10年やり続けたら才能なんて関係ない(吉本隆明『ひとり 15歳の寺子屋』より)
2024/11/25
漫画家・吉富昭仁さんの『24区の花子さん』から
花子の台詞を「今日の名言シリーズ」として
紹介しました。
その記事の終わりの方で、
吉富さんがその漫画の原稿30枚を描いている
創作現場の動画をシェアしたんですが、
それを観ていて内容をおもいだした1冊の本があり、
今日はそれをご紹介。
この本の著者・吉本隆明さんは
1924年に東京に生まれ、
2012年に亡くなられた方ですから、
亡くなる3年前の2009年5月から
15才の子どもたち4人に向けて
1年間にわたって向けて行われた
吉本さんのお話をまとめてつくられた
『15歳の寺子屋 ひとり』という本です。
この本のことは以前2022.7.15に投稿した記事でも
紹介したことがあったんですが、
本1冊の全体像をどう掴むかというテーマで
書いた記事でもあるので、
未読の方は次の記事から先にご覧ください。
(引用ここから)
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【二時間目】才能って何だろうね
進路志望を書けといわれても、自分にどんな才能があるか、わかりません。僕はすごく勉強ができるわけじゃないし、「普通」だと思っています。サラリーマンはなんとなくつまらなそうに見えるけど、でも食べていくにはお金を稼がないといけないし、たくさんお金を稼ぐには弁護士とか会計士とか「士」のつく仕事がいいんじゃないかって考えたりもしたけど、それがやりたいかっていわれると、やっぱりよくわからない。吉本さんは、どんなきっかけで今の仕事についたんですか?
〈才能〉があるとかないとか、そんなのは嘘だ
誰に才能があって、誰に才能がないとか、そんなことはないというのが僕の考えです。たとえばいい文章を書くということにしても、才能によるとか、資質によるとか、あるいは感覚がどうだとか、細かく数えるといろんな要素があるわけですが、そういうことは全部、二の次だと僕は思っています。
そんなのはたいした問題じゃない。大事なのはしょっちゅうそのことで手を動かしてきたか、動かしてきていないかのちがいだけです。これは物書きに限らず、何でもそうですよ。要するに手だよ、手の使い方なんだよってね。何になるにせよ、手をたくさん使えば誰でもなりたいものにちゃんとなれます、そういってもいいくらいです。
職人さんを見れば、わかります。染め物をやれば、余計な染料を洗って落とすために、暑くても寒くても川に入らなきゃならない。そういう作業をたくさんやれば、一人前の染物師になれる。それだけが専門家とそうじゃない人のわかれ目で、ほかのことは全部あてにならないんです。
誰に才能があって、誰に才能がないとか、そんなことはない。ないと同じなんだよ。ただ、やってなきゃ誰でもダメだよ。やったら誰でもやれます。たくさん手を動かしてると、何かやる時にひとりでに手が動いてくるということがあります。自分の手が覚えてることを、自分でもって納得できるように手を動かすことができたら、いいものができる。
だから、〈量より質〉の反対。〈質より量〉ってことだと僕は思います。僕はいつでもそういう考えですね。それ以外は認めないっていうか、自分に対しても認めないできました。
じゃあ、どのくらい手を動かしたらいいのか。僕は昔っから、「十年やれば一人前になれるよ」っていってきたんですよ。「十年やって、ものにならなかったら俺の首をやるよ」ってね。十年という数字はどこから来たのかといえば、やっぱり職人さんたちを見てきたからだと思います。うちのこの親父からだといってもいいし、親父の仲間たちからだといってもいいんですけどね。
僕が生まれた実家は、東京の下町の月島で船大工をやっていました。僕は子どもの頃から、ボートや釣り船をつくる造船所で、職人さんたちの仕事ぶりを見るともなしに見てきたんです。そうすると小僧さんみたいに十代の頃から来ている職人さんもいるし、大ベテランの職人さんもいる。
