寺子屋塾

愛することと恋すること⑤ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

お問い合わせはこちら

愛することと恋すること⑤ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

愛することと恋すること⑤ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

2024/10/16

昨日10/15投稿した記事の続きです。

 

栗本慎一郎さんが1982年に出版された

『ホモ・パンツたちへ がんばれよ!と贈る本』

「恋することと愛すること」の章を

7回にわけて紹介しようとしているんですが、

今日で5回目となりました。

 

「恋することと愛すること」の章は、

全体の1/3弱にあたる70ページ弱の分量があり、

・恋をしているあなたのために

・あなたはいかにして愛を知るか

・恋と愛とははっきり違う

・とどめとして———愛と恋のはざまに

という見出しのついた4つの節からなっています。

 

本日ご紹介するのは3番目の節

「恋と愛とははっきり違う」前半部分なので、

これまで4回投稿した記事に

未読分がある方は

まずそちらから先にご覧下さい。

①恋をしているあなたのために(前半)

②恋をしているあなたのために(後半)

③あなたはいかにして愛を知るか(前半)

④あなたはいかにして愛を知るか(後半)

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

献身、自己犠牲―これがホモ・パンツの愛です
先に述べたように、恋とは自己の本能的欲求に基づく、相手を求める行動であり、衝動でした。たまたま愛がその恋と重なることがあったとしても、愛は相手を自分のために求めるものではありません。

 

愛を感じるとき、人はその相手にすべてを捧げてもよいと感じ、ときには自己を完全に犠牲にしてもよいとさえ感じるものです。相手の存在の保存のためなら、火の中水の中でも入っていこうと思うときもあります。でも、そんなことをしていたら、生殖行動にはなりません。

 

相手の存在は自分にとってすべてであると思うこと、相手に自らのすべてを与え、捧げても悔いなく思うこと、むしろ、それを喜びと感じるという瞬間が人間には必然的にあるのです。

 

ここでわざと必然的と強調したのは、これが古い、封建的な感情であるという偏見があるからです。これを美しいと思うか、古臭いと思うかは、およそ個人の勝手だと言いたいのですが、実のところは文化の勝手と言うべきです。

 

つまり各々の文化が、自己の維持に役立つようにこうした愛の形態をほめたたえたり、けなしたり、あるいは全体主義の国家のように方向性を勝手に決めたりしてきたわけです。

 

しかし、パンツをはいたサルである人間の基本的成り立ちから言う愛は、必然的なものです。人は心の底では、愛されることより愛することを欲しているのです。

 

献身的なあるいは自己犠牲的な愛を自らつねに欲しているというと、首をかしげるかも知れませんが、そうです。間違いありません。人は強く愛されることよりも強く愛することを求めているのです。

 

愛は強くなると、宗教みたいなフィーリング
これらの問題は、人間にとって最も本質的で重要であり、また個人の生活にとっても最大の関心事でもあるはずですから、錯綜している部分を切っていきましょう。

 

これまで述べてきたことをまとめて整理してみると次のようになります。多少、結論が変わったものになっても驚かないでください。当たり前の結論すら誰も言わなかっただけですから。


①人は恋の衝動によって、実はそれを通じて自己や共同体の維持、保存を求めて動いている。
②愛とは恋と重なることもあるが、むしろ自分の身よりも相手を保護したり、救ったり、後押ししたりする相手中心の行為を自らに課することである。
③ところが、この愛という苦しい行動を、人間は心の底では恋以上に求めている。

 

この③にあたるところが我々の研究による重要な結論です。つまり、人間は何ものかのために自己を犠牲にすることを無意識ではつねに夢見るようプログラミングされているのです。

 

人は物を生産し貯めに貯めて、ついにそれを蕩尽し尽くすときに最大の幸福感を得ます。そのように生物的にプログラム化されたがゆえに、あるいはそう望んだがゆえにサルの時代の樹上生活を中断し、地上に降りて来たと言ってよいでしょう。

 

地上に降りて、前肢を自由に使える直立二足歩行に移行すれば、道具も自由に使えます。つまり生産性は高くなり、生きるために必要なもの以上のものを得ることもできます。

 

そして、それが最後に一挙に消費され尽くすところに、人間の最も本質的で人間的な瞬間があります。人間はもともと物を破壊し消費することを目標とした動物です。よく見れば、人間のすべての行動は、すべてそのために制度化されたようなものではありませんか。

 

ふだんはチンパンジーをしのいで勤勉に物を生産し、営々と立派な都や宮殿を作り上げます。しかし、あるとき一挙に、実にくだらない理由で戦争を開始して、他国軍によって破壊される状況に持ち込んだり、自国の内部でも内乱その他の理由でそれを破壊してしまったりします。

 

どう考えても、実はただ戦争をやりたいからという理由が最大だと考えておくべきでしょう。これを見て、いわゆる合理主義者は、「くだらない理由で」と思ったり、軽蔑したりしますが、本質は壊したいから壊しているのであって、表面上の理由の問題などではないということに気付かなかったのです。

 

