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「統合する」ということ(その11)クリシュナムルティ『既知からの自由』①

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「統合する」ということ(その11)クリシュナムルティ『既知からの自由』①

「統合する」ということ(その11)クリシュナムルティ『既知からの自由』①

2024/09/16

昨日9/15に投稿した記事の続きで、

「〝統合する〟ということ」をテーマにした記事も

これで11回目になりました。

 

これまで投稿してきた10回分で書いた内容を

前提として話を進めることがあるので、

未読記事のある方は、

まずそちらから先にお読み下さい。

(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』

(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②

(その3)安冨歩『合理的な神秘主義』

(その4)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』

(その5)森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』

(その6)学問分野の統合・まとめ

(その7)よしもとばなな『花のベッドでひるねして』

(その8)鈴木清順『陽炎座』

(その9)雲黒斎「フラットランドについて」①

(その10)雲黒斎「フラットランドについて」②

 

さて、9/5投稿した記事

「高次」とは認識視座の増加であるにてシェアした

雲黒斎さんのYouTube動画3本のうちの2本目

「既知を用いて、未知に辿り着ける?」

文字起こしして

一昨日、昨日と2回に分けて紹介しました。

 

昨日紹介した箇所の終わりの方に、

そもそも四次元には「正しさ」がない

起こることしか起こらない

既知の延長線に未知があるんじゃない

既知を出ないと未知に出会えない

って話がありました。

 

つまり、自分が既に知っていることをもとに、

自分が知らないことについて

知ろうとしてもできませんから、

必要なことは、

自分が既に知っていることは一旦脇に置き、

ニュートラルな状態でいることなんですね。

 

でも、これは簡単なことではありません。

 

わたし自身、こういうことの大切さに気がついて

最初に考え始めたのは、

20歳のときに読んだ

J.クリシュナムルティの本がきっかけでした。

 

その本のタイトルがまさに

Freedom from the Known

 

当時わたしが読んだ邦訳本のタイトルは

『自己変革の方法』という

自己啓発書のようなタイトルだったんですが、

2007年に出版された改訳版では、

『既知からの自由』と改められたんです。

 

まさに!まさに!ですね〜

 

また、昨年12月に「今日の名言」シリーズで

J.クリシュナムルティの

「世界はわたしであり、わたしは世界である」

紹介したことがあったんですが、

この言葉など、まさに

自分と世界との間に存在している

意識の壁がなくなり〝統合〟された状態を

言っているようにおもいます。

 

 

昨日の雲さんのお話の中に、

愛について触れた部分がありましたが

覚えていますか?

 

タテ × ヨコ × 高さ × [ ? ]

 

四次元っていうのは何かと問うと、

たいてい皆さん、[ ? ]に入るのは

「時間」って答えるけれど、

僕はここに入るのは「愛」だとおもうし

僕たちは、愛を知るためにここにいるんだ。

 

でも、「愛」っていう四次元の言葉を得ても、

現実には、愛ではない

取引の世界を生きている人が少なくないし、

愛という言葉を知ったつもりになっては

ならないんだと言われてましたね。

 

雲さんのこのお話を聞きながら

J.クリシュナムルティが、

「愛」について書かれていた

『既知からの自由』第10章の内容を

おもいだしました。

 

ただし、第10章すべてとなると

それだけで1万字ほどの分量があるので、

今日と明日の2回に分けて紹介しようとおもいます。

 

 

(引用ここから)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

関係の中で安全でいたいという欲求は、必然的に悲しみと恐怖を生み出します。この安全の追求が不安を招いています。あなたは自分の関係のどれかに安全を見出したためしがありますか? あるでしょうか? 私たちの大部分は愛し、愛される安全を求めます。しかしめいめいが自分自身の安全を、自分特有の道を探し求めているときに、愛が存在するでしょうか? 私たちは愛されません。なぜなら、私たちは愛するすべを知らないからです。

 

愛とは何でしょう? その言葉はあまりにごたついた、腐敗したものになっているので、私はできればその言葉を使いたくないほどです。誰もが愛について語ります。あらゆる雑誌、新聞が、あらゆる伝道師がいつ果てるともなく愛について語っています。私は祖国を愛します。私は国王を愛します。ある本を、あの山を愛します。快楽を愛します。妻を愛します。神を愛します、等々。愛とは観念でしょうか?

