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愛することと恋すること④ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

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愛することと恋すること④ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

愛することと恋すること④ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

2024/10/15

昨日10/14投稿した記事の続きです。

 

栗本慎一郎さんが1982年に出版された

『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』

「恋することと愛すること」の章を

7回にわけて紹介しようとしているんですが、

今日で4回目となりました。

 

「恋することと愛すること」の章は、

全体の1/3弱にあたる70ページ弱の分量があり、

・恋をしているあなたのために

・あなたはいかにして愛を知るか

・恋と愛とははっきり違う

・とどめとして———愛と恋のはざまに

という見出しのついた4つの節からなっています。

 

本日ご紹介するのは2番目の節

「あなたはいかにして愛を知るか」後半なので、

これまで3回投稿した記事に未読分がある方は

まずそちらから先にご覧下さい。

①恋をしているあなたのために(前半)

②恋をしているあなたのために(後半)

③あなたはいかにして愛を知るか(前半)

 

(引用ここから)

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男の本能、女の本能
私は、そこにもうすこし細かい付け加えをしたいと思います。少年が少女の前でなんとなく心を乱し、彼女と離れているとどうしているか気になって仕方ないというのはたしかに愛です。しかし、それは次にどんな状況を招くでしょう。

 

もしもなんらかの外敵、たとえば、痴漢や暴漢が彼女を狙って襲いかかったとき、少年は当然、捨て身で反撃します。つまり、強い保護本能が男性には働くのです。逆に、女性が自分の体を他の男に捧げて愛する男の身を守るなどということは発生しません。

 

女性の愛は母性的保護本能として表われるのであって、これが実際の恋愛対象の男に対しては精神的に苦しんでいるのを慰めてやるとか、男の涙をぬぐってやるとかで発揮されるのです。

 

敵に殺されそうになっている男の恋人のために、「やめて。この人を殺さないで。その代わり、私をどうにでもして」などということで救ってもらっても男はすこしも嬉しくないでしょう。その代わり、テストに悪い点でも取って泣いているとき、あるいは経済人類学の単位を落として泣いているとき、愛する女性がやってきて、「かわいそうな人。私が涙をふいてあげる」と言ってくれることを男はこころの底から望んでいるのです。

 

かつて、中国大陸で日本軍が中国人に対して残虐な行為を繰り返していたことがありました。あるとき、一人の中国人農夫が日本軍に非協力的だったという理由で日本兵に残酷に殴打されたそうです。しかし、このとき、その妻が必死に彼を守り、頭から血を流してよろめいている夫を自分の体で支えて家へ帰ったそうです。

 

このシーンを見て、加害者であり、圧倒的に優越した立場にあるはずの日本兵は一種の強い羨望とコンプレックスを抱いたといいます。日本軍に捕まった中国人に対するその妻の愛情は実に見事に典型的に形式化されたものであり、そこにいた日本兵にはたぶん最も欠けたものだったのでしょう。

 

つまり、愛とは、男性の側からは女性に対する、かなりに肉体的な保護本能を意味するものです。他人という敵から保護して、自分は、かなり攻撃的な形でセックスをするわけです。攻撃してよいのは自分だけという独占欲にも似ています。

 

そして、生まれてくる子どもに対しても似たような保護本能を男性は感じるわけです。それが女の子であると、特に強く感じて、パパと娘の関係は特殊になってくるわけです。ともあれこうした、保護本能の触発がなければ、種としての人間は生きていけません。子孫を作り、それを保持していけなくなるからです。

 

一方、女性の母性本能というのは、「いいわ、私、やられてあげる」という一見受身の行動を能動的に起こすものです。女性は男に従ってついていくように見せながら、実は「よしよし」と男の頭をなでているという形を好むのが最も本質的な内面なのです。

 

男が女を愛することが生物的には保護行動プラス性的攻撃になるといいましたが、それはやはり相手のためを考えるというものでしょうか。一見、そのように見えます。女による男を慰める行動もそうです。愛する男の精神的保護のように見えるでしょう。けれども、愛は決して、相手を自己の世界の中心におくということではないのです。

 

