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内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その2)

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内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その2)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その2)

2024/08/17

昨日投稿した記事の続きです。

 

「内的観点と外的観点の両方を同時にもつ」

というテーマでは2回目ですが、

その前のケシーさんの

インスタライブの話からの続きでもありました。

 

とは言え、そのまた前の記事で紹介した

細谷功さんの『無理の構造』のことや、

ニーチェや大島清さん、鈴木大拙さんなどの

言葉を取りあげた名言シリーズの記事も

無関係ではありません。

 

でも、そもそも、すべて関係があるとも言え、

関係の無いものなど存在しないんですが。

 

 

さて、それで本日投稿する記事の

メインコンテンツですが、

「内的観点と外的観点」というテーマから、

清沢満之の書いた文章をおもいだしたので、

今村仁司さんの編まれた

『現代語訳 清沢満之語録』より

「われ以外の物や事をあてにしないこと」を。

 

ちなみに、本書は2023年の読書ふりかえり③

とりあげた24冊のうちの1冊で、

お正月明けに中味を紹介したことがあり、

未読の方はそちらから先にご覧ください。

一念(今村仁司[編訳]『現代語訳 清沢満之語録』より)

 

 

(引用ここから)

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われ以外の物や事をあてにしないこと。
 

四、五日後にある人が訪問するだろうという話を聞いたときにはすこぶるうれしかった。話したいこともあるし、聞きたいこともある友人が来訪するというのだから、待ちもうけずにはいられない。来る日も来る日もそのことばかりおもって、他のことは手につかないありさまである。

 

ところが四日たって、今日来るかどうかと待ちのぞんでいるが、午前に来ない、午後にも来ない、夜になっても来ない。一日中待ちくたびれて、いささか不満足であるが、明日は来るだろうとおもって満足した。


五日目になり、今日はきっと来るだろうとおもっていると、午前も過ぎ、午後も過ぎ、日が暮れてしまったが、友人はまだ来ない。雨天であるから、延ばしたのであろうぐらいにおもってあきらめた。

 

六日、七日、八日も過ぎて、九日目になるのだが、友人の顔もみえなければ、音信もない。もしや友人は病気ではないか、さもなくば何かこみいった事情があるのだろう、それは何であろうか、電報を打って問いあわせてみようか。しかし問いあわせても、病気は病気なりに、事情は事情なりに、こちらへ知らすべきであるなら知らせてくるはずだ、知らせてこないのに問いあわすのは、手数をますだけである。しかしなにかと不安である。

 

友人が来訪するという話を聞いてから十日目の今日までに、日々心頭に浮かびでた事柄はとてもいちいちここに書きしるすことはできないが、およそのところはいま述べたとおりである。それを反省内観してみると、友人の来訪の話を聞いたときには喜びがあったが、 四日目に友人が来なかったので少し不安が生まれ、五日目にはなお一層不安になるべきところ、幸いに天気という事情のために、その不安はあまりはなはだしくならずにすんだ。 しかし六日、七日、八日とだんだん不安が重なって、九日目には友人の身の上についていろいろと心配するようになった。

 

平生はものごとに心配することを非難しておきながら、友人の来訪というたったそれだけのことで心配の状態におちいった。自分のことで心配するのではないから、そうした心配はむしろいいことだという人があるかもしれない。ふだん、自利利他とか、自愛・愛他とかについて議論する場合に、一方の論者は自利自愛はよくないが、利他愛他はすぐれたことだといい、他方の論者は利他愛他を非難して、それはつまりは自利自愛から出てくるのであって、自利自愛が根本である、だから自利自愛が悪ければ利他愛他もよくないという。これはつまるところ水掛け論である。そこで前述の心配にもどっていえば、自分のためだからとか、他人のためだからという議論をすべきではない。それよりも、心配というものはともかく苦痛であるから、この苦痛から脱却するには、心配しないようにするほかはない。

 

心配しないようにするにはどうしたらいいのだろうか。友人の来訪などを喜びの種子にしないほうがよいのだろうか。いやけっしてそうではない。友人の来訪であれ、その他何であれ、喜びの種子とするのはいいのだが、その反対の場合、つまり来訪するはずの友人が来訪しないような場合には、ひとつの心構えをもつ必要がある。その心得とは、われ以外の物事をあてにしないという覚悟である。 友人が来訪すると聞いて喜ぶのもいいだろう。また事実、友人が来訪すれば喜ぶものだが、その反対の場合、つまり友人が来訪しない場合には、すぐさま、われ以外の物事はあてにならないものだという心構えをもたなくてはならない。

 

われ以外の物事はあてにならぬという心構えは、たんに心配を除去するだけではない。われらの苦痛は、たいていこの心構えによって除去されてしまうものだ。彼が不親切であるとして、彼が親切であるべきだとあてにしないなら、なんともない。彼が不埒であるとして、彼が不埒でないことをあてにしなければ、なんともない。めぐりあわせが悪いときには、めぐりあわせがよくあるべきことをあてにしなければ、なんともない。貧乏で困るときには、自分が富裕であってしかるべきことをあてにしなければ、なんともない。病気で困るときには、健康であってしかるべきだとあてにしないなら、なんともない。

