不可避なことをどう受け入れるかが人生(吉本隆明『ひとり 15歳の寺子屋』より)
2024/11/26
今日は昨日投稿した記事の続きを。
この記事を書き始めたきっかけは、
昨日の記事にも書いたとおり、
YouTube動画を観たことです。
したがって、この記事を書き始めた時点では、
本書『15歳の寺子屋 ひとり』から引用した
〈才能〉ということをどう考えるか
日々手をどれだけ動かしているかどうかが大事
について書かれた部分だけを紹介して
終えるつもりでした。
もう何度も繰り返し読んでいるこの本でしたが、
久しぶりに読み返してみて、
終わりの方にあった
「自分の生涯の終着点みたいなものは、
あらかじめ決めない方がいい」というのは、
昨日の記事で引用した箇所では
あまり詳しく触れられていません。
それで、続きにあたる残り4割の部分
つまり、吉本さんご自身がキャリアという問題と
具体的にどう向き合ってきたかというお話も
このタイミングで紹介しておきたくなりました。
(引用ここから)
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僕はまわり道ばかりしてきた
僕が物書き専業になったのは、三十代も終わろうかって頃でした。「物書き」なんて漠然としたいい方だけど、自分ではそれがいちばんしっくりきます。「思想家」という肩書でいわれることもありますけど、これはどうもね。「思想家」っていうのは、自分の考えがなんらかの意味で有効性を発揮したらそういえるんでしょうけど、自分にはそんなもんは何もねえやと思うので。
どういうきっかけでそういうことになったかときかれても、だからどういったらいいんでしょうね。ひとりでに道を歩いていたら、ほかの道がふさがっちゃって残ったのが「物書き」だった。そういうふうに考えるよりしかたがない。「こうなろう」と思ってなったというよりも、いろいろな道とか通路っていうのがあるとして、その通路がひとつひとつふさがっていくという思いをして、とうとうここにたどりついた。
僕は工業高等学校に通っていましたから、卒業したら自分は技術者になるんだと思っていました。卒業したのは戦後の復興期でしたから、成績のいい人は大きな会社が優先的に雇ってくれた。でも僕は、落第すれすれの低空飛行でね。そういう推薦枠からははずれていたから、自分で職を探すしかなかったんです。それで新聞で、「技術系の○○求む」という告知を見ては応募していくんですが、だいたい長続きしませんでした。
そういう根無し草みたいな時期が四年も五年も続くと、なんて俺はだらしないんだと情けない気持ちにもなりました。ちっとも落ち着く場所がない人間だなと。このままじゃいけないっていうんで正規に就職しようとしたんだけど、どういうわけかどこに行っても雇ってもらえない。
筆記試験はおおよそ通る。あとは面接と身辺調査なんだけど、そうすると工場を転々としていた時期に「あんまり雇い主が横暴なことをいうようなら労働組合っていうのをつくれるんだぜ」って僕が同僚にいってたなんて話がわかって、雇い主は「あいつを入社させて、そんなものをつくられたら面倒だ」と警戒したんでしょう。何度、入社試験を受けても、ことごとく、はねられた。
世間っていうのは厳しいもんだなあと思いました。そのくせ自分じゃいいことをした、人のためになることをしたんだと思ってる。しかも若いから言葉や態度に過剰に出ていたんでしょう。つまり誇りとして出てくるんですよ。人がなんといおうと、自分は悪いと思うわけにはいかないよっていうのがね。世間の人は、そういうのはすぐにわかるわけです。僕は自分自身が軌道をはずれたこの時期に、ひとりになった孤独を実感したといってもいいかもしれない。
不況で派遣切りにあって放り出された人たちを見ていても思います。世間が信用するのはどこかに所属している人間なんです。いくら自分ではいいことをしたんだと思っていようが、組織を離れた人間が信用してもらうのは難しい。そういうのはあとで気がつきました。その時はわからなかった。
それでもひとりをしのぐことができたのは、そのときどきで、自分の目を覚ましてくれるような人たちと出会ってきたからだと思います。
その頃、僕は何かいい仕事口があったら紹介してもらおうと思って、大学の研究室にちょくちょく顔を出していたんですが、ある時、数学の先生にこういわれたんですよ。 「本気で仕事を探してるんなら、もっとうるさがられるくらい来なきゃダメじゃないか。人は自分が自分を思うほど、君のことを気にかけてるわけじゃないんだぜ」いやあ、すごいことをいうな。この人はすごい人だなと思いましたね。
「おまえみたいなだらしないヤツはダメだ」っていういい方なら、どの先生もいうんだけど、その先生は「人はその人がいちばん重要だと思うことを大事にして生きてる、それが人間ってものなんだ」っていい方をしたんで、ドキッとしたわけです。