たとえば、親子の「愛」を見てみましょう
その保護行動も、つまるところは、自分のためにやっているというところに本質があることを知らねばなりません。相手を守ってやっている、あるいは支えてやっている自分の姿が、こころの内面に快く反応するから、人はそのような行為をとるのです。

 

そうしながら、人は自己ののめり込みに酔えるからです。あの人を献身的に愛している自分の姿を美しいと感じ、無償の愛に身を捧げている自分を哀しいとも美しいとも感じるからこそ、人は愛を求めているというわけです。

 

なぜ、そのようになっているかというと、そうしたことを通じないと人間は愛から生殖行動へ、そして子どもの保護へと進んでいかないからです。生まれてくる子どもは、他の動物に較べて圧倒的に顕著な身体的不能性を背負っています。子どもは、少なくとも、10年ほどは、他人が保護してやらねば、人間として一人立ちできません。

 

母親の赤ン坊に対する保護的な行動がなければ人間の子どもは成育していくことができないのです。いかなる動物でもそうではないかというかも知れませんが、そうではなく、肉体的にも10年から12年、文化的には15〜6年から場合によれば20年も親の保護が必要だというのは、生物において全く異例なケースです。

 

20年といえば、全人生の3分の1から4分の1にあたります。しかも、活動的な人生の期間から考えれば、2分の1から3分の1でもあります。こんなに長く個体として一本立ちできないというのは、動物としては本来全く失格です。

 

しかし人間は、たくさんのタブーや制度を通じてしか生きのびることができないため、文化的な養育が必要になりますし、また幼形成熟(ネオトニー)と呼ばれる一種の宿命的な早産(サルでいえば胎児の体型のまま生まれ出る)のため生物的な保護を必要としているのです。その保護を親が行なうのです。

 

親にとっては、巨大な負担です。事実、苦痛でさえもあります。その上、まだ愛の意味を知らない子どもは、ときどき、学校でバレンタインのチョコレートが来なかったという程度のことで大ショックを受けます。「生んでくれなどと頼みもしなかったのに」などと。人間の親は、心の底ではなんとかその重たい負担から逃れたい逃れたいと思っているのです。

 

ここで、再び、親が子どもを愛するのはいかなる文化でも共通である、という本能の信仰の文化的すりかえが生まれました。つまり、そういう本能があるあると言いたてたということです。これは全く文化的なつくりごとで、親が子どもを本能的に可愛いと感じ保護したくなるのはせいぜい3〜4歳までのことなのです。子どもは3歳までにすべての親孝行をすると言われるのはこのことです。

 

ホモ・パンツの人生、危うし
よく最近になって、子捨てが増えた、世の中が嘆かわしい風潮になったと聞こえよがしに嘆くお年寄りがいますが、これは完全に間違いです。昔から親は子どもを育てることを非常な負担に思っていました。

 

だからこそ子の犠牲になった献身的な母親とか、逆にその親の苦境を人生を投げうって尽くした息子の話が美談として意識的に残されてきたと考えるべきです。ほんとうに本能的で当たり前のことには、美談の美の字も出てきません。

 

おなかがペコペコになっていた男が、目の前に出されたマンジューを食べた話など美談にもおとぎ話にもなりませんが、その人がじっと我慢してそのまま死んだという場合は美談になるのですね。そういうわけですから、コインロッカーベイビー(コインロッカーに捨てられた赤ン坊)が話題になったから、世の中の親子の愛情がすたれたという風に考えるのは全くの間違いなのでもともと無理なものがその性格を露わにされただけです。

 

もともと無理だった約束だから、かなり前から破られていたので、江戸時代に子どもを売った話などはやたらに出てくるわけです。捨てるほうが売りとばすよりいいのではありませんか。昔から駄目な親は駄目だったのです。時代の問題では全くありません。逆に言えば、今でも良い親は十分良い親なのです。あなたのご両親はどういうことになるでしょう。

 

20歳か22歳まで(大学を現役で入っても卒業まで22歳までかかる)親の手をわずらわせ、ついで25歳で結婚し、26歳で子どもを生めば、その人間は早くも次の世代の養育という義務を負わねばなりません。大学を出てからの2年や3年は、よくわけもわからずにアッという間にたってしまうものです。

 

