教えない教育マンダラ
2021/09/04
寺子屋塾では〝教えない教育〟を看板にしているといっても、けっしてイジワルで言っているわけではありません。
「教えたいことがない人には、〝教えない教育〟はできないんです」なんて話すこともあるんですが、何も教えないのではなく、教えたいことを「〝教えない〟というやり方で教える教育」なので、教育であることに変わりないからです。
でも、ちょっとややこしい話ですねぇこれは・・(^^;)
寺子屋塾を始める前は、名古屋市内に本部をもつ小中学生対象の進学塾に在籍し、専任講師として7年間徹底的に教える教育を実践しました。
7年間で1000人ほどの小中学生と現場で関わってきたお陰で、「どうしたら成績を上げられるか」「国語力を身につけるには・・」などなど、教科内容や学習方法についてのご相談やご質問については、どのようなものであってもだいたいその人に合った方向をお示して、手がかりを持ち帰っていただくことができるようになったようにおもいます。
でも、自分が誰よりも教えたがりで、教えることが好きで好きでたまらない人間だということも見えてきて、この方向だけを良しとして道を突き詰めて進んでいくと、もしかすると危険なことになるのでは、ということも考えるようになりました。
危険なことというのは、つまり、教えることを繰り返しやっていれば、だんだん教えることが上手くなっていくわけですが、だんだんと自分の教えている内容や教え方が正しいと錯覚するようになってくる。
この段階で、それが錯覚だという自覚を失わずにいて、そこでとどまれればいいのですが、「教えている内容や教え方が正しい」が、「教えている自分が正しい」にいつのまにかすり替わり、自分に酔ってだんだん自分が見えなくなっていくんですね。
では、自分が教えている内容の正しさを常に検証しつづけ、つねにグレードアップを図りつつ、しかも教えたがりの自分に酔ってしまわずにいるにはどうしたらよいか、ということなんですが、それには、「教える」というアクセルを踏むことだけを良しとせず、自らに「教えない!」というブレーキをかけられるようにする・・・つまり「教える」と「教えない」の2極を揺れ動きつつ、いかに自覚的になれるかがポイントなんだと。
その「自分はいったい何を人に教えたいのか?」「どのように教えるべきか?」というような問いと20年以上にわたってずっと向き合うことになり、そのプロセスにこそ価値があることに気づかされたのでした。
「教える教育」「教えない教育」の両極を体験してきていま実感していることは、教える方がず~っとラクというか、教えない・・・「~する」ことよりも「~しない」ことの方がずっとタイヘンなんだよなぁと。
それで、ふと「〝教えない教育〟マンダラ」なんてコトバが浮かび、写真は9つのマス目を埋めてみたものなんですが、いかがでしょうか。
●どんなに忙しくても、
どんなに体調が悪くても、
まずは、目の前にある
プリント1枚からスタート!
プリント1枚やること自体は
だれでもできる簡単なことですが、
どんな状況のなかでも
1日1枚やり続けるとなると易しくありません。
でも、易しくない課題だからこそ、
それをやり続けようとすることで、
まわりに簡単に振り回されてしまわない
いわゆる〝ぶれない軸〟が自分のなかに
育っていくことにもつながるのです。
自分自身の状態もまわりの状況も
常に変化しつづけているものですし、
そもそも忙しさや体調と、
目の前にあるプリントとは、
何の関係もありませんから、
それを切り離して考えられるかどうかは
とても重要な視点です。
だから、そこで問われるのは、
「できるか、できないか」ではなく、
「やりたいか、やりたくないか」でもなく、
「やる」と決めている自分自身の有り様だけで、
できたか、できなかったかという結果よりも、
その事実と自分がどう向き合い続けたか、
そのプロセスに価値があるのです。
こうしたプロセスの日々の積み重ねが、
「いま、ここ、自分自身」を軸に
生きようとする姿勢の入口を開いてくれるし、
だからこそ、
「できない体験」が何よりも大事なのです。