愛することと恋すること⑥ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論
2024/10/17
昨日10/16投稿した記事の続きです。
栗本慎一郎さんが1982年に出版された
「恋することと愛すること」の章を
7回にわけて紹介しようとしているんですが、
今日で6回目となりました。
「恋することと愛すること」の章は、
全体の1/3弱にあたる70ページ弱の分量があり、
・恋をしているあなたのために
・あなたはいかにして愛を知るか
・恋と愛とははっきり違う
・とどめとして———愛と恋のはざまに
という見出しのついた4つの節からなっています。
本日ご紹介するのは3番目の節
「恋と愛とははっきり違う」後半部分で、
これまでの話を前提として書かれているので、
いきなり読まれてもわかりにくいでしょうから、
これまで5回投稿した記事に
未読分がある方は、
まずそちらから先にご覧下さい。
今日紹介する箇所は、
これまで紹介してきた5回分の内容を踏まえ、
では、具体的にどうするかという
実践的な話が中心で、
とくに、愛に何を求めればよいか①、②、③は
少なくとも本書をを読んだ当時
23歳だったわたし自身にとって、
重要な指針となりました。
この本が書かれたのは1982年のことですから、
この後40数年経っているわけですが、
本書で述べられている
経済人類学的見地に立つ恋愛についての見解は、
たとえば、非婚率の急激な上昇など
この後の日本社会でみられる現象の背後に
何が潜んでいるのかを考える上でも
大きなヒントになるのではないでしょうか。
(引用ここから)
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愛は悲しいものなのか?人は愛に何を求めればよいのか
恋にも愛にも、明るく楽しい展望がないようなことを書いてきました。では、どうすればよいのかと人は問うでしょう。
皮肉な答え方をすると、気楽な青春案内書を読み直しなさいということになります。それを読んでいると、とても気楽になれますから。
けれども多少ほんとうのことを言うと、恋や愛がそのようにプログラム化されたのは少なくとも私たちのせいではないのだから、より深い本質を見つめた上で対処しなさいということになります。
簡単に言えば、恋も愛も、ある意味で人をして意志の外から突き動かしてくるような力に基づくのだから、とりあえずは、妙に抵抗しないのです。抵抗するなら、徹底的に闘わねばならぬのです。
好きと感じたなら、正直に好きと言えばよいし、それで相手に断わられたら、泣くことや恋患いに苦しむことを〝楽しんで〟みるか、他の人間を好きになるよう努力することです。そのような素直な感情を外に出し、十分かつ長くはこだわりつづけないように努力してみる、このような努力をすることしかないのです。
恋のレベルですと、実は、かなり単純に他の異性を好きになることに成功できます。なぜなら、恋のプログラムはそうそう、特定の個体を求めることを組み込んではいません。
特定の個体というのは、その思想や行動のパターンなどの全体を自分にとってかけがえのないものと感じることですが、これは学校で3〜4年付き合った程度でわかることではありません。日本ではむしろ結婚したり、同棲したりでもしなければ無理でしょう。
どうしても、特定の相手にこだわるというのは、たまたま自分の知っている狭い範囲の手近なところで相手を見つけたいというお手軽ムードの要求が強すぎるか、振られたことが許せないといったメンツの問題なのです。
愛の問題は、もちろん、もうすこし厄介です。この本でこんなことを言われてしまったら、どこにも終着駅がないことになってしまいます。事実、根本的な意味の終着駅などありません。
しかし、そう悲観ばかりは無用です。愛を美化しすぎなければ、逆に愛に手ひどく裏切られることもないわけです。根本的な解決などは神しかできないのですから(神がほんとにいて、解決してくれるかどうかも疑問ではありますが)。
愛に何を求めればよいのか——その①、その②
神ではなく、私たちのなしうることは、まず第一に、できるだけ相手に自分の愛を押し付けてもプレッシャーを感じさせない努力をすることです。母親の愛情、ボーイフレンド、ガールフレンドからの愛情の押し付けは、その相手を無意識のうちに圧迫し、どこか遠くに逃がすことにつながります。
たとえ自分の妻や子どもであっても、愛というものは、必ずや相手のプレッシャーになることを知っておくべきです。そして、面倒を見てやるにせよ、身のまわりの世話をしてやるにせよ、そのこと自体の中に控え目に自分の喜びを見いだすよう形の上では努力すればよいのです。愛すること自体の中に、本来、すでに人間を幸せにする要素が十分に含みこまれていると知っておきましょう。
そして、第二には、愛とは最終的には自己のためにあるのだから、やむをえず愛してしまうという相手に限ることに特に留意すべきでしょう。人がペットを可愛がるときでさえ、ある犬や猫が可愛くて可愛くてどうしようもないという場合に限るのです。
つまり、ここで言えることは、愛しうる相手を慎重に選びなさいということにもなるでしょう。慎重にと言いますが、頭が考えて捜すのでなく、ボンヤリたくさんの相手を見、ボンヤリたくさんの場面に自分を置いて見てみることをすすめます。
そして80歳になったとき「いなかったなあ。一生のあいだ、ついに……」ということもありうるよ、と考えておけばよいのです。見つかれば見つかったで軽く処理すればよろしい。
ペット好きの人は、そこにいろいろな理由を持っていますが、世の中で報いられていないと自ら考えている人、さびしいと思っている人に多いものです。それは悪いことではありません。
でもできるだけ、好きに〝なってくれてしまっている〟相手をいつくしみたいものです。しかしこころから、ことば抜きに可愛い、というのは「やむをえず」の部類ですから良いでしょう。ペットと人間と一緒にしては困るではないかと言われるかも知れません。たしかにそうなのですが、ある意味で本質は変わりません。
簡単に愛する男性や、愛する女性をこれだと自分勝手に決めこまずに、本当にやむをえないかどうか自分のこころをじっくりと見つめるべきです。どうもこのあたりが日本人のきわめて不得手のところのように思えます。これは、セックスの機会の多い少ないとは関係ないと思います。
