愛することと恋すること⑧ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論(大前提編)
2024/10/19
昨日10/18投稿した記事の続きです。
栗本慎一郎さんが1982年に出版された
3つめに置かれている
「恋することと愛すること」の章を
昨日まで7回にわけて紹介してきました。
昨日の記事の最後に、
わたし自身の恋愛経験も踏まえつつ、
この栗本さんの文章に
コメントを記す予定と書いたんですが、
7回にわたって紹介してきた
「恋することと愛すること」の章の前に
置かれている2つの章
・天才と宇宙と海
・不幸と幸福
前提となって書かれていることをおもいだし、
順序としては逆になってしまったんですが、
「大前提編」として付け加えることにしました。
ただし、2つの章を全部紹介するとなると
70ページ近くの分量があるので、
「天才と宇宙と海」については、
わたしの文責において要所のみ整理する形で、
また、「不幸と幸福」については、
冒頭の節「生きるための言葉を求めて」のみを
抜粋して紹介しようとおもいます。
(引用ここから)
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天才と宇宙と海
からだの奥にある「大きな力」
ここ20年ほどの哲学や自然科学の展開を私なりに見て、その成果を要約するなら、「人間のみならず、動物か植物かを問わず、あらゆる生物は生まれながらにして〝この世のすべて〟を理解する力を持っている」となります。これが、わたしがこの本で伝えたいと考えていることのひとつめです。
たとえば、我々は自分が心臓を動かすことを意識して動かしているのではなく、我々の知らない体の奥底の力によって動かしているのですが、そのような力がものを理解するときにも働いているわけです。
我々が体の奥底に持っている非言語的な知識の力――ことばにならないが知っているという力の総体を、「深層の知(暗黙知)」と言っているのですが、「いのちの力」と言い換えてもいいものです。つまり、すべての人間は「深層の知」を内部に有する天才であって、その一部分であっても外に表わすことができれば、誰でも〝素晴らしい"業績をあげることができます。
天才と言われたアインシュタインにしても、特別に人間がこれまで全く知らなかったことを発見したとは言えません。人類は、その創世のときから、つまり、アインシュタインの〝発見〟よりずっと前から、時間や空間は相対的なものであり、宇宙は無限大であると同時に我々の体内の小さな細胞の一部に含みこまれるほど小さい無限小のものでもあることをも知っていました。
ただし、それを「ことば」を用いて、他人に知らせたり、記録したりすることはなかったし、頭の中でさえも言語的に思考を組み立てたりはしなかったというだけのことなのです。これまでは、頭の中で「ことば」を用いて組み立てられていない知識では、知っていないことになる、と思ってきました。しかし、それは間違いなのです。
もちろん、哲学も物理学もこのようなことばで語ってはいませんし、最先端をゆく学者でも、この私のまとめに首をかしげる人もいることでしょう。しかし、それは私に言わせれば、それらの学者たちが自らの仕事の意味を「ことば」で十分理解していないからです。ノーベル賞を取った学者でも、自分の研究上の業績が科学の歴史において正確にはいかなる位置にあるかを知らずに受賞する人もあるように、自分の研究がなぜ今日注目されてきているかをわからない学者が多いのです。
この本の中で使う「いのち」を理解して下さい
あなたが知っておくべき一般論のもうひとつは、ものごとには一般論的な理解などないのだ、という厳然たる事実です。
たとえば、クジラにとっての海と、人間にとっての海が根本的に違うものであるように、個人Aにとってのイヌと個人Bにとってのイヌは全く違うものであってもかまわないかも知れないのです。 またイヌAとイヌBとを無理やり同一の基準内に押し込める必要があるとは言えないかも知れないのです。
経済人類学者カール・ポランニーは、すべての取引(トランザクション)は個別的、特定的であって、一般的に言える取引関係などないのだと言いました。そして、そうした個別的である取引が、なぜか一般的、継続的になるのが特殊特別な歴史構成体たる市場社会なのだと言ったのです。
「いのち」とこの本で呼ぶものは、以上のような内容をこめてのものなのです。私がこの本を書くのは、現在、このような「いのち」が、あまりに見つめられることが少なく、また、それを既成の「ことば」で規定している状況をいきどおるからです。「ことば」は、人がすでに知っていることの伝達手段であり、「道具」でしかないはずなのに、それが相手を規定してしまっているという馬鹿げた状況が見えるのです。
「ことば」がその本来の機能を果たすことなく、人間のあり方を支配する位置につくとき、人はその「いのち」を美しく生かすことはできません。私は、この本を書くことによって、「ことば」の支配から人の「いのち」を取り戻したいと思うのです。
生きるためのことばを求めて———本のことばとほんとのことば
なんでこの世に本がある?
