愛することと恋すること⑦ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論
2024/10/18
昨日10/17投稿した記事の続きです。
栗本慎一郎さんが1982年に出版された
「恋することと愛すること」の章を
7回にわけて紹介しようとしていて、
いよいよその最後の部分となりました。
ちなみに「恋することと愛すること」の章は、
全体の1/3弱にあたる70ページ弱の分量があり、
・恋をしているあなたのために
・あなたはいかにして愛を知るか
・恋と愛とははっきり違う
・とどめとして———愛と恋のはざまに
という見出しのついた4つの節からなっています。
本日ご紹介するのは、最後の節
「とどめとして———愛と恋のはざまに」で、
これまでの話を前提として書かれているので、
いきなり読まれてもわかりにくいでしょうから、
これまで6回投稿した記事に
未読分がある方は、
まずそちらから先にご覧下さい。
ずっとこれまで読まれてきた方の中には、
この栗本さんの文章が
非常にシステマティックに構成されていることに
気づかれた方がいらっしゃるかもしれません。
なぜなら、①②は恋について、③④は愛について、
⑤⑥は①〜④をふまえてどうするかが
書かれているからです。
今日紹介する最後の節は、
これまで紹介してきた6回分の内容を踏まえ
総括する内容というよりは、
ダメ押しの確認、エピローグ的なものと
言った方がよいかもしれません。
それでも、恋と愛とは何が違うか、
恋の段階から愛の段階に進もうとするなら
具体的にどんな壁を越える必要があるかなどを
考えるヒントが満載であるだけでなく、
これまでの話を
ギュッと煮詰めた構成になっているので、
じっくり読み解きながら
栗本さんの熱いメッセージを受けとめて下さい。
(引用ここから)
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とどめとして——愛と恋のはざまに
恋して覚えたのは、なんとアレだったのです
現代において、男女がお互いに〝恋〟していれば、まず結婚または同棲に至ることになるでしょう。少なくとも、忍び逢いくらいはするでしょう。しかし、お互いに愛が存在しても辛い別れに自ら向かうということもありうるのです。
恋は人を盲目にするが、愛のほうは意外にも、それまで考えることもなかった世の中の苦悩や虚しさというものを、ヴェールをはいで突きつけることになるのです。
人は恋しているうちは幸せです。それは、相手を求めに求めることを意味するからです。けれども愛しているときは、自分を与えること、相手のために自分が耐えることを可能にします。「愛するって耐えることなの?」という浅丘ルリ子さんの歌(※1969年にリリースされヒットした「愛の化石」)のセリフは正しかったのです。
愛するときに人は強くなり、恋するときに人は最も弱くなるのです。でも恋においては、恋こがれて、この恋心を相手に伝えられないので苦しいことがあるではないかと言うでしょう。それはあります。けれども、これはたいてい次のふたつの場合のどちらかです。
第一は、相手を恋しているつもりが、本当は自分の心の中で作り上げた幻影を恋しているという場合。ほとんどこのケースが多いでしょう。
第二は、相手に言えないというところですでに、自己の身を犠牲にしても相手の身を思いやるという〝愛〟の一段階へ入っているという場合。
若い大学生くらいまでの男女の場合、相手の立場なるものが具体的につかめるのは非常にわずかだし、現在の社会状況では「好きです」と言われて大迷惑だったということはまず起きません。
むしろ、「好きです」と言い寄って振られてしまったときの自分を思いやって、言い出さないということのほうが多いのではないでしょうか。また逆に、「好きだ」と言われても振ってしまえばいいのだからと思っている人が多いでしょう。
高校時代、大学時代の私自身の例で考えると、これは恋ではないかと感じたとき、好きだと言った場合も言わなかった場合もありますが、いまや中年の仲間入りした時点で思い出すと、相手の女性の名前ぐらいは覚えていますが、相手の女性の人物像その他はよく覚えていないことが多いのです。そのとき本人は、かなり真剣に恋していたつもりであってもです。これは他の人たちに聞いても同様でした。
そこで、覚えているのは何でしょう。当時はやっていた甘いメロディーのフォークダンス・ミュージックだとか、いまや古臭いイメージにしか思い起こせない喫茶店のたたずまいなどです。そちらのほうが強い思い出となっていて、当の恋した相手などは、表情や立居ふるまいの細部を思い出すことはできません。
それなのに、ある種のフォークダンス・ミュージックについては、私はそのメロディーが聞こえてくると、いまでも胸がきゅっとひきしめられるような思いをします。
これは世に言われるように淡い初恋や苦い恋の相手の異性の記憶がメロディーにこめられているのでは決してなくて、もっとすっきりとメロディーそのものがより強い意味を持っていたことを意味しているのです。