実に不自由な人生というべきでしょう。文化的にもあまりいいシステムであるとは思えません。とくに、女性はこのあたりに人生の岐路につぐ岐路がつづいて出てきて、ほとんどよく考える間もなく決断を迫られるのです。

 

この不自由なシステムに気付くと(あるいははっきりと気付いていなくても、なんとなく感じると)、人は結婚したり、子どもを作って育てたりすることをうっとうしく感じるはずでシングル・ライフ(独身生活)の主張が出はじめ、都会では現実にかなりの人々が意識的にそれを選択しているということが起きるわけです。この人たちは大変ラディカルな人々だと言うことができます。

 

歴史上偉大なロマンチストや思想家、革命家はほとんどこのような人間の日常性の絆を自ら断ち切った人ばかりでありました。もちろん、歴史で語られているのは、みな男性なので、その例を挙げる以外ないのですが、アレキサンダー大王、シーザーをはじめとして、栄光の男たちはいずれもシングルズであり、あまつさえ同性愛者でもあったわけです。

 

女性でもエリザベス一世、ジャンヌ・ダルクなどは完全にシングルズです。ともあれ、私の言いたいことは愛情についても、かなり人間の文化が恣意的に「美しさ」を作り出して、我々に「強制」をしてきたということなのです。だから、これこそ最も美しい愛の姿だなどと教科書でほめあげていることはいずれも、このようにほめておかなければ全体としては危うい事柄であったわけです。

 

人間の文化を維持し、種族をこのままの形で維持するということがもしも大切なら、種としての人間の成り立ちに逆らってはいけないということになるでしょう。私はというと、パンツをはいたサルである人間性など、どこまで本気で守るべきものなのか、根本的な疑問を感じているわけですが。

 

結論は、「文化」が愛や恋を抑えている、ということ
ともあれ、こうした「愛」を通じて、人間の男と女は、基礎には生物的反応はあるとしても単なる生物的ではない関係を求め、作り上げることになります。これを、思想家吉本隆明氏は「対幻想」と名付けました。

 

ここでもまた「ことば」であり、名付けでありますが、「ことば」としては、それまで人間の文化の基礎についての「ことば」化を目指してきた学問が成しえなかった素晴らしい「ことば」でありました。人間の男と女は、生物的なオスとメスだけではなく、一対の男女となることを内面的にも求めて、こころの中で関係を固定化して、はじめて男と女になるのです。

 

この形から、文化的な制度としてのタブーが生まれます。誰とでもセックスしたり、対幻想を持ち合ったりすることが許されるのではなく、人間全体の文化や共同体を維持するための禁止行為が設定されてもくるのです。最も明瞭な禁止は、父と娘、母と息子、兄弟姉妹のあいだのセックスや対幻想の持ち合いの禁止です。それが先にも述べた近親相姦のタブーと呼ばれるものです。

 

ここで重要なのは、近親相姦することは、生物的にそれほど決定的にまずいことではないということです。そう言われてきたのは、主に文化的な判断だったのです。医学的に言って異常児の生まれる確率は高いのですが、実際の生活上というレベルから考えるとそれが人間の社会にタブー化される原因だったとは考えられないわけです。

 

このように、ここでは「文化」が、人の愛や恋を見事に抑えこみ、決定している力になっていることが示されました。我々は、それから簡単には逃れられないことを知りつつも、より自らに説得的な「愛」や「恋」に身をやつしたいものです。それは「いのち」により強くかかわる「愛」や「恋」だということです。

 

栗本慎一郎『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』 恋することと愛すること より「あなたはいかにして愛を知るか」後半部分

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(引用ここまで)

 

 

明日の5回目ではこの続きにあたる3番目の節

「恋と愛とははっきり違う」の前半部分を

投稿する予定です。

 

 

【栗本慎一郎関連の過去投稿記事】

情報洪水の時代をどう生きるか(参考本24)

古典とわたしたちのつながりを俯瞰すること

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元 言語から非言語へ』

もともと知っているのなら、なぜわたしたちは本を読むのですか?

栗本慎一郎「ユニークであろうとすればユニークにはなれない」(今日の名言・その76)

優秀さとは何か?(栗本慎一郎『縄文式頭脳革命』より)

「統合する」ということ(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』①

(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②

 

 

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