「統合する」ということ(その17)清水幾多郎『論文の書き方』
2024/09/22
昨日9/21に投稿した記事の続きで、
「〝統合する〟ということ」をテーマにした記事も
今日で17回目になりました。
これまで投稿してきた16回で書いた内容を
前提として話を進めることがあるので、
未読記事のある方は、
まずそちらから先にお読み下さい。
昨日9/21に投稿した記事では、
豊田市美術館で開催中の、
前日に観てきたことに触れ、
作品を紹介したのちにコメントしました。
なぜ「〝統合する〟ということ」というテーマに
エッシャーの版画作品だったのか、
作品をご覧になるだけで、
十分感じ取って頂けるんじゃないかとおもったので
敢えて言葉では書かなかったんですが。
さて、音楽、美術とアートが続いたんですが、
今日は一転して文章の書き方について書かれた
書物からの引用して内容をご紹介。
わたしが生まれた1959年に出版された
この本は、wikipediaの記述によると、
3000点を超える岩波新書のなかでも、
発行部数の多さで第三位となっている
ロングセラー中のロングセラー。
2008年のデータで少し古いんですが、
累計で145万部売れたとのこと。
さてそれで、統合することというテーマの記事で、
なぜ、わたしがこの本を選んだかなんですが、
まずは、引用した文章を読んで
その理由を考えてみて下さい。
引用した箇所は、
V章「あるがままに」 書くことはやめよう
からです。
(引用ここから)
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「見た通り」の世界と 「思った通り」の世界
「あるがままに書こう。」「正直に書こう。」美文の型が力を失って以来、こう唱え続けられて来た。この言葉は、少年時代から今日に至るまで、私に附きまとっているようである。多くの人々にとっても同じであろう。しかし、「あるがままに……」と言われても、「正直に……」と言われても、ただこの態度だけで文章が書けるものではない。表面は、この教訓は実行し易いように見えるけれども、実際は、むしろ、自分の正直な経験を軽く見て、美文の型に自分を合わせてしまう方が楽に書けるのである。「あるがままに……」とか、「正直に……」とか命ぜられながら、手も足も出ずに、私は秘かにもがいていたようである。この点は前にも触れておいた。
ところで、「あるがままに……」、「正直に……」という場合、当の事柄が眼に見える外部の世界のことか、眼に見えぬ内部の世界のことかによって、一方では、「見た通りに……」ということになり、他方では、「思った通りに……」ということになる。それでは、見た通りの外部とは何か。 思った通りの内部とは何か。それを調べてみることにしよう。われながら、あまり気の利いた表現とは考えないが、要するに、見た通りの世界も、思った通りの世界も、いろいろの事物の空間的並存状態なのである。前に無規定的直接性と呼んだものを新しく言い換えたことになる。もっとも、無規定的直接性の方は、事柄を人間の精神との関係で掴んだものであるのに対して、空間的並存状態の方は、人間の精神から離れて、事柄それ自身に即して掴んだものという差異はある。
さて、眼に見える世界は、最初、空間的並存状態として現われるほかはない。例えば、今、私がこの原稿を書いている部屋を見廻すと、執筆に使っているデスクがある。椅子がある。灰皿がある。電気スタンドがある。これは螢光灯だ。大きな重い窓がある。ベッドがある。その他、実にいろいろのものがあって、到底、数え切れそうもない。あれもある。これもある。これらの全体が一度に眼に入って来る。これが、「見た通り」の世界である。この世界をただ見ているのなら、誠に天下泰平であるけれども、今は見ていることが仕事ではなく、これを書くというのが仕事である。しかし、書くとなれば、天下泰平では済まない。なぜ済まないのか、と考える前に、「思った通り」の心の世界というものを覗いてみよう。昔から、空間的規定は物質特有のもので、心については空間的規定は当て嵌まらないという学説があるけれども、私が問題にしている事柄についてなら、空間的規定を持ち出してもよいと思う。
先日来、私はこのホテルの一室で原稿を書いている。今の私には少し散歩したいという気持がある。部屋の中はスチームで温いが、戸外はひどく寒いであろう。風邪をひいては困る。背中がムズムズする。昨夜はもっと書いておけばよかった。寝るのが早過ぎたのだ。やはり、少し散歩したい。いや、お茶でも飲もうか。しかし、呼鈴を鳴らすのは面倒だ。その他、いろいろの気持が私の心に同居している。雑居している。あれも思い、これも思っている。これが、「思った通り」の心の世界である。これも、ただ思っている分には、何も問題は起らない。いつまでも思っていればよいであろう。だが、この世界を書くとなると、忽ち問題が発生する。
以前から、哲学の世界には直観という立派な言葉がある。これを直覚と呼んでいる人もあって、その方が鋭い感じがするけれども、ここでは直観ということにしておこう。哲学史を読めば判る通り、直観は知識の最高の形式と見られている。それは、内外一切の真実を一挙に直接的に把握する働きと見られている。知識の問題を真面目に考える人間であれば、誰しも直観を憧れるにきまっている。一挙に、というのであるから、すべてのものを同時に全体的に摑むことになる。直接に、というから、何れは習練があったにせよ、面倒な理窟など言わずに、人間が現実と一枚になるのである。こう考えれば、誰でも直観というものを憧れるであろう。
