寺子屋塾

「統合する」ということ(その12)クリシュナムルティ『既知からの自由』②

お問い合わせはこちら

「統合する」ということ(その12)クリシュナムルティ『既知からの自由』②

「統合する」ということ(その12)クリシュナムルティ『既知からの自由』②

2024/09/17

昨日9/16に投稿した記事の続きで、

「〝統合する〟ということ」をテーマにした記事も

今日で12回目になりました。

 

本日投稿する記事のメインコンテンツは、

昨日紹介した文章の続きですし、

これまで投稿してきた11回分で書いた内容を

前提として話を進めることがあるので、

未読記事のある方は、

まずそちらから先にお読み下さい。

(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』

(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②

(その3)安冨歩『合理的な神秘主義』

(その4)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』

(その5)森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』

(その6)学問分野の統合・まとめ

(その7)よしもとばなな『花のベッドでひるねして』

(その8)鈴木清順『陽炎座』

(その9)雲黒斎「フラットランドについて」①

(その10)雲黒斎「フラットランドについて」②

(その11)クリシュナムルティ『既知からの自由』①

 

 

さて、今日は昨日投稿した続きで、

J.クリシュナムルティ『既知からの自由』から、

愛について書かれた文章の後半です。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

たいていの親たちは残念なことに、わが子に対して責任があると考えます。そしてその責任感は、子どもたちに何をすべきで、何をすべきでないかを教えるというかたちを取ります。あるいは何になるべきで、何になってはいけないと言うのです。親たちは自分の子どもを、社会の安定した地位につかせたいと願います。彼らが責任と呼ぶものは、彼らが崇拝する世間体の一部です。そして私には、世間体のあるところ、秩序はないと思われます。彼らは完全なブルジョワになることに関心を寄せているだけです。彼らが自分の子どもたちを社会に適合するよう備えさせるとき、彼らは戦争を、対立と残忍さを永続化させているのです。それを配慮や愛と呼ぶことができますか?

 

真に配慮するとは、あなたが木や植物のために配慮し、水をやり、それが必要としているものは何かを考え、それに最良の土壌を与え、優しさと思いやりをもって世話をするときのように、心を配ることです。しかし、あなたが自分の子どもを社会に適合するよう備えさせるとき、あなたは彼らが殺されるよう備えているのです。もしもわが子を真に愛するなら、戦争はなくなるでしょう。

 

自分が愛する誰かを失ったとき、あなたは涙を流します。そのあなたの涙は、あなた自身のためのものなのか、それとも亡くなった人のための涙なのでしょうか? あなたは自分のために泣いているのでしょうか、それとも他の人のために泣いているのでしょうか? あなたは戦場で殺された息子のために泣いたことがありますか? あなたは泣きました。しかしそれは自己憐憫から出たものなのか、それとも一人の人が殺されたから泣いたのでしょうか? もしも自己憐憫から泣くのなら、あなたの涙には何の意味もありません。

 

なぜならあなたは自分にかまけているだけだからです。もしもあなたが自分が大きな愛情を振り向けていた相手を失ったという理由で泣いているのなら、それは本当の愛情ではありません。あなたが亡くなった兄弟のために泣くときは、彼のために泣きなさい。彼が亡くなってしまったというので自分自身のために泣くことはかんたんです。明らかにあなたは自分のハートが傷ついたから泣いているのですが、それは彼のために心が動いたからではなく、自己憐憫のためにそうなったのです。そして自己憐憫はあなたをかたくなに、閉鎖的にし、あなたを鈍感で愚かにするのです。

 

自分自身のために泣くとき――自分が一人ぼっちになってしまった、取り残されてしまった、もはや強力ではなくなってしまったというので泣くとき――それは愛でしょうか? あなたは自分の運命を、境遇をこぽします。泣くのはいつもあなたのためなのではありませんか? もしもあなたがこのことを理解するなら、それは木や柱に触れるのと同じように直接それに触れることを意味しますが、そのときあなたは、悲しみが自己がつくり出したものであることを、悲しみが思考によってつくり出される、時間の産物であることを理解するでしょう。

 

私は三年前は兄か弟をもっていました。今、彼は死にました。私はひとりぼっちで、苦しんでいます。なぐさめやいたわりを求めることができる人は誰もいません。そしてそれが私に涙を流させるのです。 その気になれば、あなたは自分自身の中にこうしたことが起きているのを見ることができるでしょう。あなたはそれを余すところなく完全に、分析するのに時間をかけることなく、一目で見ることができます。あなたは一瞬のうちに、「私」と呼ばれる、私の涙、私の家族、私の国、私の信念、私の宗教と呼ばれる、この見掛け倒しのちっぽけなものの構造と性質全体を見ることができるのです。この醜悪さのすべて―それはあなた自身の中にあるのです。あなたがそれを精神ではなくハートをもって見るとき、それを文字どおり心底から見るとき、あなたは悲しみを終わらせる鍵を手にすることになるでしょう。

 

