平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(その3)
2024/07/13
昨日投稿した記事の続きです。
とっかかりに、
「私とは何か?」という問いを考察しはじめ、
この記事が3回目となりました。
一昨日投稿した(その1)では、
わたしがなぜこの本を選んだのか
セルフラーニングという学び方との関わりなど
前段となる話を導入に、
平野さんの著書の
まえがき全文を引用して紹介しました。
昨日投稿した(その2)では、
分人主義に関わる公式ウエブサイトや
関連するYouTube動画2本を紹介しながら、
過去に投稿した記事をふりかえって
この議論の前提となっている
「個人」を人間の基本単位として見做す考え方が
そもそも日本に存在していただろうか?
と疑問を呈したところです。
イイ感じに混沌としてきましたね〜 笑
その1では、
平野啓一郎さん原作による
TVドラマ『空白を満たしなさい』のことも
紹介したんですが、
清水靖晃さんの音楽も
混沌とした感じがよく出ていてヨカッタです。笑
YouTubeにアップされていたので、
聴いてみて下さい。
ところで、
「私とは何か?」という問いは、
仏教を開いたとされる
お釈迦さまも考えられた痕跡があります。
上の画像は、国際的に著名なビデオアーティスト
ナムジュン・パイク(白南準)による
「TV仏陀」という作品なんですが、
自己観察というか、
仏教の本質をとてもわかりやすく、
しかもユーモアたっぷりに表現されていますね。
五蘊無常無我については以前にも
こちらの記事に書きましたが、
確固とした自分など
どこにも存在しないと唱えた
お釈迦さまの悟りは、
「個人」という捉え方を見直そうとする
分人主義の考え方に
どこかつながっている感じもします。
ただし、勘違いしがちなことのひとつに、
自分の眼を、自分の眼で
じかに見ることはできないってことがあり、
視座(見る起点)を自分の外側に置かない
自己観察は、身勝手な妄想になりかねないので、
気をつけないといけません。
そういえば、3月には池谷裕二さんの
高校生レクチャーシリーズ2作目
第2章に登場している
幽体離脱の話を紹介したこともありました。
・幽体離脱を起こさせる脳部位がある?!(池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』より)
結局、自己観察とひとくちに言っても
どの視座から、何を、どのように見るか
いろいろで、一律ではないし、
個別に工夫が必要なんですね。
だからこそ、寺子屋塾のような場が
必要なんだとも考えているんですが。
モト陸上選手の為末大さんが、ちょうど
一昨日7/11「自分を知る」をテーマに
Xで次のように投稿されていたので、
目にとまりました。
(引用ここから)
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長文ファンの皆様おはようございます。
なぜ正義の集団は
自分たちの姿が見えにくいのでしょうか。
「自分を知る」のが大事と言いますが、
実際には二つの方向があります。
「私が何をしたいか知っている」
そして、
「私がどう見られているか知っている」です。
両者は相関するどころか、関係なく動きます。
むしろ逆相関すらありえる。
自分が何をしたいか知っていて、
どう見られているか知らない人は、
うまくいけば無邪気ですが、独善にもなります。
自分が正しいと思い込んで修正できないのは
このタイプです。
このタイプが成功した場合
(成功することも多いと考えています)、
権力に合わせて自分を変えられず、
ハラスメント的になったりします。
また、はずれたコミュニケーションで
浮いてしまったりします。
自己プロデュースが上手い人はみな
私がどう見られているか知っています。
私の位置がわかるからこそ
コミュニケーションがはまります。
自分がどう見えているかを知ることは、
相手の見抜く力に比例して深まっていきます。
奥まで見る人の前では隠しても隠しきれません。
そうなると自分の本性を認識しておく
必要があるのだと思います。
正義は立っている場所を忘れることで成立します。
立っている場所を疑えば
正義など相対的だということがわかります。
その点において、正義の集団は常に
「自分がどう見られているか」には
無頓着になるといえます。
※Xのモト記事はこちらからどうぞ(note)
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(引用ここまで)
「私とは何か?を知る」といっても、
2つの方向性があるって話には、
ナルホド!とおもわされるところがありました。
・自分が何をしたいか
・自分がどう見えているか
あなたはどちらの方向から考えますか?
この続きはまた明日に!