 

もしもそうなら、あなたはそれを養い、育て、抱擁し、好きなように指図し、ねじ曲げることもできるでしょう。あなたが神を愛していると言うとき、それは何を意味しているのでしょうか? それが意味するのは、あなたは自分自身が想像したものの投影を、あなたが高貴で神聖だと考えるものに従って特定の「尊敬すべきもの」というイメージを着せた、あなた自身の投影を愛しているということです。ですから、「私は神を愛しています」と言うことは、全くのナンセンスなのです。あなたが神を崇拝するとき、あなたは自分自身を崇拝しているのです。そしてそれは愛ではありません。

 

私たちは愛と呼ばれるこの人間的なものを解明できないので、抽象観念の中に逃げ込みます。 愛は人間の苦難、問題、労苦すべてに対する究極の解決かも知れません。そこで、私たちはどうやって愛とは何かを発見しようとしているのでしょう? たんにそれを定義することによって? 教会はそれをあるやり方で定義します。社会は別の定義を与えます。そのようにして、ありとあらゆる種類の逸脱と歪曲が行なわれているのです。誰かを熱愛すること、誰かと一緒に眠ること、情緒的なやりとり、仲間づきあい———それが私たちが愛という言葉で意味しているものなのでしょうか? それは基準、パターンでした。そしてそれは途方もなく個人的、感覚(官能)的で、限定されたものになってしまったので、宗教は、愛はそれよりもずっと大きなものだと宣言するにいたったのです。

 

彼らが見るいわゆる人間的な愛の中には、快楽、競争、嫉妬、所有欲、保持し、コントロールし、他の人の考えることに干渉したいという欲望が含まれます。そしてこうしたことすべてが複雑に絡み合っていることを知っているので、彼ら(=諸宗教の指導者たち)は別種の愛が、神聖で、美しい、触れることのできない、腐敗することのない愛が存在しなければならないと言うのです。

 

世界中で、いわゆる信心深い人たち(※訳註 : holy men「聖人」なのかも知れないが、それなら saint を使いそうに思われるので、こう解した。「聖職にある人たち」を指すのかも知れない)は、女性を見るのは全面的に悪いことだと主張してきました。彼らが言うには、もしもあなたがセックスに耽るようなら、神には決して近づけないのです。それゆえ彼らは、自分は欲望で膨れ上がっていながら、それを脇にどけるのです。しかし、性を否定することによって彼らは自分の目をくりぬき、舌を引き抜くことになり、地上の美全体を否定する結果になってしまうのです。彼らは自分のハートと精神を餓死させたのです。彼らは水気のない、干上がった人間です。美は女性と関係するというので、彼らは美を追放してしまったのです。

 

愛は神聖なものと世俗的なものとに、人間的なものと神的なものとに分割できるでしょうか、 それともただの愛があるだけなのでしょうか? 愛は一人に対する愛だけで、多くの人への愛ではないのでしょうか? もしも私が「あなたを愛しています」と言うなら、それは他の人への愛を排除するのでしょうか? 愛は個人的なものでしょうか、非個人的なものでしょうか? 道徳的なものでしょうか、非道徳的なものでしょうか? 家族的なものなのでしょうか、非家族的なものでしょうか? 人類を愛するなら、特定の人も愛せるのでしょうか? 愛は感傷的なものでしょうか? 愛は感情でしょうか? 愛は快楽と欲望でしょうか? こうした問いのすべては、私たちが愛についての観念を、愛はこうあるべきでああであってはならないということについての観念を、私たちが暮らしている文化によって発展させられてきたパターンまたは規約をもっているということを示しているのではないでしょうか。

 

ですから、愛とは何かという問題を深く究明するには、私たちはまずそれを、何世紀にもわたってかけられてきた覆いから解き放ち、それが何であるべきか、何であるべきでないかを云々する理想やイデオロギーを片づけてしまわねばなりません。何かをあるべきものとあるべきでないものとに分けてしまうことは、生を扱う最も欺瞞的な方法なのです。

 

さて、私は愛と呼ばれているこの炎が何であるかを、どのようにして発見しようとしているのでしょう? それを他の人に説明する方法ではなくて、それ自体何か意味するかを、です。私はまず、教会や社会、私の両親や友人たち、あらゆる人、あらゆる書物がそれについて言っていることを拒絶します。なぜなら、私は自分でそれが何であるのかを見出したいからです。

 

ここにあるのは全人類を巻き込む途方もなく大きな問題で、それに対しては無数の定義づけが行なわれてきました。そして私自身がその時そのときの好みや気分に従ってあれやこれやのパターンに捕えられてしまうのです。だからそれを理解するためには、私はまず私自身の好みや先入見から自分を自由にしなければならないのではないでしょうか? 私は混乱し、自分自身の欲望によって引き裂かれています。だから私は自分に向かって言うのです。「まずおまえ自身の混乱を片づけよ。たぶんおまえは、愛でないものの吟味を通じて愛が何であるかを発見することができるだろう」と。

 

政府は言います。「行って、祖国への愛のために人を殺せ」と。それが愛でしょうか? 宗教は言います。「神への愛のためにセックスを放棄せよ」と。それが愛でしょうか? 愛は欲望ですか? ノーと言わないように。私たちの大部分にとって、それは快楽を伴う欲望、感官を通じて、性的な愛着と充足を通じて引き出される快楽です。私はセックスに反対しているのではありません。ただ、その中に何が含まれているかを見ているのです。セックスがあなたに一時的に与えてくれるものは、自分自身の完全な放棄です。それからあなたは混乱の中に引き戻されます。だからあなたは何度も何度も繰り返し、不安も問題も自己もない、その状態に戻りたいと思うのです。