悲しみと愛が両立することはありません。しかしキリスト教世界では、人々は苦しみを理想化し、それを十字架にかけて崇拝してきたのです。このことは一つの特定の戸口を通してでなければ、あなたは苦しみから逃れられないということを含意します。そしてこれが、搾取的な宗教社会の構造全体が意味するものなのです。

 

だから、愛とは何かとたずねるとき、あなたは恐ろしがるあまり、その答を見出すことができないかも知れません。それは「地殼変動のような」全面的な激変を意味するかも知れません。それは家族をバラバラに砕いてしまうかも知れません。あなたは妻や夫、子どもたちを愛していないことを発見するかも知れません。自分が築き上げた家を粉々に砕いてしまわねばならなくなるかも知れません。あなたはもう二度と寺院に戻ることはなくなってしまうかも知れません。

 

しかし、それでもなお見出したいと思うなら、あなたは恐怖が愛ではないことを、依存は愛ではないこと、嫉妬は愛ではないこと、所有や支配は愛ではないこと、責任と義務は愛ではないこと、自己憐憫は愛ではないこと、愛されていないという苦悩は愛ではないこと、謙遜が虚栄の反対物でないのと同様、愛は憎しみの反対物ではないこと、を理解するでしょう。ですから、無理強いによってではなく、雨が木の葉から何日も降り積もった土埃を洗い流してしまうようにそれらを洗い流すことによって、こうしたすべてを消し去ってしまうことができるなら、そのときあなたはたぶん、人がつねに恋焦がれてきたこの不思議な花に出会うでしょう。

 

もしもあなたが愛をその僅かな滴ではなく、豊富に得ていないなら、もしもあなたがそれでいっぱいになっていないなら、世界は悲惨な状態に行き着くでしょう。あなたは知的には、人類の統合が不可欠であることを、愛がそのための唯一の手立てであることを知っているかも知れません。しかし、誰があなたに愛するすべを教えてくれるのでしょう? 何らかの権威、メソッド、システムがあなたに愛し方を教えてくれるのでしょうか? 仮に誰かがあなたにそれを教えるとしても、それは愛ではありません。

 

あなたは「私は愛を練習するつもりだ。私は来る日も来る日も座って、それについて考えるつもりだ。私は親切で優しくなることを練習し、他の人たちに注意を払うよう自分に強いるつもりだ」と言うことができますか? あなたは自分を訓練して愛するようになることができる、愛するために意志を行使できる、と言いたいのでしょうか? あなたが愛するために規律と意志を用いるとき、愛は窓から出ていってしまうのです。愛するためのメソッドやシステムを実践することによって、あなたは並外れて利口になったり、 もっと親切になったり、非暴力の状態に達したりするかも知れません。しかしそれは何であれ、 愛とは関わりをもたないのです。

 

この引き裂かれた砂漠世界に愛はありません。なぜなら、そこでは快楽と欲望が最も大きな役割を果たしているからです。けれども、愛がなければあなたの日々の生活は無意味になります。そして美がなければ、あなたは愛をもつことはできないのです。美はあなたが目で見るものではありません――美しい樹木でも、美しい絵でも、美しい建物や美しい女性でもないのです。あなたのハートと精神が愛とは何であるかを知るときにだけ、美はあるのです。愛とそれがもつ美の感覚がなければ徳はありません。

 

そしてあなたは、自分が何をしようと、社会の改善であろうと、貧しい人に食事を提供することであろうと、それがよりいっそうの害毒をつくり出すに過ぎないことをよく知っています。というのも、愛がなければ、そのときあなた自身のハートと精神の中にあるのは醜さと貧困だけだからです。しかし、愛と美があるとき、あなたがすることは何でも正しく、どの行ないも秩序立っているのです。愛するすべを知るなら、あなたは何でも好きなことができます。愛は他のすべての問題を解決するだろうからです。

 

そこで、私たちは重要な地点にさしかかりました。精神は規律(訓練)なしに、思考なしに、 強制なしに、どんな書物、どんな教師や指導者もなしに、愛と出会うことができるでしょうか? 美しい日没に出会うのと同じようにして、それと出会うことができるでしょうか? 一つのことが絶対に必要だと、私には思われます。それは動機をもたない情熱―――義務感や愛着の結果ではない情熱、情欲ではない情熱です。情熱の何たるかを知らない人は、決して愛を知りません。なぜなら、愛は完全な自己放棄があるときにだけ出現するからです。 探し求めている精神は情熱的な精神ではありません。そして愛を探し求めることなく愛と出会うことが、それを見出す唯一の方法です。

 

知らないうちにそれと出会うので、それは何らかの努力や経験の結果ではありません。あなたが見出すはずのそのような愛は、時間の中にはありません。そのような愛は個人的でもあれば非個人的なものでもあり、一であると同時に多です。芳香をもつ花のように、あなたはその匂いをかぐか、そばを通り過ぎるかします。その花は万人のためにあり、同時に立ち止まってその香りを深く味わい、喜びをもってそれを眺める一人の人のためにあるのです。庭でそのすぐそばにいようと、遠く離れたところにいようと、その花にとっては同じです。なぜならそれは香りに満ちており、それゆえすべての人とそれを分かち合っているからです。

