公私融合の仕事術三原則⑤最終回(森清『仕事術』より)
2024/10/29
昨日10/28に投稿した記事の続きです。
10/25に投稿した記事に、
「公私融合」という本書の最重要キーワードを
具体的方法論に展開している
公私融合の仕事術三原則に触れた箇所を
本書の第2章から引用して紹介しました。
10/26からは、その内容に対して
わたし自身のコメントを記しているんですが、
昨日投稿した記事の冒頭に
「そろそろキリをつけたい」と書いておきながら、
結局締めくくれず、これで5回目になるので、
今日こそは!と考えています。
それで、昨日までに投稿してきた記事内容を
前提として書くことがあるので、
次のうちに未読記事がある方は先にご覧ください。
昨日の記事では主に
森清さんが公私融合の仕事術三原則として示された
①ことの本質を見抜くこと
②全体像を見通す力を持つこと
③対立項で問いを立て、融合させて新しい価値を
生むように努めること のうちの、
①についてのコメントを書きました。
「ことの本質を見抜く」のは、
もちろん、簡単にできることではありません。
誰でもすぐに見抜けるようなものなら、
それは、本質でも何でもないでしょうから。
でも、誰でもすぐ見抜けることでないからこそ、
ふだんから、「本質とは何か?」という問いを立てて
徹底的に考え抜く姿勢が習慣化されることで、
磨かれる力や
新たに生まれる価値も半端でなく
大きなモノになることを実感しています。
とはいえ、わかったかどうか、
本質を見抜けたかどうかということは、
あくまで本人の主観(内的観点)にすぎず、
言語化が難しい感覚的なものも伴ってくるので、
それを客観的に証明する手段がありません。
ですから、あくまでわたし自身の場合ですが、
わかったかどうか、
本質を見抜けたかどうかを問うより前に、
自分が実践できているかどうか、
本当に変容を遂げられたか否かを問うてみて、
外的観点を伴った形で確認可能な状態でないことや、
現実のなかで自分自身が実践でき、
体現できていないことは、
わかっているとは言わないように心がけてきました。
そういう意味では、
わかることよりもできることを重視し、
自分の今の状態を俯瞰的に見ることのできる
らくだメソッドの学習記録表は、
思考にとらわれずに身体が動いているかどうかを
自分で客観的に知ることができる利点があって
一番のめやすになるわけですね〜
よく「アタマではわかっているんだけど
できていません」という言葉を聞きます。
もちろん、わかっているか、できているかの基準は
ひとによってまちまちでしょうから、
定義上の問題でもあるわけですが、
わたしの場合は、「自分にできていないことは
わかっているとは言わない」と
定義している次第なので。
この「ことの本質を見抜くこと」については、
それこど、本1冊分になる位の文字量を費やしても
書ききれるかどうかわからないくらいの
大きなテーマですから、
これまで書いてきたブログ記事の中にも
「そもそも〜とは何か」といったテーマで
書いたものなどはあてはまるでしょうし、
言語化できていないものについては、
改めて書くようにしようとおもいます。
②全体像を見通す力を持つこと
正しい判断は全体像を見ることで可能になる。時に全体像を見渡せないほど大きな対象を見る場合でも、あくまでも全体像を見ようという意思と姿勢と努力があって正確な判断ができる。もちろん、部分を軽視せよとはいっていない。全体像を見通すためには、離れねばならない。だから常に対象からはわずかでも離れて見る習慣をつけたい。そうした習慣を身につけることで新しい勤労者になれる。
→観察力の大切さという話は、
このブログでは頻繁に登場するテーマですが、
25年前のタイミングで読んだ本書によって
意識し始めていたことは、自分にとって
とても大きなことだったなぁと実感しています。
たとえば、わたしの場合は過去に
地域通貨の流通実験、
子どもたちの居場所づくり、
若者就労支援など、
さまざまなプロジェクトに関わってきましたが、
事業が一段落したときに、その全体をふりかえって、
得られた成果と残された課題を中心に
文章にまとめる習慣を始めたのもこの頃からで、
この記述をわたしなりに現実の中で実践しようとする
行動の現れでもありました。
よく知られたことわざに
「木を見て森を見ず、森を見て木を見ず」が
ありますが、
1本1本の木の姿は目に見えるものでも
その木の各々がどのようにつながっているか、
どんな生態系の中で
生息しているかについては、
1本の木だけを凝視していても見えて来ません。
木が集まってできている森林だけでなく、
まわりにある里山、河川、海などとも
大気、水、土壌といった様々な要素が
相互に複雑に関わりながら、
1つのシステムとしてまとまって機能する
生態系を形づくっているので、
全体像を把握するには、
このような見えない〝つながり〟を
意識しなければならず、
この〝つながり〟がとっても大事なんですね。
少し前に投稿した次の記事にて引用した
・愛することと恋すること⑧ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論(大前提編)
栗本慎一郎さんが「いのち」と表現されていたのは
この〝全体性〟のことと言ってよいでしょう。
でも、記事の後半に本の出版にたとえながら
書かれていたように、
「ことば」の主な機能は「分ける」ことにあって
「ことば」の使い方をひとつ誤ると、
この「いのち」の全体性をバラバラに分断し
切り離してしまいかねません。
そこで、森さんがコメントされているように、
全体像を把握するためには
対象に近づきすぎてしまってはダメで、
その対象物と適切な距離をとらなければ、
本当の姿、全体は見えてこないわけですね。
10/24に投稿した
とりあげた記事でも書いたように、
この話は、そのまま人間関係にもあてはまり、
距離が近いことを親しくなったことと
勘違いしやすいのですが、
実は距離が近くなれば近くなるほど
互いの本当の姿が見えなくなって
関係が難しくなってしまっていることが
すくなくないので。
この全体像を見通すというテーマも
普遍性の高いもので、
たとえば、先月24回にわたって書いた
「統合すること」の記事などはまさにそうですし、
書き出せばキリが無いほどいろいろ出て来るので、
これくらいにしておきましょう。
③対立項で問いを立て、融合させて新しい価値を生むように努めること
ものごとの根本を考えるには、対立項で考えるのがいい。その理由は、それぞれが明らかになるからである。そうして、その融合が新しい価値を生むからだ。
→対立項で問いを立てることの大切さについては
昨日投稿した④の記事にも書いたように
森清さん自身が多くの具体例を挙げながら
詳しく説明されていたので、
そのこと自体に
わたしが説明を加える必要は感じていません。
ただ、いま三原則の全体を読み直してみて
ひとつ感じていることは、
この三原則①②③とは、
同じ内容のことを違う側面から言っていて
この①②③は相互に
関連し合っているってことです。
たとえば、「内」と「外」は対の概念ですが、
外側を知るには内側を見る必要があるし、
内側を知るには外側を見る必要があって、
内と外を分けているものが
何なのかを問い、
内と外のみえないつながりが意識できると、
その全体像が浮かび上がってきて、
どこに本質があるのか、その違いや落差から
垣間見えるものがあったりしますから。
さて、結局5回の投稿記事になりましたが、
長々としたコメントも
これにてひと区切りにしようとかと。
森清さんの『仕事術』第Ⅱ部には、
第Ⅰ部の理念的な話を土台に、
その仕事術を実行していく
「手の技術」「縁の技術」「知の技術」「育む技術」の
4つの技術について具体的に書かれています。
いすれも章末に
章のポイント事項が箇条書きで整理してあるなど
実践しやすい工夫もなされているので、
ぜひ本書を手に取ってご覧になってみてください。