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「統合する」ということ(その20)エッシャーの自画像から見えてくること

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「統合する」ということ(その20)エッシャーの自画像から見えてくること

「統合する」ということ(その20)エッシャーの自画像から見えてくること

2024/09/25

昨日9/24に投稿した記事の続きで、

「〝統合する〟ということ」をテーマにした記事も

今日で20回目になりました。

 

記事の素材を様々なカテゴリから取り上げていて

各々の記事は単独でも読めますが、

これまで投稿してきた19回で書いた内容を

前提として話を進めることがあります。

 

各々の記事内容が統合されることで

浮かび上がってくるものこそ、

この連投記事のメインテーマでもあるので、

これまでの投稿で未読記事のある方は、

時間的に可能な範囲でご覧になり

ぜひ内容の統合にチャレンジしてみて下さい。

(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』

(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②

(その3)安冨歩『合理的な神秘主義』

(その4)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』

(その5)森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』

(その6)学問分野の統合・まとめ

(その7)よしもとばなな『花のベッドでひるねして』

(その8)鈴木清順『陽炎座』

(その9)雲黒斎「フラットランドについて」①

(その10)雲黒斎「フラットランドについて」②

(その11)クリシュナムルティ『既知からの自由』①

(その12)クリシュナムルティ『既知からの自由』②

(その13)吉富昭仁『BLUE DROP』

(その14)時間と空間の関係①

(その15)時間と空間の関係②

(その16)M.C.エッシャーの不思議な世界

(その17)清水幾多郎『論文の書き方』

(その18)細谷功『有と無』

(その19)ジェームズ・ミッチェナーの名言

 

 

昨日9/24に投稿した(その19)の記事では、

「今日の名言」カテゴリとの統合を試み、

(その18)で紹介した細谷功さんの

『有と無』を読んでいて脳裏にふと浮かんだ

ジェームズ・ミッチェナーの言葉を

とりあげました。

 

書かれた言葉の意味は難しくなかったとしても、

やはり気になることは、

仕事と遊び、労働と余暇、

心と身体、教育と娯楽、

愛と宗教の区別をつけないのが

人生の達人というのなら、

どうしたらそういう境地に立てるかってことですね。

 

でも、どうしたらいいかっていう方法を、

人に聞いて、

教えてもらったようにやっても

たいていはあまり上手く行きません。

 

少し前にこちらの記事でも紹介したように、

響月ケシーさんは

「人の言うことを聞くな」って言われてましたし、

(その11)(その12)で紹介した

J.クリシュナムルティという人は、

「どうすればいいかを人に訊ねるのは、

最悪の質問!」と厳しいことを言われています。

 

つまり、人に相談したり、

人から話を聞いたりすることは

大切な姿勢なんだけれど、

そうした上で、

その人がそう言っているからではなく、

自分で決めて、まずやってみるって姿勢が大事

ってことなんですが、

この「実践する、行動する」という段には、

見抜かなければいけない罠が

もうひとつ潜んでいるんです。

 

このことに関して、

以前、この寺子屋塾ブログでもご紹介した

『身体は考える』の著者・方条遼雨さんが、
Facebookに次のような言葉を投稿されていて

目が止まりました。

 

「美しい動き」を目指すと、
「美しいだけの動き」になります。

理に適った動きを目指せば、
勝手に動きは美しくなります。

つまり、「理が先」なのです。

 

おそらく、

「統合すること」についても同じで、

統合を目的に、統合を目指すと、

単なる「統合されたもの」が

出来上がるだけのことなのでしょう。

 

(その1)(その2)で取り上げた

栗本慎一郎さんの著書からの引用部分を

おもいだしてほしいのですが、

結局、「人間とは何か?」という問いが先にあって、

その問いを突きつめて考えていくことで、

さまざまな学問分野を

結果的に統合せざるを得なくなったわけで、

最初から統合することを

目的にしていたわけではありません。

 

