「統合する」ということ(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②
2024/09/07
昨日投稿した記事の続きです。
昨日は栗本慎一郎さんの
40年以上前に出版された著書を引っ張り出して
学問分野の統合というテーマで書き始めたものの、
初っぱなから取り上げるには、
ちょっとテーマが抽象的で
大きすぎましたね。
そもそもこの世に様々な学問分野が
何故存在しているのかとか、
統合されることでどんなメリットがあるのかなど、
そのこと自体に問いが浮かんでいないと、
考えにくかったかもしれません。
それで、本日の記事のメインコンテンツですが、
著者・栗本慎一郎さんのプロフィールと
本書の概略をざっくり紹介している
YouTube動画をシェアすることから
始めることにしました。
まずはご覧になってみてください。
「人間とはどういう生物なのか?」が
メインテーマの本だから、
人間がもっている様々な側面を
ただ論じるだけでは片手落ちです。
つまり、この「パンツをはいたサル」という
本書のタイトル自体が、
統合された人間像を表しているわけですね。
それで、バラバラな人間像が統合され、
ひとつ上の次元から捉えることができると
具体的にどんな見方ができるのかを
もうすこし詳しく知っていただきたく、
最終章にあたる第7章
すべては「内なる知」によって決められるべきだ
で、2017年にでた増補版で追加された箇所を
引用し紹介することにしました。
(引用ここから)
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外知の支配から解放されるために
われわれの外なる知、すなわち外知から解放されるにはどうしたらいいか。それはひと言で言えば、すべてをわれわれ自身に依拠して考え、われわれ自身が世界の中心にいるようにするということだ。そうできればそれでいいのだ。しかし、それは実際にはとうてい無理のことのように思えるだろう。われわれ自身の考えや素直な感覚に依拠すると言っても、無条件にそれがどこでも生かされるという保証はない。むしろ、そうできないように世界は成り立っているからだ。
たとえば、あなたが「太陽は自分の周りを回っているし、自分は宇宙の中心にいる」と素直に思っていたとしよう。そしてそれであなたの日常生活はまったく問題なく回転していっているとする。それならそれでいいではないか。できる限り、「良い中心」になるように努力すればいいのだ。
ところが、もしもあなたが理科の先生や宇宙飛行士になろうとしたとする。そう思っていて、それに嘘をつかないようにした場合、あなたは初歩的な試験も合格せず、資格は取れっこない。その場合、あなたは、①世の常識や公式に認められた「真理」と必要な場面では「政治的に」 妥協する、か、②それら常識や真理が間違っていることを声を大にして証明する必要がある。 ②を選択する場合でも、全面的な批判に直ちに入らないで、限られたとくに必要な場面でのみその「間違い」を指摘するということもできる。それはあなたの力量しだいだ。そのどちらかができれば、あなたはあなたの内知(暗黙知)を抑圧せずに生きていけるのである。
私は、自分が世界の中心だとは思ってこなかったが、生きてきたうちにはいくつか「これはおかしい、間違っている」とはっきり思ったが言えなかったことがあった。(良い奴も含めて) 周りのみんなが「あれは善だ」と言い出して、とても批判ができなかったのである。たとえば、1960年代後半のビートルズであった。ビートルズは明らかに「音楽ではなく、政治」であった。気づくのはともかく説明をするのには内知だけでは不十分だ。よって、ほぼ40年を無駄にしたのち、私は本書の完結篇『パンツを脱いだサル』(現代書館)の最終章でようやく一考察文を入れることができたくらいだ。それでその間、私はほとんどビートルズについて発言をしなかった。
しかし、つねに注意して何十年も経ったということだ。本当は、1990年代の哲学者デリダについても同じことを思っている。あれはおかしい。あれは政治だ。浅田彰や柄谷行人はそれぞれ意識的と無意識的にその政治に与している。このことをきちんと述べるにはまだ10年ほど時間が必要だろうが。
何についても同じだが、内知(暗黙知)はまず「これが正しいのではないのかな」とか「これはおかしいのではないのかな」という「感じ」としてやってくる。ここで注意せねばならないことは、それらは通常の疑念や不安と一見、同じ様相を持っていることだ。それらを判別するために、自分のなかから湧き起こるそういう感じが実際、どういう結果をもたらしてきたかをつねに自分なりに検証しておく必要がある。そうしてただ精神的な不安から生まれたものと、内知(暗黙知)が生み出したものとが区別できるようになる。