 

あなたは自分の妻を愛していると言います。その愛の中には性的な快楽が、あなたの子どもの世話をし、料理を作ってくれる誰かを家の中に所有しているという快感が含まれています。あなたは彼女に依存しています。彼女はあなたにその肉体を、感情を、勇気を、安心と幸福の特定の感情を与えてくれました。それから彼女はあなたの元を去ります。彼女はあなたに飽きたか、 または他の誰かと駆け落ちするのです。するとあなたの感情のバランス全体が破壊されます。そしてこの妨害・動揺が———あなたはそれを好みませんが————嫉妬と呼ばれるのです。そこには苦痛が、不安、憎しみ、暴力があります。

 

だから、あなたが言っているのは、ほんとはこういうことなのです。「おまえが私のものであるかぎり、私はおまえを愛する。しかしそうでなくなったとたん、私はおまえを憎み始める。性的なものでも他のものでも、私の要求を満たすのにおまえを当てにできるかぎり、私はおまえを愛する。しかしおまえが私のほしいものを提供するのをやめたとたん、私はおまえが好きでなくなるだろう」と。

 

ですから、あなた方の間には対立があるのです。分離があるのです。そしてあなたが他の人との分離を感じるとき、そこに愛はありません。しかしもしもあなたが、こうした対立状態や終わることのない言い争いすべてをあなた自身の中につくり出す思考なしに妻と暮らすなら、そのときはたぶん———たぶん———あなたは愛が何であるかを知るでしょう。そのときあなたは完全に自由で、あなたの妻も自由です。一方、もしもあなたが自分の快楽すべてを彼女に依存するなら、あなたは彼女の奴隷になってしまうのです。だから人が愛するとき、そこには自由が、相手からの自由だけでなく、自分自身からの自由もなければならないのです。

 

こうした他への従属、心理的に相手に寄りかかり、支えられている状態の中には、いつも不安、恐怖、嫉妬、罪悪感があるはずです。そして恐怖があるかぎり、愛はありません。悲しみに支配された精神は決して愛が何であるかを知ることができません。感傷や連綿たる情緒は、愛とは何の関わりもありません。そして愛は、快楽や欲望とも関わりをもたないのです。

 

愛は過去である思考の産物ではありません。思考はどうやっても愛を培うことはできません。 愛はその周りを囲ったり、嫉妬に捕えられたりしてしまうことはありません。嫉妬は過去から生まれるものだからです。愛はつねに生きた今の中にあります。それは「私は愛するだろう」とか「私は愛した」ではないのです。愛を知るなら、あなたは誰にも従うことはないでしょう。愛は服従しません。あなたが愛するとき、そこには尊敬も侮蔑もないのです。

 

誰かを愛するということが本当はどういうことなのか、あなたはご存じですか? 憎しみなく、嫉妬、怒りをもたず、相手がしていることや考えていることに干渉したいという気持ちをもたず、非難も比較もなく愛するとはどういうことなのかを。それがわかりますか? 愛があるところに、比較はあるでしょうか? あなたが全身全霊を傾けて、あなたの全存在をもって誰かを愛するとき、そこに比較があるでしょうか? あなたがその愛のために完全に自分自身を捨て去るとき、他者は存在しません。

 

愛は責任や義務をもつでしょうか、そしてそれはそのような言葉を用いるでしょうか? あなたが義務感から何かをするとき、そこに何か愛があるでしょうか? 義務の中には愛はありません。人間が捕えられてきた義務の構造が、その人を破壊しています。それがあなたの義務だというので何かすることを強いられているかぎり、あなたは自分のしていることを愛せないのです。 愛があるとき、そこには何の義務も責任もありません。

 

J.クリシュナムルティ『既知からの自由』第10章「愛」より(前半部)

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(引用ここまで)

 

 

愛は思考の産物ではなく、

思考は愛を培うことはできない。

 

嫉妬は過去から生まれるものだから、

愛はその周りを囲ったり、

嫉妬に捕えられたりすることはなく、

つねに生きた今の中にある。

 

「私は愛するだろう」とか

「私は愛した」ということはない。

 

というところがありましたね。

 

雲黒斎さんが四時元の「?」のところに

「愛」と入れておられたのが何故なのか、

また、「時間」という概念が

「愛」とがどうつながっているのか

このクリシュナムルティの言葉を読んで

わたしにはピンと来るものがあったんですが、

皆さんはいかがですか?

 

この続きの後半部は、明日の記事にて紹介します。

 

 

【参考記事】

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その1)

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その2)

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その3)
佐治晴夫『「これから」が「これまで」を決めるのです』(「今日の名言・その21」)

J.クリシュナムルティ「あなたは世界であり、世界はあなたである」(今日の名言・その68)

 

 

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