――それなのに、なぜまた、私が本を書くのか? そしてあなたに読ませているのか? どうしてあなたはこの本を読むべきなのか?
今日、あらゆるものごとについて、あらゆる種類の本が出ていると言ってもよいでしょう。 おおまかに言って、定価が1頁につき5円ぐらいにあたる本は、3000部ほどが2年間ぐらいに売れれば採算が採れることになっているのです。300頁で1500円ぐらいの硬い表紙の本などがそうです。なぜなら、ある非常に変わった特殊な立場からその問題を書いた本でも、2年かそこらのうちに3000部やそこらは売れてしまうことが多いからです。
たとえば逆立ちをしながら釣りをしたほうがよく魚が釣れるという本があれば、そんな馬鹿なと言う人1000人、なるほど目にくっついていた鱗が落ちますと言って支持する人1000人、興味本位の人500人、図書館その他500人ぐらいは買うかも知れません。これで、3000部になります。
むしろ、一見、おとなしい本ながら、釣りを何十年もやってきた玄人には、その良さがジーンと伝わるというような本は売れません。ごく限られた玄人だけが、こっそり素人との差を維持するために買うことになってしまうからなのです。
これが、文庫本や新書判の本になると、最低でも2万部は売れなければとなりますが自然に値段が下がりますので、ひょっこりと買う人も増えてきます。そこでやはり表面のつじつまさえ、そこそこに合っていれば本は売れる、そこで真面目で良質な読者が選別もできないほど、おそるべき数の本が氾濫するということになってしまうので。
そして、釣りなら釣りについて全体を見渡せて、なおかつこころの持ちようも含めて深い広がりを持つといった本はあまり売れず、多少エキセントリックでも第一頁目から最後の頁まで同じことが貫徹していて、しかもそれが変わっているか、あるいは当たり前すぎて全く変わっていない本が売れるのです。
変わっているか、全く変わっていない本というのは、自己矛盾のようですが、そうではありません。変わっている本というのは実は大変わかりやすいのです。
『窓ぎわのトットちゃん』でホイサッサ
たとえば、紅茶にキノコを入れたものを飲みましょうという本は、最初のほうを読むと多少ギクッとしますが、最後の頁を読むころは、その読者はその本を読んでいない同級生だか奥さんだかに紅茶キノコ健康法について一席ぶてるようになっているはずです。こういう本は、売れます。でも、世の中に何も残すわけではありません。
事実、この『紅茶キノコ健康法』という本は、何年か前(※1974年)にベストセラーになったものですが、いま、それを読んでいる人はいないでしょう。紅茶キノコを書いた人かそれを出した出版社はいまごろ、コーヒーまんじゅうか、ヤキブタワインとかで売れないかなと研究しているはずです。
また、これまたついつい最近、『窓ぎわのトットちゃん』(講談社)という大ベストセラーが出ました。なんでも400万部を突破した史上最大のベストセラー(※現在では800万部)だとかで興奮している人がいるので、私は、ある雑誌に「窓ぎわのトットちゃんを窓ぎわへ」という短いエッセーを書いたのです。
本屋が生きのびるためには『窓ぎわのトットちゃん』は真ん中に置かないで窓ぎわに置いたほうがいい、ベストセラーだから売っていないと困るだろうが、書店は、〝本〟を売るのだということに徹して書店こそは本と本でないものを選択する選本眼がないとやがては経営が成り立たなくなりますよ、というお話です。一見奇論のように思えるでしょうが、その趣旨は当たり前のことです。
『窓ぎわのトットちゃん』というのは、要するに紅茶キノコの反対に、全く、どこも変わったところのない本です。その要約はきわめて簡単です。ちょっと変わった女の子がいても、優しく暖かく接してあげれば立派な(テレビのインタビュアーで有名人だと立派な人だということが前提になっているのがすこし気になりますが)人間になれると書いてあります。ほんとうの話、こんなことはあんまり〝当たり前〟すぎるので、どこの学校でもやってはみたけれど、どうもうまくいかない話なのですがね。
