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「統合する」ということ(その18)細谷功『有と無』

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「統合する」ということ(その18)細谷功『有と無』

「統合する」ということ(その18)細谷功『有と無』

2024/09/23

昨日9/22に投稿した記事の続きで、

「〝統合する〟ということ」をテーマにした記事も

今日で18回目になりました。

 

これまで投稿してきた17回で書いた内容を

前提として話を進めることがあるので、

未読記事のある方は、

まずそちらから先にお読み下さい。

(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』

(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②

(その3)安冨歩『合理的な神秘主義』

(その4)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』

(その5)森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』

(その6)学問分野の統合・まとめ

(その7)よしもとばなな『花のベッドでひるねして』

(その8)鈴木清順『陽炎座』

(その9)雲黒斎「フラットランドについて」①

(その10)雲黒斎「フラットランドについて」②

(その11)クリシュナムルティ『既知からの自由』①

(その12)クリシュナムルティ『既知からの自由』②

(その13)吉富昭仁『BLUE DROP』

(その14)時間と空間の関係①

(その15)時間と空間の関係②

(その16)M.C.エッシャーの不思議な世界

(その17)清水幾多郎『論文の書き方』

 

昨日9/22に投稿した(その17)の記事では、

岩波新書で刊行後65年経った今もなお

再版されているロングセラー中のロングセラー

清水幾多郎『論文の書き方』をとりあげ、

V章「あるがままに」書くことはやめよう より

冒頭部分を引用して紹介しました。

 

「統合すること」というテーマの記事で、

なぜ、わたしがこの本を選んだか、

引用した文章を読んで、理由を考えてみて下さいと

書いたんですが、考えてみましたか?

 

ブログ記事1日分で、

1冊まるごと紹介することはできませんから

部分的に引用したわけですが、

まずは、引用した文章のあとに

どんな内容の文章が続くかについて、

想像できるかどうかが、

著者の言いたいコトをキャッチできたかどうかの

バロメーターになると言ってよいでしょう。

 

記事の最後に、本の内容全体を要約し紹介している

レビュー記事をシェアしておいたので、

そちらをご覧になった方は、

この本の全体像がざっくり掴めるので、

考えやすかったかも知れません。

 

引用した箇所の後半部に、

「文章は空間の時間化」という

中見出しがありましたね。

 

写真と絵画と文章を比較して、

表現手段が違うと、必要な時間に差があることに

言及されていましたが、

「空間の時間化」という言葉からは、

(その9)(その10)で紹介した

雲黒斎さんのYouTube動画

フラットランドについてのお話や、

(その16)で紹介したエッシャーの版画作品

おもいだされた方もあったことでしょう。

 

結局、文章を書くということも

版画を彫ったり絵画を描いたりする行為には、

時間がかかるので

写真のように一瞬で空間を切り取って

写し出すわけにはいかないわけです。

 

それから、冒頭に

「『見た通り』の世界と『思った通り』の世界」

という中見出しがありましたが、

見たとおりの世界、思った通りのことを

ただ、そのまま並び立てていったところで、

面白い文章は書けません。

 

引用した箇所の次に続く文章の中見出しが

「書くのは私である」なんですが、

たとえば、100見えたところを

100全部書くのでなく、

100のうちから10を選び出そうとするなら、

どういう理由でその10を選んだのか

その基準が浮き彫りになってきます。

 

また、見えたものだけでなく、

見えていないものが何なのかについても

想像しようとするなら、

観察するとはどういうことかという問いが

浮かび上がってくることでしょう。

 

さらには、目に見えたことと、

心でおもったこととは、当然軸が別ですが、

各々をどのぐらいの比率で書くのかということも

所与の条件があるわけでなく、

自分で判断し決めていかなければなりません。

 

記事の最後で紹介したレビュー記事に、

本書全体を通して読み取れることは、

「文章を書くことは物事の認識の問題である」という

主張だと書かれていましたね。

 

つまり、文章を日々書き続けることは、

自分が物事をどのように認識しているのかに対して

常に自覚的であろうとする姿勢を

培うことになるし、

情報の分解や統合を

自由自在に行える編集スキルを磨く

鍛錬にもなり得るわけです。

 

よく言われることではありますが、

「文章を書く」ことは、

自分自身と向き合うことにつながるし、

それは結局、有の世界、つまり

自分の目の前に見えていることだけでなく

目の前には見えていない、無の世界も含めて統合し、

ひとつ上の次元の世界を

意識しようとすることでもあるんだと。

 

 

さて、本日の記事のメインコンテンツですが、

この寺子屋塾ブログにて時折紹介している

細谷功さんの新刊書『有と無』

今年の6月に出たので、

それをご紹介・・・って話がつながりましたね。

 

次の写真は本書の帯の裏側です。

 

一体これは何の本なのでしょうか?