合理的に考えるなら、壊したら損なのだから壊したりしないはずです。しかし、人間はわざわざ過剰なものを作り出し、最も象徴的に過剰なものを聖なるものといってこれを崇めておいて、やはりある特定の瞬間に壊し尽くします。つまり宗教的な陶酔とは、人間がこころの底で最も強く求める行為によって出てくるものです。

 

だから、宗教とは人間だけのものなのです。宗教は「過剰」がなければ成立しえないからです。貯めこんでおいて、蕩尽する。これこそ世のすべての宗教の極致だからです。

 

宗教の話題が出てきたりして、いったいどうしたのだ!と思うかも知れませんが、ここで、なぜ愛の形が強くなればなるほど宗教的なフィーリングになるかがおわかりいただけたでしょう。

 

恋というものが、種族の保存という〈生産的〉なものだったのに対し、愛はおよそ非生産的かつ無駄なものです。そして、非生産的で無駄な度合が強ければ強いほど、非動物的すなわち人間的だということになります。より深い根から出てきているからです。

 

従って、恋と違って誰かのために献身すること、自己の身を犠牲にするという愛は、表面の意識では苦しい苦しいと思いながらでも、愛する人間は恋よりはるかに深く酔えるわけでもあるのです。自己をできるだけ消し尽くすほうがより人間本来の喜びに近いのです。これは、ほんとうに人を愛したことのある人ならば、よくわかることです。

 

愛されるより、愛するほうが楽
若い人でも
『青い山脈』という昔の流行歌を聞いたことがあるでしょう。これは、昭和20年代から30年代にかけて青年たちに圧倒的に人気があった石坂洋次郎という作家の同名の小説が映画化されたときの主題歌です。「若く明るい歌声に、なだれも消える花も咲く……」といった歌詞でした。

 

当時若かったはずの私は、その石坂洋次郎の作品をあまり好きになれませんでした。甘ったるい恋愛観が全編をいろどり、しかも話のきっかけが、時代にベッタリとおもねっていたからです。「恋しい恋しい……」と書くはずのラブレターが、「変しい変しい……」となっていたなどというのはたしかにおかしいけれども、どことなくわざとらしくて好きになれません。道具立てが単純すぎて、若い人はいまや誰も読んでいないでしょう。

 

その石坂洋次郎の作品で、唯一印象に残るものがありました。それは、題が皮肉にも『若い人』という作品です。主人公の江波恵子という女子高校生が、先生のアンケートに答えてクラスでたった一人、次のように答えるのです。「愛されることよりも愛することを望む」と。これがなぜ印象に残ったのか、私は20年もたってやっと自分に解答を与えることができました。

 

恋はエゴイスティックと言いましたが、実は愛もまたエゴイスティックなのです。ただ、恋は動物的なエゴイズム、愛は人間的な(パンツをはいた)エゴイズムだと分類しておきましょう。

 

愛とは、決して報われることを求めないものなのですが、実はそうした行為自体の中に自分を報いるものを持ってもいるわけです。ただ、相手から直接に報いて返してもらうことを求めないだけです。

 

しかし、ここにいたると、実はさらに次の問題が発生してきてしまうことに賢明な人は気が付くでしょう。世の常識は間違いで、愛されている人よりも愛している人のほうがこころの底では幸せなのです。これは絶対にそうなのです。

 

それでは、愛している人はそれでよいが、愛されている人はどうなるでしょう。ひどく迷惑ということはありませんか。そうです。まさしくそういうことがありうるのです。

 

なぜなら、愛される人間は、つきつめて考えれば、実はただの物としての対象ではないかとも言えるからです。つまり、愛されることは負担であり、ときには耐え難いため、人は思い切って愛してしまったほうが良いのです。楽かどうかということでいえば、楽なのです。『若い人』の主人公・江波恵子はこのことを言おうとしたのです。

 

からゆきさんとキルケゴールの悲劇
私はここで、人間にとって愛の悲劇を引き受けた二人の人物を例に出して説明してみます。 一人は、先にも挙げた実存主義哲学者キルケゴールを再び登場させましょう。いままで述べてきて、ようやく彼の突然の婚約破棄の理由が根本からわかったでしょう。

 

キルケゴールのような、デンマークにおいて百年に一人出るか二人出るかという天才哲学者にとっては、愛の本質は不幸なことだ、ということが「見えて」しまったのです。でもほとんど100パーセントに近い人々にとって、その本質は見えません。

 

だから普通の人なら、美しい婚約者が自分を待っていてくれて、自分も相手が好きだということなら、ただただ有頂天になれるのです。あなたも天才にならないほうがよろしい。悲しい人間の本質が見えるとろくなことはないのです。

 

ですから、ほんとうなら、このような本を書いて、わざわざ本質を知らせることはないのですが、これには〝時代〟の問題があると私は考えています。

 

つまり、ひと昔前のように本質を知らないまま、愛か恋か、あるいは他者を排除した信念に突っ走り切ろう、と行動できる時代ではなくなりました。人々は、もっと根本から疑問を感じており、ただそれをことばでは言い表わせないでいるだけだと私は思うのです。

