鈴木 自己決定の考え方の一番基本的なところは、「自分の命は自分で守る」ということなんです。日常生活のなかでは、自分のことは自分でする、ということになる。家族だからといってお互いが踏みこんではいけない領域があるわけで、その領域というのは、プライバシーを侵害してはいけないという面と、本来自分が判断しなければならないことを他人が判断してはいけないという面とがあります。
例えば、子どもが「○○をしてもいいか」と聞いてきたときに、やっていいかどうかを判断するのは自分だよ、と言う。そして、それをやることにどういう意味があり、どんな注意が必要かという親の考え方、インフォメーションをきちんと示しておくということです。
●納得してすると恐怖がなくなる
———すごく時間のかかるやり方ですね。
鈴木 ものすごく時間がかかります。
———以前から鈴木さんは気が長かったんですか?
鈴木 いえ、本当はすごく気が短いんです。上の子が生まれたころは本当に気が短くて、3〜4歳のとき、いたずらをすると家の外に出して鍵をかけ「出ていけ」と言ったりしていました。
———その鈴木さんが子どもの声を徹底して聞くようになったのですか?
鈴木 気が短いままではいっしょに家庭をつくれないと思いましたし、子どもとつきあってきたなかで、子どもの反応や考えに非常に勇気づけられ、それが自分の対応を変えるきっかけにもなりました。子どもでもこんな決定や理解の仕方ができるんだな、という場面がよくありました。
———具体的に話して下さい。
鈴木 7歳くらいのときだったか、子どもが夜中に「おなかが痛い」と言いだしたことがあるんです。病院に行くのを嫌がったので、「注射はしないよ」という約束をして連れて行った東大の分院に夜間の救急で入ったんですが、盲腸の疑いがあるから血液検査をしなければいけない、ということになってしまったんです。 彼女は「注射をしないという約束だから来たのに、パパはうそをついた」と言いました。それを聞いて、 女医さんが「こういうときいつも私たちが悪者になるんですよ」と。親が「注射はしないよ」という約束で病院に連れてきたのに、先生が注射をする。やむを得ず親は先生のせいにして子どもを納得させる、ということをその人はいやというほど見てきているのだと思います。
それで、ぼくは「私が説明します」とその先生に言って、とにかく15分ほど子どもに話しました。どうして血液検査が必要なのか、注射をするとどのくらい痛いのか、 痛かったら泣いてもいいから、安心してやりなさい、と。注射をすることは痛いけれど、そのことで自分の体のなかでどんなことが起きているかがわかるし、それが病気を治すことになるんだ、というふうに言いました。
その時子どもは小学校の低学年でしたが、彼女は泣きながら、でも自分から手を出しましたね。
その時に「1回だけだから」ということも言ってしまったんですが、翌朝もう一度検査することになってしまった。1回目の検査で血小板に異常値が出て、白血病の疑いがあったんです。単なる一過性の炎症によるものかもしれないけれど、確認するためにもう1度血液検査が必要です、ということでした。
娘は「話が違うじゃないか」と言いまして、ぼくはまた説明しました。結局、注射をしましたが、帰りがけに子どもが「注射っていうのは太いほうが痛くないんだね」って言ったんです。きちんとインフォメーションをもって体験し理解を深めると、痛みがやわらぐんだなということを教えられました。
———本人が納得してやると痛くないんですね?
鈴木 納得してやると、そのことで恐怖がなくなるんです。納得や経験の度合いが深まることによって生命反応自体が違う。大人は注射しても泣きませんけど、それはちゃんと理解しているからなんです。
杉並に小児科医の宮下さんという方がいて、そういう研究をしています。1歳半〜3歳児の子に麻疹の予防注射をする。 その時に予防注射の意味をちゃんと説明した子はしない子と比べて、注射のときに泣く確率が激減するそうです。ぼくはその方のところにうかがって直接現場を見せていただき、お話もききましたが、人間が情報を知るというのは決断を助けるということだけでなく、いろんな意味があるんだな、と思いました。人間のもっている情報や考えというのは、その人の生命反応に対してものすごい影響力があるということを知ったわけです。
そのころから、ぼくは意識的に赤ちゃん言葉を使わなくなりました。むずかしい言葉もそのままダイレクトに話をする。権利や法律、プライバシーという話を、自分の子どもに話すようになったのもこのころです。女房はよく「そんな言い方をしても理解できないんじゃないの」と笑っていましたけどね。
ぼくは理解できなくてもいいと思うんです。いつかそれが自分の言葉として使えるようになる。言葉というものは、理性的に意味を理解して使うのではなくて、生活的な感覚で取り上げて使うものだと思ったんです。
※『平井雷太インタビュー集 教育は越境する』(ニュースクール叢書3)より
この続きは明日の記事にて紹介する予定です。
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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は
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