 

愛は新たで新鮮な、生き生きとしたものです。それは昨日も明日ももちません。それは思考の騒乱を超えています。愛が何かを知るのは無垢な精神だけです。そしてその無垢な精神だけが、 無垢でない世界に生きられるのです。犠牲や崇拝、関係やセックス、あらゆる種類の快楽や苦痛を通じて人が際限もなく探し求めてきたこの途方もないものを見出すことは、思考がそれ自らを理解し、その結果、自然に終わりを迎えるときにだけ可能になります。そのとき愛は反対物をもちません。何の葛藤ももちません。

 

あなたはこう言うかも知れません。「もしも私がそのような愛を発見したなら、私の妻は、子どもたちは、家族はどうなってしまうだろう? 彼らは安全を必要としています」と。そのような問いかけをするなら、あなたは思考の領域、意識の領域の外側に一度も出たことがないのです。その領域の外側に出たことがあれば、あなたは決してそのような質問はしないでしょう。なぜならそのとき、あなたはその中に思考がなく、従って時間もない、愛というものを知るだろうからです。あなたはこれを読んで催眠にかかったようにうっとりするかも知れませんが、実際に思考と時間を超えるとは――それは悲しみを超えることを意味しますが――愛と呼ばれる異なった次元が存在することに気づくことなのです。

 

しかしあなたは、どうやってこの途方もない源泉に到達すればいいのか知りません。それであなたはどうするでしょう? もしもどうすればいいのかわからないなら、何もしないことです。 断じて何もしないのです。そのとき、内的にあなたは完全に静まります。これが何を意味するか、おわかりですか? それはあなたが探していないことを、求めていないことを、追求していないことを意味するのです。そこには中心が全くありません。そのとき、そこに愛があるのです。
 

J.クリシュナムルティ『既知からの自由』より第10章「愛」より(後半部)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(引用ここまで)

 

雲黒斎さんも「マスターたちは〝〜に非ず〟という

否定形でしか、真実を伝えてくれない」と

話されていましたが、

「愛とは何か」を説こうとしている

このクリシュナムルティの文章も、

「愛でないものとは何か」について

次々と語っていくスタイルで書かれていますね。

 

「愛と出合うためにどうすればいいか?」と

問われても、それを表現する言葉がないので、

方法として語ることはできないし、

思考によって形づくられた枠の外側に出るしかなく、

そのことに対して常に自覚的でいること、

つまり、時間を超えるしかないんだと。

 

 

昨日の記事の冒頭に、わたし自身が

こういうことの大切さに気がついて

最初に考え始めたのは、

この本と出合った20歳の頃だったと書きました。

 

でもその頃は、ただ愛とは何か、

文面を言葉次元で追っていただけで、

言葉をアタマで知ったつもりになっていただけで

既知からの自由が

すぐ体感できたわけでないことはもちろん、

実践できていたわけでもありません。

 

つまり、わたしたちは、

「これこそが愛だ!」と勝手におもいこんだり

一人よがりに勘違いしていることについて、

実際に自分のアタマと身体を使いながら、

何度も何度も繰り返し体験しながら、

〝愛でないもの〟を

外堀を埋めていくような形で理解し、

そのひとつひとつを丁寧に統合していくことで、

目には見えない愛のカタチを少しずつ

感じ取れるようになっていくのではないかと。

 

それは本当に少しずつ少しずつ、

薄皮を剥ぐような日々の行為であって、

問題を一気に解決してくれるような

魔法の杖は存在しないし、また

ある日、瞬間的にそのすべてがわかる

一瞥体験のようなことも

現実にはほとんど起こりません。

 

わたし自身そんな風に、

ここに書かれた内容について

多少なりとも体感を伴いながら

実感できるようになってきたのは

50歳を過ぎたぐらいの頃のことで、

30年程かかったことになりますね〜 (^^;)

 

 

今年1月のお正月明けに、昨年読んだ

ハナムラチカヒロさんの『まなざしのデザイン』を

紹介する記事を書いたんですが、

そのハナムラさんが、

クリシュナムルティの著書について

語られている30分ほどのYouTube動画があり

最後にシェアしておきますので、

ご覧になってみてください。


【ハナムラの視点#004】世界をありのままに見ていない私たち

 

【参考記事】

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その1)

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その2)

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その3)
佐治晴夫『「これから」が「これまで」を決めるのです』(「今日の名言・その21」)

J.クリシュナムルティ「あなたは世界であり、世界はあなたである」(今日の名言・その68)

ハナムラチカヒロ『まなざしの革命』

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

 こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆寺子屋塾に関連するイベントのご案内☆

 9/29(日) 第27回 経営ゲーム塾B

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎らくだメソッド無料体験学習(1週間)

 詳細についてはこちらの記事をどうぞ!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。