よく女性向け映画に、「これは泣けます」とか「今度こそ涙がとまりません」と言って宣伝しているものを見ます。そういう映画はたいてい美しくひたむきな愛とか、自己犠牲的な献身の物語です。何十年も前からパターンは変わっていません。死んでいく我が子へとか、逆に死んでいく父から娘へというものです。
それはそれでよいわけですが、要するに、みなおおよそ予想した筋で〝当たり前〟のものなのです。そうでなければ、1時間半なり2時間をひとつの姿勢で見つづけることはできません。映画というのは、大衆娯楽としては、ある意味でそれに大変適合したメディアなのです。1回いくらで観賞するものなので、そうは簡単には繰り返し見ることはできないものです。だからこそ、主にはワンパターンのメッセージを出し、繰り返し繰り返し、1時間半のうちに確認しつづけることが重要なのです。
しかし現実には、そこで演技されたのと同じように行動すると、ほとんどうまくいかないのです。そんなとき、それを信じた〝純粋〟な人は、世間が不純なのだからとか、誰も(あの映画のように)私をわかってくれないとか不満をもらすのですが、要するにその人はまわりを見ずに一人よがりに突き進んでいるからだというしかないでしょう。
『窓ぎわのトットちゃん』はそういうお涙頂戴映画と同じです。つまり、だいたい予想どおりに美しく筋が進行します。この本の買い手は、本の中に自分の考えやものの理解の仕方に対すフレッシュな情報や、それを深める情報を求めているのではなくて、はじめから「そうなのよねえ、ほんと!」という保守的な思考を確認するために買ったのです。
それを、著者の黒柳徹子さんが、幸いにも自ら何も疑うこともなく、ひとつの意味ある新しい哲学であるかのごとく誤解しているものですから、つい熱意もこもり学校や家庭についての人々の誤解を拡大していくことになったのです。 それが、この本の売れた秘密です。
本屋さんも危なくなってきた
となると、なんべんでも楽しめるのが本であり、それはいっぺんきりの演劇や映画にくらべて安いものだという、元来の書物の性格に反します。そもそも、この本を買った人の大多数がなんべんも繰り返し読むということはありえないでしょう。
一定のわかり切った情報、それも期待どおりの"保守的な情報を流してくれるメディアになっているわけなので、これが売れれば売れるほど、「思いがけない知識」「思いがけない人生」という情報の源であるべき本来の本の意味は崩れていかざるをえないのです。
そうなれば、釣りの本は本屋ではなくて、釣具屋さんで他の釣道具や近くの浜の潮の情報などと並んで置かれ、スポーツの本はスポーツ用品と同じ空間で売られるべきだとなっていくのが当然です。なぜなら、本の持つ特別の意味は薄れ、結局、どれも限定された分野の限定された情報でしかなくなるからです。
そうであれば、別に本という形をとる必要はないからです。そういう本の意味を壊しはじめたのはもともとは週刊誌というものでした。これは活字ではありますが、書物ではありませんでした。つまり、なんべんも自由に主体的に対処できるものではないからです。
だからいまでは薬屋さんなどでも週刊誌を売っています。まさしく、あれは本ではありません。それが普通であるなら、スポーツの本と経済学の本、囲碁の本と文化人類学の本が同じ空間にあること自体がおかしくなるはずです。それがつきつめられれば書店という空間自体が無意味になるでしょう。
本のほんとの力をどう見抜くのか
ところで「メディアはメッセージである」と言ったのは、マーシャル・マクルーハンというアメリカの社会哲学者でした。
メディアの中でも本というものは、読み方によって、いろいろな情報が引き出せる、または自分が期待していなかった情報さえも出てくるし、しかもそれが映画や芝居と違って、たった一人でも、いつでも好きな時間に繰り返してでも引き出せるという優れた性格を持っています。それが、紅茶キノコの本や『窓ぎわのトットちゃん』や『なんとなく、クリスタル』ではメッセージが単純すぎて、メディアとして反復性や永続性に欠けるのです。