そういう人たちを観察するうちに、なるほど、年季が入るっていうけど、年とった人っていうのはすごいもんだなあっていうのもわかってくるし、若くて未熟だった職人さんがだんだん巧みになっていくのも目に見えてわかって、ああ、こういうものなのかと思っていました。
ボートでも釣り船でも、船には船倉のわきのそり方みたいなものがあるんですが、だいたい十年くらい経つと、そり口のつくり方がうまくなるんです。小型のボートなんてそんなにちがいはないじゃないかって思うかもしれないけど、そり方でずいぶんちがうものなんですよ。
ある時期、僕は橋の上から下を通るボートを見れば、「ああ。これはどこでつくったボートだ」ってわかりました。それこそ自分のうちでつくったボートはすぐにわかった。そういう自分なりのものがひとりでに身につくまでに、だいたい十年。そういうのを見てきたから、これはスポーツだろうと、音楽だろうと、何にでもいえることだと僕は確信しています。
才能があるとかないとか、そんなものは認めない。そんなのは嘘だ。本当なのは、そのために手の動きをどれだけやったかということです。才能なんてものは問題にならない。問題になるのはせいぜい最初の二、三年くらいのもので、十年経ったらそんなことは全然問題じゃなくなるぜ。
結局は手の問題なんですよ。手が知ってる。手を動かしてると、二、三年は同じでも、十年経つとその人らしさというのかな。その人にしかできない表現というものが必ず出てくるものなんです。
芥川龍之介と田山花袋の話
そのことを考えるとてもいい例として、作家の芥川龍之介と田山花袋の話をしましょうか。芥川龍之介の小説は、みなさんもよくごぞんじじゃないですか。『羅生門』や『蜘蛛の糸』なんかを教科書で読んだことがあるでしょう。
芥川は夏目漱石のお弟子さんで、早くから才能を認められていました。評論から小説から詩から短歌まで向かうところ敵なし。頭のキレる秀才でしたから自信もあったんでしょう。若い頃は田山花袋のことを「あいつは鈍いヤツだ」とちょっとバカにしてるところがあったんですよ。
じゃあ、芥川の小説で何がいちばんいい小説かというと、これは人によってちがうものが挙がると思いますが、僕は『玄鶴山房』だと思っています。では田山花袋が書いた小説でいちばんいい小説は何かといったら、代表作とされる『田舎教師』がやはりいちばんいいと思います。
じゃあ芥川の『玄鶴山房』と、田山花袋の『田舎教師』ではどっちがいいんだ?といわれると、僕にはどっちともいえない。確かに芥川は誰からも文句のつけようがない高い評価を得ている作家で、一方の田山花袋は冴えないことを冴えない感じで書いているように見える。でも晩年の作品を比べると、どっちも同じようにいいんです。
『玄鶴山房』は、芥川が自殺する半年前に書かれた小説です。主人公は画家の堀越玄鶴という老人で、羽振りのいい時期もあったけど、今は肺結核をわずらって死の床にある。一方、『田舎教師』は貧しい境遇のため、文学を志しながらも小学校の教師となる道を選んだ清三が結核にかかり若くしてこの世を去るまでの話です。
切れ味鋭い秀才だった芥川は、晩年の『玄鶴山房』まで行くと、ほとんど田山花袋の『田舎教師』と同じような意味でいいというふうになっているんです。若い頃は、鋭い作家と鈍い作家でまるでちがうように見えたふたりですが、かつて芥川自身が「鈍い」と評した田山花袋の作品と、芥川の晩年の作品は似てきたじゃないかってなる。
かたや田山花袋は鈍い作家といわれながらも、鈍い鈍いといわれる小説を貫徹してきて、いつしかそれが持ち味になっていきました。鈍いっていえば鈍いんだけど、そこがいいんだ、そこが魅力なんだっていうところにたどりついた。だから晩年のふたりの作品を比べると、いやあ、どっちがどうともいえないぜってなるわけです。
手を動かしてみな、手が知ってるよ
さあ、そうなると〈才能〉ってなんでしょうね。「鋭いから小説の才能がある」なんてことはいえないし、「鈍いから小説の才能はない」なんてこともいえない。もしそうなら鋭い人は小説をやって、鈍い人はほかの何かをやりゃあいいって話になっちゃうんですよ。そういうのは僕は認めない。