 

さて、もう一人についてですが、私はここで、山崎朋子さんや森崎和江さんによって紹介された「からゆきさん」の悲劇をキルケゴールと並んで思い起こさずにいられないのです。キルケゴールとからゆきさんの対比。ちょっとおかしいですが、次のとおりです。

 

からゆきさんとは、戦前、九州や中国地方から、東南アジアに娼婦となるために売られていった不幸な女性たちです。いわゆる人さらいに遭って売られることもありました。彼女らは生まれた土地からあるいはさらわれ、あるいは親によって売られて、東南アジア諸国に連れてゆかれました。

 

彼女たちは、10代から異国でその青春を主に娼婦として送らねばなりませんでした。もちろん父や母とも永遠に別れて。そんな中で、20年も30年も働いて地獄のような苦しみの中からなんとか少々の余裕を持てる境遇になった女性がいました。当然、誰もがそうなったのではないのです。

 

彼女は、養子をもらいました。そして、愛情をこめてその男の子を育て、自分が全く見ることのできなかった「普通」の暮らしをさせてやるために医者になる教育を受けさせてやったといいます。

 

自分の老後を立派に成人した「息子」とともに暮らすことを彼女が夢見たとしても誰が責められましょう。もちろん、それは幻想の幸せですが、それでも他人が考えている老後を夢見てみたいと思ったとて、とても非難する気にはなれません。

 

ところが、ところがです。この息子は、成人して医者になると、最下層と人に言われる商売をしていた養母の存在を嫌って彼女を捨てて去っていってしまったのです。彼女は、またたった一人ぽっちになりました。もうやり直すことはできません。なんということでしょう。彼女には、幸せな老後の夢さえも与えられなかったのです。

 

このからゆきさんの話は多くの人の涙をそそりました。私だとてそうです。でもひとつ、私なりの解説を付しておかねばなりません。彼女の注ぎこんだ愛情の原因がわかりすぎるだけに、人はどうしてもこの息子をただただ鬼のように考えがちです。

 

しかし、一般論として、このような強い愛は、往々にして愛を注ぐ側の論理に基づきすぎていて、愛を受けとる側の存在さえも押しつぶすほどのものになることがあるのです。

 

この養子の場合はどうだったのかということを一応は考える必要があるかも知れません。この子を愛をこめて育てていた期間のからゆきさんは、全く別の角度から見て幸せだったとは言えないのか、という切り方もあるかも知れないということです。

 

しかし、誤解しないでください。このストーリーにおいては、毫もこの男の行為を擁護する気はありません。

 

人はたとえ愛されることが苦しみであるとしても、相手の愛が、少なくとも表面的なエゴから出ているのではなく、このからゆきさんのような極端な状況から出ているものであるならば、それを振り捨てて出ていくような権利は絶対にありません。たとえ苦しくとも、受け入れねばならぬ愛というものもあるのです。

 

からゆきさんが夢見た人並みの生活というものを、キルケゴールならずとも私も知っていますが、やってみると苦しいものでもあります。幸せだと言い切る単純さは持てません。しかし、彼女らのように、生まれて一日たりともそれを味わったことのない人々が、そうしてみたいと願うのを非難したり笑ったりする図々しさも持てません。

 

ともかく、このからゆきさんは、恋だけでなく愛というものにも抜き難くある根本的な矛盾を知らされてしまった人だったとも言えます。少なくとも、相手を守り、幸せにすることを求めるのが愛であるのに、相手はそれを受け入れることによって幸せだとは感じなかったのは事実なのですから。

 

キルケゴールの持った問題も、結局は同じことです。彼は天才の思索により、愛が自己犠牲の形を一見とりながら、最終的には相手を犠牲にすることに気付きました。

 

気付けば、いかに相手も自分を好いていても、この愛は成就できなかったわけです。からゆきさんは、普通よりエゴイスティックな養子のために否応なしに愛のひとつの本質を知らされました。キルケゴールだとて、知りたくて知ったのではないのですから、両者の悲劇は同じところにあります。
 

栗本慎一郎『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』 恋することと愛すること より「恋と愛とははっきり違う」前半部分

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

 

明日の6回目ではこの続きにあたる

「恋と愛とははっきり違う」の後半部分を

投稿する予定です。

 

 

【栗本慎一郎関連の過去投稿記事】

情報洪水の時代をどう生きるか(参考本24)

古典とわたしたちのつながりを俯瞰すること

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元 言語から非言語へ』

もともと知っているのなら、なぜわたしたちは本を読むのですか?

栗本慎一郎「ユニークであろうとすればユニークにはなれない」(今日の名言・その76)

優秀さとは何か?(栗本慎一郎『縄文式頭脳革命』より)

「統合する」ということ(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』①

(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

 こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆寺子屋塾に関連するイベントのご案内☆

 10/26(土)10:30〜18:30

 未来デザイン考程ワンディセミナー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎らくだメソッド無料体験学習(1週間)

 詳細についてはこちらの記事をどうぞ!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。