そういうことではいけません。それでは単なる一回性の娯楽です。私自身は、自分が一見、単純メッセージ風の『パンツをはいたサル』(カッパブックス・1981年)などという本を書いているのですが、それは少なくとも一回性の娯楽本ではありません。そこに述べたことは、一見当たり前風でも、示してある根拠は当たり前などではないものだからです。たぶん、その本を買った人は何度も繰り返し読んでいることでしょう。
この本ではあなたに、繰り返して考えてもらいたいと感じるメッセージを出してみたいと思っているのです。もちろん、ここで踏まえられているところの哲学やその他の社会科学、自然科学に精通しているレベルの人々にとっては、これは当たり前のことになるでしょう。しかし、そうしたものに学問として精通している人はごくわずかな特別に優れた学者たちだけです。私はそのほとんどの人を直接知っています。
だから、たぶんあなたはまだそういう人ではない。にもかかわらず、ここに書くことがほとんどすっと当たり前のものとして頭に入る人がいるなら、それは逆にほんとうに学問に向いた人だと言えるし、自然で無理のないものの考え方のできる素質のある人なのだと言えます。
自然で人間的なものの見方、それは近代社会に生きる人にとっては、ほっておいては無理なことなのです。 心を開いて考えれば人はみな同じだとか、どこの国の人でも心は通じるというのはまるっきり嘘なのです。
たとえば人間は生まれてすぐのときには両手を添えてもらうと歩くことができます。しかし、すぐに絶対に歩けない状態にいったん陥ります。そして、歩き方を他人に教えてもらったりしつつ大人になってくるプロセスを経ていきます。
つまり、実は人間は大人になる過程で、いろいろなことを他人に教えてもらってしまっているため、それによって誰でも〝偏見〟を持ってしまう動物だということです。相手にニッコリ笑いかけることがよいと教わって育っている民族と、ツバを顔の真ん中に吐きかけて好意を表現する民族とでは、壁を取り払う意識的努力なしには友好的にはなりえません。
さらに、人間は近代社会的世界観という〝集団的偏見〟も持っています。これらの意味と影響を知ることにより人は現代社会における個々の不必要ないらだちや人間関係のザラツキをかなりなくすことができるでしょう。
でも、簡単に幸せな未来なるものを教えるつもりはありません。幸せの意味さえも変わるかも知れないからです。私には、無責任に、こうすることが一般的に幸せなんだよと教えることはできません。死んだほうが幸せだと大真面目に言ってあげたい人もいるんですよ、ほんとうに。
そこで、たとえば、なぜ人は異性を愛し恋するのか、またそうなってしまったらどうすればよいのかという問題は大きなものでしょう。あるいは、きんたまはきれいなのか汚いのかという致命的問題もすぐに出てきます。そしてやがては、なぜ東京深川の通り魔殺人犯・川俣軍司がBVDのパンツをはいていたのかという、筆者得意の「パンツ」論にも至って、あなたのものの見方を近代社会的合理的ヨーロッパ中心的なものでなく、人間本来のものに変えるべく粉骨砕身、努力してみたいものです。
※栗本慎一郎『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』 「天才と宇宙と海」と「不幸と幸福」より要約、抜粋
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(引用ここまで)
この続きはまた明日に!
【栗本慎一郎関連の過去投稿記事】
・もともと知っているのなら、なぜわたしたちは本を読むのですか?
・栗本慎一郎「ユニークであろうとすればユニークにはなれない」(今日の名言・その76)
・「統合する」ということ(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』①
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