文化的に、単婚小家族の美化が強すぎて、独身者を差別したりするから、誰もが早目早目に、相手かまわず結婚したがることが最大の原因です。高校生の処女喪失率何パーセントなどという呼び込み記事の内容とはなんの関係もないのにあせるのです。他人のことなど、どうでもいいではありませんか。
愛に何を求めればよいのか―その③
第三に、これが実は最も重要なことですが、愛において唯一、相手に求めてよいことがあって、それは愛してしまっている自分を許してくれることを求めることだということです。簡単に言えば、「ごめん、愛している」とか、「ごめん、愛してしまったんだ。許してな」とか言いたいものですね、ということです。これが本当なのですから。
間違っても、「俺(私)は、あなたを愛して(やって)いるのです」などと上から出ないことでしょう。愛するということは、自分のほうが先に楽しんでいるのですから。
これは、自分の子どもに対してでも当てはまることをさらにここでも留意しておきましょう。もっとも、家族の表面的維持などは、愛などなくともやっていけます。家庭内暴力が騒がれる以前だとて、全家庭に愛情があるなどというのは嘘だったのです。ただ、それが音をたてて崩れる要因が少なかったということでした。あるいは、外部から、それを崩せないようにしていた要因が崩れてしまったということでしょうか。
それでは、愛のモットーを公開しましょう
ところで、ここで私の最も言いたいことがあります。できるなら、この愛情を、優しく、または憐れみをもって受けとめてくれるような相手を捜したいということです。人の愛における幸せ、不幸せというのは実にここに最重要なポイントがあると私は思っています。もちろん、できうるなら、といっても難しさの極致ですが。
子どもでも、恋人でも、相手に愛されてしまったのなら、その相手が自分を通じて何か形でないものを求めていることを許してやるということができれば、キルケゴールの苦悩も、からゆきさんの悲劇も軽減されたでしょう。
許せということは、必ずしも単純な形で受け入れよということではありません。かつまた、あまりに「勝手な愛」なのだから、手ひどく拒否してやったほうがいいということだってときにはありうるでしょう。
けれども、もし本書のその愛・第二の条件を満たしているようならば、(この本を読んでいない人でも)その愛をゆったりと受けとめてくれる人こそ唯一の素晴らしい人間像だといえます。それこそ金のワラジで捜し回らねばなりません。
愛をゆったりと受けとめてくれる素晴らしい人というのは、女性では私の愛している人以外はまず見たことがありませんね。男性では、簡単に見つかります。何を隠そう私ですが、それも32歳になってから以降の私です。それまでは、やはり、我ながらよくわかってはいなかったと思います。
また、いまだとて、たぶん許容人数というものがあるでしょう。一人も愛してくれないとさびしいでしょうが、たくさんいても困るでしょう。私の場合は、日によって違うわけですが。
読者のみなさんは、しかし、私が愛している女性以外では愛されるべき女性を見たことがないというのは、論理的におかしいということをすぐ見抜くべきです。愛してみなけりゃわからないということも残念ながらありますからね。
余談ですが、この本に限らず、私の書くものには、時々意図的な矛盾が仕掛けてあって、読者が無意識的な引っかかりを感じるようにしてあります。それによって、かえって問題を深く考えてくれるだろうというつもりなのですが。わかっていただけるでしょうか?
愛することができ、しかもそれを暖かく許してもらえる相手を見いだせさえすれば、人間にとって、人生の最大の幸せを得たことに等しいのです。仕事上の成功も、金銭の裕福さもすべてこのあとに位置づけられるものでしょう。けれども現実にはこれはほとんど不可能といってもよいほど、難しい。
だからこそ、人は、愛しているとか愛されているとかの意識にまで「幻想」を持ち込みました。「幻想」とはそう自分が思い込むことによって陶酔するということです。それもとりあえずは悪くもないのですが、どこかで必ず崩れるし、少なくとも巻き込んだ相手に迷惑であることを知っておかねばなりません。
ここまでのところをまとめて、ひと言で言えば愛については、「一歩前」でなくて、「一歩後」をモットーにしておけば、かえって真実に近づけるのだと言っておくことにしましょう。消極的ではないのです。これには強い積極的な意志が必要であり、ここから唯一、私たち人間にとっての幸せへの突破口があるわけです。
※栗本慎一郎『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』 恋することと愛すること より「恋と愛とははっきり違う」後半部分
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(引用ここまで)
最後に書かれている
「一歩前」でなくて「一歩後」を
という表現がイイですね。
しかも、だからといって消極的になれと
言っているわけではありません。
アタマで考えて先回りして
うまくやろうとするところには、
だいたい幻想を持ち込んでしまいがちなので、
積極的に「一歩後」を
歩もうとするところに
唯一、私たち人間にとっての
幸せへの突破口があると。
いよいよ明日の7回目は最終回で、
この続きにあたる4つめの節
「とどめとして———愛と恋のはざまに」を
投稿します。
【栗本慎一郎関連の過去投稿記事】
・もともと知っているのなら、なぜわたしたちは本を読むのですか?
・栗本慎一郎「ユニークであろうとすればユニークにはなれない」(今日の名言・その76)
・「統合する」ということ(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』①
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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は
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