「おまえみたいに人にものを頼んでおいて、そのあとはなしのつぶて。突然ふらっとやってきて〝どうですか〟なんて人としてなってない」って、ものすごいお説教をくらって、それはもうその通りなんで謝りましたけど、そんなことより僕はそのいい方が気に入っ ちゃって、わああっとなっちゃった。
人は、自分が自分を思うほど、君を思ってるわけじゃないぜ。
なるほどなあと。自分はいつの間にか甘ったれていたんだな。自分はいいことをした、人のためになることをしたなんて思ってきたけど、そんな考えはやめた方がいいと気がついた。かなりのショックを受けたんだと思いますよ。だからその言葉は今でも覚えてる。じゃあ、それで僕がすっぱり改心したかといえば、そんなことはなくて、そのあともまたいろんな失敗をやらかしましたけどね。
僕は、ずいぶんとまわり道をしてきた人間です。軌道をそれた人間は、人一倍努力しないといけない。その苦労はおそらく長く続く。ひょっとしたら一生続くかもしれない。僕は専門は化学だったのに文学をやることになって、独学で必死で勉強しました。最初から文学をやっていた人よりスタートが遅い分、人の何倍もやらないとダメだと思っていました。
自分ではどうしようもないことも多かった。その最たるものが戦争です。そういう経験をするうちに、自分は消極性で世の中とつながっているんだと考えるようになった。積極的にやりたいことをやろうとすると、どういうわけか道はことごとく閉ざされてしまった。だから、人は運命の通り、あるいは運命を受け入れて生きるっていうのがいちばんいいことなんだっていう考えがどうしても消えない。
戦後は右翼からも左翼からも批判されましたし、「それだけはそちらの方がちがうんですよ」といい返すだけの根拠を持ってやってきたつもりですけど、なかなかわかってはくれないですね。だからっていい気になって「自分はいいことをした」なんてことを少しでも思ったら、おしまいだっていうのは心の中にずっとあった。自分のやったことに積極的な意味をみだりにくっつけたりしたら、自分はもうだめだと思ってやってきました。
人の人生には、どうしても避けがたい不可避なことがある。そういう受け入れざるをえないことを、どう受け入れるか。人が「生きる」っていうのは、もしかすると、そういうことなんじゃないか。
僕はそうやってやれることをやるしかないと思ってやっているうちに、物書きになっていました。「こうなろう」と思ってなったんだとは、とってもいえそうにありません。「こうするよりほかなかったんだ」とでもいうような消極性だけが唯一、自分の人生を決定づけてきた気がするんですよ。
※吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』第二時間目 後半部分より
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(引用ここまで)
この吉本さんの文章の最後に
やれることをやるしかないと
思ってやっているうちに、
物書きになっていました。
「こうなろう」と思ってなったんだとは、
とってもいえそうにありません。
「こうするよりほかなかったんだ」とでも
いうような消極性だけが唯一、
自分の人生を決定づけてきた気がするんですよ
とありましたが、
吉本さんの人生をわたし自身の人生と
重ね合わせながらこの箇所を読んでいました。
高卒学歴のわたしは、
大学で専門的な勉強を正式に積んだ人間ではなく、
最初から教育の仕事がやりたいと
考えていたわけではありません。
20台前半には5回転職していて
1つの職場がなかなか長続きせず、
自分は何がやりたいのか、
自分はどんな仕事で生計を立てていくのか、
悶々としていました。
25歳のときに
進学塾の専任講師になったのも
知人から声をかけられたことがきっかけで
偶然の成り行きだったのです。
途中、吉本さんの言葉に、
それでもひとりをしのぐことができたのは、
そのときどきで、
自分の目を覚ましてくれるような人たちと
出会ってきたからだ
とありました。
こうしてこんにち自分があるのは、
たくさんの人たちとの出会いがあってのことと
わたしにとっても
つくづく身に沁みることばでした。
本書は文字も大きいですし90ページしかなく、
1時間くらいあれば1冊読めてしまう分量なので
ぜひ手に入れて読んでみて下さい。
YouTubeで本書のことを紹介している
10分ほどのレビュー動画を見つけましたので
最後に貼り付けておきます。
Radio2.4km@youtube No.269 review vol.2 [ 15歳の寺子屋 ひとり ]
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