厳密には、メロディーというより、そのフォークダンスが行なわれた黄昏の校庭、不断の受験勉強(私はそのころ全国で1、2を争った受験高校にいました)からフッと解放された時間といったそのときの〝関係〟がそこに映しこまれているということなのです。
ラジオの番組等で歌の思い出を語る聴取者の投書に人気があるのは同じ理由からです。ラジオ番組の投書者(それはだいたい、中年の主婦が若かりし日の恋や愛を見苦しくも思い出していることが多いのですが)は、実際にそれをよく聞きながら分析してみると、懐かしいのはその相手の人ではなくその〝状況〟です。そして、それを象徴するような当時流行っていた音楽や映画などなのです。
その証拠には、もしその相手自体が懐かしいのなら、捜し出して会えばよいのですが、現実にはあまりそれは求められません。また、もしも何年ぶり何十年ぶりかに会ったとしても、二人は、お互いに相手の中に当時の状況を思い起こす努力をするのであって、実在する相手自体を求めるのではないわけです。
これを称して、美しい思い出はそっとしておいたほうがいいと言います。当時、苦しいがゆえにいのちを賭ける存在感があったその充実は再び帰ってくるものではないからです。
しかし、それでも、懐かしい友と会ってそのころを語り合うのは楽しいことです。あるいは、私がときおり感じるように、やはり一人や二人は、単に状況の中で思い出すのではなく、さわやかな奴だったなとか、気持のいい美しい奴(あるいは人)だったと人物そのものを懐かしませる人たちもいるのです。
たとえば、私なら、状況のいかんにかかわらず、ハードボイルド作家レイモンド・チャンドラー描くところの中年の私立探偵フィリップ・マーロウのような人物なら、たとえ死に別れて人間そのものを長く思い出に残すことでしょう。
けれども、先に述べたように、普通の場合は相手自体よりも状況の中の相手を愛したり、恋したりします。相手の異性より、異性に恋する自分の姿を恋したと言ったほうがよいわけです。
しばしはこれが恋の本性であり、それが愛にいたるのにはかなりの壁を越えるべきだというべきでしょう。恋というものは、自分を醒めた眼で見つめさせるということにもなるものなのです。
愛するより恋するほうが楽、というお話
たとえば親子の愛などでもいわゆる状況の中の幻想におおわれていることが多いと知るべきです。それらを真に愛と呼べるのか、あるいは、真の愛などはあるのかという問題を少々考えてみましょう。
戦前、左翼活動が厳しく弾圧されていたころ、よく親子の断絶の悲劇が起こりました。たとえば、ある実際に起きたことですが、密かに世をいつわって活動する男性の革命家と世間的には夫婦になる形をとって働いていた女性が警察に検挙され、そこで激しい拷問を受けた上、重い病を得るということがありました。
余命いくばくもなくなったことを知った若い女性は、転向はしないが死ぬ前にひと目、父母に会って親不孝のお詫びをして死にたいと切々と訴えました。彼女は自己の活動を決して恥じることなく、それに誇りさえも持ってはいましたが、両親の期待する人生コースを歩み安心させてやることがなかったことは事実ですから、それをあやまり、なおかつ両親に先立つであろう不孝をも詫びようとしたのです。しかし、その切々たる愛の訴えは、このとき彼女の両親によって厳しくハネつけられたのです。
天下国家に敵対し、世を騒がせたような娘を出したことが恥ずかしいとして、「どうか骨にして帰してください」と官憲に対して告げたというのです。彼女は、まさしく、血の涙を流して苦しみ悲しみ、そのまま死んでいきました。そして、まさしく骨になって帰郷せざるをえなかったのです。これに似た話は当時たくさんあったのです。このような話を聞くと、私は、親子の情愛とはいったい何なのだろうかと考えこまざるをえません。
戦前、武装共産党の委員長であった田中清玄氏は投獄されているうちに、会津藩国家老の名門だった田中家に泥を塗ったと恥じた母親の自決の報を聞きました。田中氏の場合は、一応〝転向〟という形をとりましたが、もろもろの話から私なりに判断すると、氏は母の死を真の意味で男のいのちを賭けて闘うべきための教えととって、単に意地のために非転向を貫くというような、今日でいえばブリッ子の姿勢を捨てるきっかけにした点で特殊であります。
つまり、その後も、戦後にかけて独自の男の道を闘いつづけた世紀の熱血漢田中清玄の純情さを非スターリニズムへのバネにしたという点で、母の死は逆の意味の激励になっているように私は思うのです。
彼の〝転向〟は官憲の拷問に次々に屈服していく仲間たちや、それを強いている官憲のやり方自体へ対抗する意地のみが非転向を続けさせていたことを〝素直〟に反省したものでありました。
ところが、先の病死した女性のケースは違うでしょう。もはや彼女は、死を目前にしているのです。転向にせよ、非転向にせよ、世間向けの意地だけで扱ってはいけなかったはずです。