しかし、哲学者たちの言葉を読むと、直観は全く大したものであるが、しかし、現実には、こういう本物の直観はなかなか行われなかったようである。あったにしても、極めて稀であったのであろう。哲学者自身が、実は、直観への憧れを語っていたのであろう。そして、現実に行われた限りの直観というのは、実際は、私のいう空間的並存状態に近いものであって、「見た通り」の世界のこと、「思った通り」の世界のことであったと思う。それが果して知識の最高形式か否かは怪しいが、とにかく、空間的並存状態においては、全体が、それはそれなりに、一挙に直接的に現われているとは言える。しかし、文章を書くことは、私たちがこの自然の状態にとどまっていたのでは不可能でもあり、また、不必要でもある。書くというのは、この直観を克服することである。
文章は空間の時間化
直観においても、空間的並存状態においても、一挙に、と、直接的に、という点が重要であった。ところが、文章を書く場合は、一挙というわけには行かず、また、直接的というわけには行かぬ。直接性の問題は以前にも述べたから、今は深入りしないが、画家が描いた花が実物の花に似ているのに対して、私たちが書く「花」という言葉は、どう見ても、実物の花に似てはいない。画家や彫刻家の仕事に比べて、散文家の仕事は甚だ抽象的なものである。もともと、この抽象性が言葉というものの本質なのであって———この抽象性のゆえに、逆に、言葉は、絵に描けないもの、形のないものを表現することが出来るという点に強みを持っている。言葉を使う人間は、この本質を見極めていなければならぬ。
誰でも知っている通り、有名なロゴスというギリシア語は、言葉という意味と、論理という意味とを有している。文章を書くものは、ロゴスと手を握ることになる。ロゴスは、言葉としては、今も言ったような抽象的なシンボルのことを、論理としては、物事の正しい筋道のことを言い現わしている。言葉を使う人間は、物事の筋道を辿らねば使えないし、物事の筋道を辿る人間は、否でも応でも、言葉を使わねばならぬ。直接性というのは、一般に、言葉を使わないこと、論理にこだわらないこと、即ち、ロゴスと手を切ることである。これに反して、文章を書くというのは、ロゴスと堅く手を握るということ、即ち、言葉を使い、論理を重んずるということである。言葉を使い、論理を重んじなかったら、何も書けないし、仮に書いたとしても、他人には理解出来ないであろう。
そこで、一挙に、という点へ移ろう。この部屋の内部を見廻しても、私の心の内部を覗いても、確かに、いろいろのものが一度に見える。空間的並存状態である。しかし、それを一度に書くことは思いも寄らぬ。書くとなれば、一字一字、一語一語、一句一句、順々に書いて行かねばならぬ。部屋の話なら、デスクのことから書き始めるとして、次に窓に移り、それから、それから……ということになるし、私の心の風景の話なら、散歩から書き始めて、ムズムズする背中へ進み、それから、それから……ということになろう。つまり、或る長さの時間的過程を進んで行かねばならぬ。見れば一瞬のものも、書けば五時間、十時間、一日、十日、どんなに長くかかるか判ったものではない。書くというのは、空間的並存状態にあるものを時間的継起状態へ移し入れることである。そこに雑然と並んでいるものを一つ一つ時の流れへ投ずることである。
話がここまで進むと、再び絵画との比較が必要になって来る。いや、絵画より前に写真のことに触れておこう。写真家は、ファインダーを通して、風景を一度に摑む。シャッターを押す。出来上った作品には、風景の全体が現われている。人々は、それを同じく一度に見る。こうして、写真の場合は、カメラを使う人にとっても、作品を見る人にとっても、風景の全体が一度に現われている。しかし、絵画は違う。画家は、風景にしろ、人物にしろ、写真家とは違って、一挙に描くことは出来ない。何処から描き始めるか、私はよく知らないが、何れにしろ、或る部分から一つ一つ描いて行くほかはないであろう。彼は長い時間的過程の中を動いて行かねばならぬ。写真家が「決定的瞬間」を捕えるのとは違う。しかし、長い時間をかけて絵が出来上ったとなると、その途端に、絵画は写真と似たものになる。即ち、絵を見る人にとっては、写真と同じように、全体が一度に見えるからである。
以上を整理すれば、一つの極端に写真が立ち、他の極端に文章があって、両者の中間に絵画があることになる。写真では、制作者も享受者も全体を一度に見る。絵画では、制作者は根気よく時間的過程のうちを歩むが、享受者は全体を一度に見る。ところが、文章では、制作者も享受者も一緒に時間的過程を歩いて行かねばならぬ。書く人間も、一字一字、一語一語、一句一句、書いて行かねばならないし、読む人間も、同じように、一字一字、一語一語、一句一句、読んで行くほかはないのである。前に触れた、書物の頁をパッと見て、サッと判る、というのは、このもどかしさに堪えかねた読者の願いではあるが、実際は、そうは行かない。制作者も享受者も気の長い時間的過程を静かに歩いて行かねばならぬ。
※清水幾多郎『論文の書き方』V章「あるがままに」書くことはやめよう より
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(引用ここまで)
本書は8つの章に分けて書かれていて、
そのうちの第Ⅴ章を、しかも一部分だけを
引用したので、
たとえば、
無規定的直接性という言葉が出て来ても
何の事かよくわからないでしょう。
本書を読まれるのが一番よいのですが、
そこまで時間的な余裕がないという方は、
本書全体をざっくり概観して
コメントしているレビュー記事を
ネット上に見つけたので、
ご覧になってみてください。
この続きはまた明日に!
【参考記事】
・「高次」とは認識視座の増加である(雲黒斎さんのYouTube動画より)
・雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その3)
・佐治晴夫『「これから」が「これまで」を決めるのです』(「今日の名言・その21」)
・J.クリシュナムルティ「あなたは世界であり、世界はあなたである」(今日の名言・その68)