 

死んだら困るとおもうときには、生きていること自体をあてにしなければ、なんともない。われ以外の物事をあてにしなければ、世のなかに何がおきようが、けっして心配ではない。われ以外の物事をあてにしている間は、けっして苦痛を脱却することができない。そしてその苦悩の分量は、物事をあてにする心に正比例している。物事をあてにする心が多ければ多いだけ、苦悩の分量は多く、物・事をあてにする心が少なければ少ないだけ、苦悩の分量が少ない。

 

ところが、物事をまったくあてにしないというなら、種子をまいても実ることをあてにせず、福徳をつんでも果報をあてにしないということになるではないか、という疑問と非難がありうる。このような疑いはいちおうもっともであるがそれについてよくよく考えてみなくてはならないことがある。種子をまいて実るのをあてにするとか、福徳をつんで果報をあてにするというのは、通常のものごとをあてにするのと同じようにみえるが、実際には大変な相違があるのだ。

 

まず種子をまく場合と、福徳をつむ場合と、この二つのケースは同じではない。種子はまいても実らないこともある。それを必ずあてにするのは心得ちがいだといわなくてはならない。福徳の場合では、その果報はどうなるのか実際にはわからないことが多い。わからぬことをわかったようにあてにするのは、これも心得ちがいではないだろうか。種子をまいて実るのをあてにするとか、福徳をつんで果報をあてにするとかを、通常のものごとをあてにすることと同一視するのは心得ちがいである。ところが、種子をまいて実るのをあてにし、福徳をつんで果報をあてにする場合には、あてにするという言葉はあるが、その言葉の意味は信じるということである。種子をまけば実ると信じ、福徳をつめば果報があると信じるのである。では信じるとはどういうことかを、つぎに明らかにしなくてはならない。

 

信じること、あてにすること、この二つにどのようなちがいがあるというのか。これには重要なちがいがあるのだ。それは主観的と客観的の相違である。われのほうに着眼するのと、他者のほうに着眼するのとの相違である。信じるというときには、主観的であり、われのほうに着眼している。しかしあてにするというときには、客観的であり、他者のほうに着眼している。いいかえれば、信じるというときには、われのほうだけのおもわくであり、他者のほう、つまり客観上とか事実上とかがどうあれ、それには頓着しない。狐が不可思議な妙用をすると信じるといえば、そういうことを自分でおもっていることだけが確かであるにすぎず、その他のことは無関係である。

 

しかしあてにするというと、他者すなわち外物や他人のほうを主要なことにして、それを確かだとする。狐の不可思議な妙用をあてにするのは、われが信じると信じないとにかかわらず、まことに狐が不可思議な妙用をするのだとみなすのである。種子をまけば実ると信じているときは、実らぬことがあっても、なんでもない。なぜかといえば、実るべきものが、なんらかの因縁で実らなかったのだとおもうからである。しかし実ることをあてにしていたのに、実らぬときは失望の苦悩を免れない。福徳の果報の場合は、ただ信じることができるだけで、あてにすることはできないようなことがらである。

 

ところが、つぎのような疑問が出てくる。すなわち、信じるといえば主観的で、われのほうばかりのおもわくであるというけれども、如来を信じるのは客観的であり、他者のほうに眼をつけていうのではないか、また心配を脱却するにはわれ以外のものをあてにしてはならぬというけれども、如来をあてにするのはよいことではないだろうか、と。これは、つまるところ、信じるということがわからない人がいつも出してくる質問である。人が宗教を求めるとき、まず最初に、信仰の客観的対象はなにかとか、阿弥陀仏の実在とかいうことについて説明を求めることが多い。

 

いうまでもなく、それについての説明はあってもよいのだが、いかに信仰の対象が厳然としてあり、阿弥陀仏の実在が確実であるとしても、これを信じることがなければ、なんの意味もない。また、ついに信じることができてみれば、種々の議論や説明は少しも必要ではない。いわんや、絶対無限や不可思議光の如来などは議論や説明の対象にはなりえないにもかかわらず、それらを客観的に研究したり、あてにしたりするのは、迷える考えである。無限の如来の客観的実在がどうあろうと、その如来の大悲の実現を、われらはけっして自分の信念以外に感じることはできない。われらにとって、信の一念のほかには如来はないのである。われらの信仰を精神主義というのは、まさにここにある。

 

今村仁司編訳『清沢満之語録』より

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(引用ここまで)

 

いかがですか?

 

友人が来訪するという知らせがありながら、

10日間音沙汰が無かったという

自身に起きた出来事を話の入口にしながら、

「信じるとはどういうことか?」という

満之の唱える精神主義について語っている

小論でしたが、

後半の論旨の展開など、

丁寧に追わないと

読み解くことは簡単ではないかもしれません。

 

「内的観点と外的観点」という切り口や、

響月ケシーさんの

「自分の神様を育てる」という話との関連など

いろいろ書きたいことがあるんですが、

続きはまた明日に!

 

 

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