たとえ両親といえども、そうする権利などないのです。息子も娘も、自分の所有物ではなく、別個の尊重するべき生命なのでもあるのですから。少なくとも私には、そこで「骨にして帰してくれ」という両親のことばに賛同することはできません。私は、彼女が両親を憎みながら(たとえ、ことばで意識していなくとも)死んだのではないかとさえ疑うのです。
そこにおける親のことばには、戦前なら戦前における平均的で期待される父母と娘の関係像からはずれたことへの失望と、内容のいかんにかかわらず世に恥ずべき(という社会的レッテルだけではありませんか)娘を生んでしまったからには、何か厳しくしてお詫びでもせねばという考えが見えます。
これでは、親が子を愛し、子が親を愛するといっても、先に述べたようにただ単に〝状況〟を愛しているだけのことになります。その状況は、世間一般の幻想によって許容されるものでなければならず、そこからはずれたら、親は頻死の子どもの呼び声さえも無視するのです。
この両親のことばは、世間に向けた〝ブリッ子〟発言です。こういう親はいまはいません。世の中が、そうでなくなったからという理由でそうでなくなるのです。
こういう親は、かつての蜷川虎三京都府知事時代の京都府庁のように、共産党でなければ人にあらずといった〝状況〟になったとすると、共産党から除名された娘でもいると勘当することでしょう。
だから、この両親像は、決して、封建的人間像というのではなく、〝文化〟によって本能的な部分を抑えこんでいこうとする精神的態度を持つものなので、私のことばでは超近代人の像なのです。
あちこちで繰り返すように、近代とは、人間が自らの身体内部の自然な知恵に従うのではなく、外的な秩序やきまりに従おうとする態度に基づく社会なのですから。
ともあれ、親子の愛でさえもこのような〝文化〟的な歪みがまま見られるのですが、それでも一般的には、愛というのは、〝状況〟や〝文化〟的きまりのいかんにかかわらず相手の身を思いやるという特徴を持っています。
だからどっちが楽かといえば、愛するよりも、一方的に恋してしまったほうが楽なのは確かです。この愛という厄介なものが、人間の社会や文化の成り立ちの基礎にあるから〝困る〟のです。
愛こそ憎しみ、うっとうしい、虚構の正義
全世界が愛を基盤にしていて何が困るのだと、教育ママ的評論家から叱られそうですが、彼らは愛の意味をごく単純にとらえて、都合よく人畜無害なものだとのみ誤解しているのです。愛などがあるからこそ逆に人間は憎しみを持ちはじめさまざまな厄介なことをしょいこみはじめたのです。
恋が憎しみに変わることはありませんが、愛が憎しみに転化することはしばしばです。それは、恋がただ自己の幻想に対応して相手を求めるだけのものであるのに、愛はなまじ相手の身を思いやるがゆえに、ああであることは彼女(彼)自身のために不幸なのだとか、こうしなくては駄目になってしまうのに決まっているのに馬鹿なことをしてと、表面では強い批判や矯正の要求として表われ出ることもままあるからです。
つまり、愛は、いつのまにか、その相手に対し虚構の正義を要求するということを起こすわけです。なんとうっとうしいことでしょう。愛されることよりも、愛することを望むべきだという格言はかなりうまくポイントを突いているわけです。
しかも、それが愛に基づくものである限り、愛される側は説得されるのです。なぜなら、その人はいずれにしても説得されたがっているからです。
しかし、先に挙げた、戦前の厳しい両親のケースは少々違います。彼らはたぶん、説得されなかったでしょう。世における女性がいかにあるべきか、きちんとした家の親は娘をいかなる形で育てかつ片付けるべきかの幻想が先立っているわけですから、娘の身や心情を思いやっているのではありません。
やさしく言えば、相手が自分をわかろうとしてくれているかどうかで、 愛情か、自分に役割を与えることを求めている幻想かを区別できるということになるでしょう。
※栗本慎一郎『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』 恋することと愛すること より「とどめとして———愛と恋のはざまに」
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(引用ここまで)
これで「恋することと愛すること」の章すべてを
紹介しましたので、
明日の投稿記事では
わたし自身の恋愛経験も踏まえつつ、
この栗本さんの文章に
コメントを記す予定です。
【栗本慎一郎関連の過去投稿記事】
・もともと知っているのなら、なぜわたしたちは本を読むのですか?
・栗本慎一郎「ユニークであろうとすればユニークにはなれない」(今日の名言・その76)
・「統合する」ということ(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』①
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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は
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