一言で表現すれば、
「ものの見方の一つを提供する」ための本です。


「無限」は多くの数学者が敬遠して
解明が進みませんでした。
また「ある」を表現する
自然数(1、2、3……)に比較して、
「ない」を表現する0は圧倒的に

その「発見」が遅れました。
扱うのがきわめて難しいのが「ない」の世界です。
本書でいう「ない型」の思考回路は
「自らを客観視する」メタ認知の産物であり、
これは意識の問題とも関連して
AIがいまだに持てない感覚です。

これをどう克服するかが
AI進化の一つの分水嶺となることは

間違いありません。


読み方次第では、
何の役にも立たないものにもなれば、

ありとあらゆるものに役に立つものにも

なりえるのが本書です。

 

 

いかがですか?

面白そうでしょう?

 

(その9)(その10)で文字起こしを紹介した
雲黒斎さんのYouTube動画には、

『既知を用いて道を知ることの難しさ、非ずの世界』

ってタイトルがついていましたね。

 

それで、本書の最後から2番目にある第17章に

既知と未知 

「わかっていない」から、「自分は正しい」と考えられる

というタイトルがつけられているので、

その章を以下にご紹介。

 

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「知識」があるかないか
「既知」は「知っている」、「未知」は「知らない」ということなので、ここでの「あるかないか」の対象は「知識」ということになります [上の図58]。


ここまで繰り返し述べてきたように、私たちは何かを考えるとき、当然のことながら 「見えているもの」という具体的なものをベースにして考えます。 そして、具体的なものはたいていの場合は経験に基づいています。ここでいう「経験」には文字通り直接的に自分で見たり聞いたりしたことに加え、テレビやネットや本での「間接経験」も含まれます。


「あるとない」の一般的なルールからこれらの関係でいえることは、順序に不可逆性があるということです。未開拓の土地は一度開拓されたら、それを再び「未開拓」に戻すことはできません。SNSでいえば、未読が既読になっても逆はないでしょう。強引にシステム上の表示を戻すことはできるかもしれませんが、内容を読んでしまったことを「なかったことにする」のは、PCの記憶装置ではできても私たちの脳ではできません。このように未読から既読への一方通行となります。


また、知っていることは有限ですが、知らないことは無限にありうるという点も、「ある」「ない」の関係を継承します。したがって、「知らないことを挙げてください」という問題は、「知っていることを挙げてください」という問題よりも格段に難易度が高くなります。


図59における「ある型」(左側)は、「中途半端に知っている」人によく見られる思考回路です。どんな領域でもある程度の知識を得ると「わかったような気になってしまう」という状態となります。もう学ぶことがあまりなくなるので、このような思考回路の人は「他人への説教」を始めることが多くなります(ソクラテスが批判した当時のギリシアにおける「ソフィスト」がこの状態です)。


対して同図における「ない型」(右側)の思考回路とは、学べば学ぶほどその外枠(「ない」の領域)が広がっていき「学べば学ぶほど自分の未熟さが身に染みる」という境地です。

 


「無知の無知」と「無知の知」
それでは、このようなギャップからどのような問題が引き起こされるのでしょうか? 認知心理学の世界で「ダニング=クルーガー効果」と呼ばれている一種の認知バイアスがあります。簡単に表現すると「わかっていない人ほど、わかっていると誤解している」ということです。


一方でソクラテスの唱えた「無知の知」(「知らない」ということを知る)という言葉はある意味この真逆の状態を表すもので、「本当に賢い人ほど、自分はわかっていないと思っている」ことを端的に表現しています。対して、「わかっていない人ほど、わかっていると誤解している」は「無知の無知」(「知らない」ということを知らない)ということができます。日常生活やSNSでよく見られる現象です。


・事情をよく知らない人ほど「自分が正しい」と思って断言的な主張をする(「ある型」の思考)。
・一方で、「自分が知らないことがあるかもしれない」と疑ってかかる人は、安易に自分の正しさを主張せずに「自分は間違っているかもしれない」という姿勢を崩さない (「ない型」の思考)。


こうした「ある型」と「ない型」の二者がやり取りをすれば、「実はわかっていない人が、本当はわかっている人を相手に論破して勝ち誇る」という現象が後を絶たないことになります。

 

細谷功『有と無』第17章 既知と未知 「わかっていない」から、「自分は正しい」と考えられる

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

 

この続きはまた明日に!

 

 

【参考記事】

「高次」とは認識視座の増加である(雲黒斎さんのYouTube動画より)

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その1)

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その2)

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その3)
佐治晴夫『「これから」が「これまで」を決めるのです』(「今日の名言・その21」)

J.クリシュナムルティ「あなたは世界であり、世界はあなたである」(今日の名言・その68)

ハナムラチカヒロ『まなざしの革命』

細谷功『「無理」の構造 この世の理不尽さを可視化する』

 

 

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