そういう検証のほかに、自分自身の精神と身体を十分自然に対して解放しておく努力も必要である。近代的知識とか道徳というかたちで私たちを搦めとっている「外知」のネットワークがあるからだ。また、私たちの信じる自分の身体そのものがいつのまにか捻じられ歪められてしまっているかもしれない。パンツというものは、進化にも介入するものであった以上、そういうことも注意しておかねばならない。とくに注意すべきは、われわれの身体に組み込まれてしまっている支配や征服や攻撃への欲望と快感だろう。だから、支配や征服や攻撃への欲望と快感だけは意識的に抑えて「自然と共生して調和している自分」であるような努力だけは必要だ。
私は、経済人類学の勉強をはじめて論文を発表しはじめたころ、想に詰まるといつもぼんやりと小さな箱で飼っていた大きなヤドカリの動きを見ているのが好きだった。子どものころはカメだったが、助教授になったらヤドカリになっていた。親が買ってくれる時代はカメが飼えたが、助教授になると貧乏になっていたと言ってよい。
ある日、ヤドカリの体が少し大きくなって貝殻のほうが窮屈そうになっているように思えた。ヤドカリの動きがそう言っているように見えたのだ。私は海に行って、少し大きな貝殻を見つけ、家に持ってかえって箱の中に置いた。夜早めに電気を消してやって、朝、急いで見にいったら、ヤドカリは私が海辺から持ってきた貝殻のほうに居を移してちんまり座っていた。 ヤドカリは私に「アリガトヨ」と言っていた(と明らかに思えた)。ひと月ほどしてヤドカリが死んで、私が持ってきた貝殻から体を乗り出して死んでいたのを見たとき、号泣してもいいくらいに悲しかった。論文を書き終わった私は、外出することが多くなって、病気のヤドカリとコミュニケーションできなくなったのだった。以来、私はコミュニケーションが比較的容易な哺乳類だけを飼うことにしている。
内知(暗黙知)はこんなことでも、確認でき、強化もできる。これを風の音や流れる霧に対して行なってみれば、それは宗教的な行である。またそう認められているだろう。だが、風や雲や霧や山の声とヤドカリや草木の声とには根本的な差はない。そしてもしヤドカリの声が聞けるならば、あなたは自分自身の内部の本当の声も聞けるのである。
話は違うようだが、私は『パンツをはいたサル』発刊後18年目に、重い脳梗塞で倒れた。奇跡的に生還後、リハビリをせねばならなくなった。最も有効だったのは、リハビリ中、神経細胞をはじめとした「体内の声」を強く聴くように努力したことであった。それはいまだに明確な言語で語ることはできない。そんなものは聞こえるわけはないじゃないか、というのが科学的常識であってもかまわない。だが、少なくとも、私はそう努力したのである。「この手のここを動かしたい、という意図を君は電気的信号として末端に伝えてくれるだろうか」という要望をつねに意識的に発していた。それで腕や足が動くようになったと科学的に言うことはできない。しかし、一般の平均をはるかに超える速度で手足が動くようになったことは事実である。
内知(暗黙知)を、学問の難問で答えを探すとき、私は次のようにしていた。まず、真理の答えは、本当は間違いなく私自身は知っているはずだが、外知や感情、雑念によって混乱させられて明かりが見えていないだけだ、と考える。考えるというより実際そうなのだ。それには問題を確認しておいて、①体を動かして(これにはテニスやゆったりしたドライブなどもあった)頭脳を解放する、②逆に昼でも横になって体を解放する。そして答えを急がないことだった。
内知(暗黙知)は答えを持っているからこそ、必ず答えをどこかでふっと教えてくれる。それは本来われわれが持っている力なのだ。ただ、その答えを外知まみれで偏見まみれの他人に伝えるときは、その問題についての専門的知識(数学であれば数学の、天文学であれば天文学の)や論理の能力が要るというだけだ。つまり学問というものは、真理をつかむために必要なのではなくて、つかんだ真理を他人に(あるいは社会に)伝えるために必要なのである。
※栗本慎一郎『【増補版】パンツをはいたサル 人間はどういう生物か』第7章 すべては「内なる知」によって決められるべきだ より
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(引用ここまで)
光文社カッパサイエンスシリーズの
新書スタイルで出版された旧版は、
こんにちでは絶版になっていますが、
アマゾンの古書市場や
ブックオフの100円均一コーナーなど
安価で入手しやすいものなので、
興味を持たれた方は
ぜひ手に入れて読んでみて下さい。
この続きはまた明日に!(^^)/
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