そのように考えると、寺子屋塾で実践している

セルフラーニングという学習法、

つまり、継続的に自己観察し

自分を知ろうとする姿勢を培うことは、

自分が世界をどう見ているのかという

内的観点と

自分はまわりからどう見えているのかという

外的観点とが

結果的に統合されていく意味において、

一番身近な自分自身を素材にしながら、

本質の探究を日常的に実践できる

実用的アプローチと言えるようにおもうのです。

 

 

また、このセルフラーニングというアプローチを

アートの世界に置き換えて言うなら、

「自画像」を描くこと、

「自己像」を彫ることになるんですが、

そうした自画像、自己像を制作する

作家は少なくなく、

ゴッホが晩年にたくさん自画像を描いていたことは

とくに有名ですね。

 

もちろん、ゴッホの場合は極貧状態にあって、

モデル代が払えず、

絵のモデルになってくれる人が

いなかったからと言っている識者もあって、

セルフラーニングというテーマとは

あまり関係ないかもしれないんですが。。。

 

 

(その16)で紹介したエッシャーの作品は

全部で460点ほどあるそうですが、

自画像が12点ほど残されていて、

秀作時代の若い頃から晩年まで

順を追って観ていくと、

そのひとつひとつに

さまざまなアプローチが見て取れます。

 

 

自画像(1917)

 

自画像(1917)

 

自画像(1918)

 

自画像(1919)

 

椅子に座っている自画像(1920)

 

自画像(1922)

 

自画像(1929)

 

自画像(1935)

 

鏡に映った自画像(1943)

 

 

次の作品は自画像でなく、

誰の目であるかも表記はありませんが、

上のポートレートと比べてみて、

鏡に映して描かれた

エッシャー自身の目と推測されます。

 

中心の黒目のところに、

骸骨が浮かび上がっていて

第二次世界大戦直後の

1946年という制作時期を反映し

死が意識されていたのかもしれません。

 

目(1946)

 

次の作品は、エッシャー自身と彼の妻とを

描いたものですし、

他にも球形の鏡に映った自己像など、

とくに、晩年に制作された作品群には、

自分ひとりだけを描いた自画像がなく、

構図や表現方法がさらに磨かれ

より洗練されてきている印象を受けました。

 

 

婚姻のきずな(1956)

 

3つの球面体Ⅱ(1946)

 

上記作品の球面部分のみ拡大

 

球体のある静物(1934)

 

あれやこれやと書いていったら、

いつものように長くなってしまいました。(^^;)

 

(その16)の記事には

敢えて言葉で書かなかったことですが、そもそも

なぜ「統合すること」というテーマの記事に

わたしがなぜエッシャーの作品を素材として

採り上げたのか、

その一番大きな理由について記すことで

今日のこの記事を締めくくろうとおもいます。

 

エッシャーの、他の美術作家と異なる

際だった特徴、独自性を端的に書くとするなら、

「アート」と「サイエンス」とが

優劣なく同等のものとして一体となった

表現になっていることと言ってよいでしょう。

 

そのことは、エッシャーの作品が、

美術の世界ではあまり評価されず、

高く評価している人たちには、

数学者や物理学者に多いということにも

現れているように感じます。

 

そしてそれは、前記したように

エッシャー自身も

各々の統合を目指したのではなく、

あくまで創作の本質を追究していった結果として

そうなっただけであって、

そもそも「サイエンス」と「アート」とは、

もともと人間の行為を

別の角度から捉えているにすぎないのですから。

 

 

さいごに、ほぼ日のウェブサイトに、

自らエッシャーの生まれ変わりと称されている

数学者・荒木義明さんへのとっても興味深い

インタビュー記事(全4回)を見つけましたので、

リンクを貼り付けておきます。

 

残念ながらエッシャー展に行けなかった方、

エッシャーについてもっと知りたい方は

是非アクセスしてみてください。

 

絵で無限を描く画家

数学者・荒木義明先生に訊く、エッシャーのこと

 

 

制作中のエッシャー(1968年頃)

※上記写真は美術手帖2006年11月号より

 

 

 

この続きはまた明日。

 

 

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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

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