「統合する」ということ(その16)M.C.エッシャーの不思議な世界
2024/09/21
昨日9/20に投稿した記事の続きで、
「〝統合する〟ということ」をテーマにした記事も
今日で16回目になりました。
これまで投稿してきた15回で書いた内容を
前提として話を進めることがあるので、
未読記事のある方は、
まずそちらから先にお読み下さい。
一昨日投稿した記事(その14)で、
ピアニスト一人で演奏している
20世紀になってから作曲された
ピアノ音楽作品の音源動画4本をシェアし
A〜Dのうちのどの作品が
空間的な広がりを感じられたか
問いかけました。
音楽は「音を楽しむ」と書きますが、
あまりアタマで考えずに、
響きを感じて欲しかったためです。
もちろん、音楽をつくる技術というものが存在し、
その方法論については
さまざまな考え方があります。
あくまでひとつの目安にすぎないのですが、
昨日投稿した記事(その15)では、
四作品がどのようなやり方で作曲されたか、
音の組み立て方について記しました。
ちなみに、気がつかれた方が
いらっしゃったかもしれませんが、
四作品は作曲年代が古い順に並んでいます。
さて、一昨日、昨日と音楽の話題でしたが、
本日のメインコンテンツは
美術作品(版画)です。
昨日9/20は、朝早めに家を出て
教室が始まる前に豊田まで足をのばし、
豊田市美術館で開催中の、
エッシャー 不思議のヒミツを観てきました。
9/23(月・祝)までなので、
いつもながらの駆け込みだったんですが・・ (^^;)
写真撮影OKだったので、
以下、展示作品の一部をご紹介。
美術館の会場入口に配置されていた
「写像球体と手」は、
自画像的扱いの作品だとおもうんですが、
やっぱり、自己観察なんですよね〜
「写像球体と手」(1935)
初期から晩年まで約160の作品が
展示されていました。
「天地創造の4日目」(1926)
「昼と夜」(1938)
「描く手」(1948)
「渦巻き」(1957)
「婚姻のきずな」(1956)
「物見の塔」(1958)
「上昇と下降」(1960)
「上昇と下降」上部のみ拡大
「メビウスの帯Ⅱ」(1963)
画家、美術作家とされる人々には、
絵画、版画、造形、写真など
複数の表現手段を用いることが少なくありませんが
エッシャーは生涯、版画を彫り続けた人でした。
なぜ、彼は版画にこだわり続けたのかという
問いが浮かんだのですが、
手の熟練や共同作業がもたらす豊かな世界を
知っていたのかもしれません。
そういう意味でいうと、
版画という手の技術が為せる技の芳醇さを
十分堪能できたように感じています。
エッシャーの作品は、
「だまし絵」と称されることがしばしばですが、
でも、人を騙すことを目的にして
作品を制作したわけではないでしょう。
作品の創り出す世界が
虚構にすぎないと仮定すれば、
現実世界の方が真実と言えるのでしょうが、
では、わたしたちは現実世界を
本当に正しく捉えられているのでしょうか?
平面空間に複数の視座を導入した
パブロ・ピカソのキュビズムに触れましたが、
エッシャーはキュビズムとはちがった形で、
多くの視点を統合した
二次元空間の表現に挑んでいたのではないかと。
実はわたしたち人間の多くが
三次元空間に生きていながら、
二次元の認識しか出来ていないという、
大脳思考のトラップをいち早く感じ取って
それを作品に表現していたのかもしれません。
そんなふうに捉えてみると、
かれの先駆性と独創性、
その観察力の確かさに目を見張るばかりでした。
この続きはまた明日に!
【参考記事】
・「高次」とは認識視座の増加である(雲黒斎さんのYouTube動画より)
・雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その3)
・佐治晴夫『「これから」が「これまで」を決めるのです』(「今日の名言・その21」)
・J.クリシュナムルティ「あなたは世界であり、世界はあなたである」(今日の名言・その68)