芥川龍之介と田山花袋がそうだったように、十年経ったらどういうふうになってるかなんて誰にもわからないんですよ。わかるのは、ただ、手をどういうふうに動かしたかってことだけなんです。鋭いことが長所で、鈍いことが欠点かといえば、そうともいえない。
十年やってりゃあ、欠点に見えたことがその人ならではの持ち味、魅力になるってことがあるからね。
だから、みなさんも「自分には特別な才能がないかもしれない」なんて悩むことはないんです。なんだっていいから、やってみりゃぁいい。そうすると、自分でも思ってもいなかったところがだんだん底光りしてくる。
やってるうちに自分の姿が自分なりに見えてきて、鋭いのは鋭いなりに、鈍いのは鈍いなりに、なんともいえないその人だけの値打ちが出てくるものなんです。それこそがその人の<才能>であり、その人の<宿命>と呼べるものなんですよ。
みなさんはまだ若いから、<宿命>なんていわれてもピンと来なくて、「よしてくれよ。ただ好きでやってるだけだよ」って思うかもしれない。それでいいと思うし、若い頃はそれくらいしか自分を決めていく方法はないだろうなというふうに思います。
好き嫌いだけで大いにけっこう。まちがったっていいから、やってみることです。若い時のよさって、それですからね。好きでやってるんだから大まちがいだっていいじゃないですか。まずはそこから始まるわけで、いつか底光りが出てくるぞって思ってやってりゃいいんです。
実をいうと、僕もそれを頼みにしてやってきたんだけど、ちっとも出てこないんだ、この底光りってヤツが。人生も残り少なくなってきたし、こりゃもうダメかなって思うけど、でも「じゃあやめるか」っていわれたら、やめることだけはなんとなくできない。
なんでかっていえば、もう手がいうこときかねえよってことがあります。ほかのことやれっていわれても、この手でほかのことができるかよってくらいになっちゃってる。ずっと手を動かすっていうのは、つまりそういうことでもある。
手を動かしてみな。手があなたのダメなところも値打ちも全部ちゃんと知ってるよ。才能があるかどうかなんてことはわからなくっていい。ただ、ひたすらに手を動かしてさえいれば、自分のなんともいえない性格とか、なんともいえない主義とか、なんともいえない自分なりの失敗とかがんばり方とか、そういうものがひとりでに決めていくものがある。そうして決めていった挙げ句のものが、<才能>であり<宿命>なんだと僕は思います。
逆のいい方をすると、自分の生涯の終着点みたいなものは、あらかじめ決めない方がいいですよ。決めたところでその通りにはならないし、運命があたえてくれるものが戦争であったり、平和であったり、それぞれの時代にそれぞれのものがやってくるだろうけど、それは受け取るだけ受け取った方がいい。受け取ったあとで、どういうふうにそれと向き合うかっていうのが、それぞれの人の「生きる」ってことなんだと思います。
※吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』第二時間目より
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(引用ここまで)
第二時間目として書かれている吉本さんのお話は
まだこの後に6ページほど続きがあるので
これがすべてではありませんが、
紹介した文章は、
全体の6割ほどにあたる分量です。
吉本さんのお話に
「職人」という言葉が出て来ましたが、
吉富さんのマンガ作品には、職人技というか、
そうした職人魂のようなものを感じましたね。
大脳思考はブレーキをかけるのが得意なので、
思考が過剰にはたらいてしまう人は、
まず手を動かす、
ひたすら動かし続けるということが
なかなかできないようなんですが、
とにかく手を動かすことが大事であると。
10年間、毎日やり続けていれば、
才能なんてものに関係無く
その人なりのものが底光りしてくるというのは、
わたし自身も実感していることです。
アタマは自分が
一番賢いんだっておもっているんですが、
実はアタマよりも、
手の方がずっとずっと賢いんですよね〜
この続きはまた明日!
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