生きざまがおのずと伝わること(つぶやき考現学 No.116)
2024/04/29
どんな人もこの世に
何かの役割をもって生まれてくる。
その役割を
「伝えたいもの」とたとえるなら
伝えたいものの無い人など
この世にひとりもいないだろう。
でも、伝えたいことが
いったい何であるかを
自分で自覚していなくても
ただ、生きているだけで
その人の生きざまがまわりに
伝わってしまうことはあるだろう。
だから、「生きる」とは、
生きざまを伝えることであると同時に、
生きざまがおのずと
伝わることでもあると、
いえるかもしれない。(1998.9.21)
※井上淳之典のつぶやき考現学 No.116
COMMENT:
これまでだいたい週に1回のペースで
ランダムに紹介してきたつぶやき考現学ですが、
未紹介のものが残りあと1つとなりました。
つまりこのNo.116は、ラスト2だったわけで、
なぜこの詞がラスト2まで
残り続けたかというと、
それだけ、現在のわたしの感覚とは
遠い内容のものだったからと言ってよいでしょう。
この詞を書いたのは、
寺子屋塾を始めてから4年ほど経過した
タイミングだったわけですが、
当時のわたしは
役割とか、伝えるとか,生きざまとか
そうしたものに必要以上に囚われていました。
でも、こうして書き残しておくと、
その書いた時点から
自分の何がどのように変化したのかが
とてもよくわかりますし、
そういう意味でも
日付を書き入れることの大事さを
改めて痛感しているところです。
昨日投稿した記事ではS.I.ハヤカワ
『思考と行動における言語』を紹介したんですが、
引用した箇所の一番最後のところに
●見出し番号と日付を使え。
いかなる語も正確には二度と同じ意味を持たない
ということを思い出すために。
・牡牛1は牡牛2ではなく、
牡牛2は牡牛3ではない・・・
・スミス(1963年の)はスミス(1964年の)
ではなく、スミス(1965年の)は
スミス(1974年の)ではない・・・
と書いてあったことを覚えていますか?
昨日の「わたし」と、今日の「わたし」は
同じ人物ではありません。
つまり、1日1日を大切にして生きるということは
そういうことなんだと。