寺子屋塾

「初心忘るべからず」という言葉の真意について

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「初心忘るべからず」という言葉の真意について

「初心忘るべからず」という言葉の真意について

2022/01/16

今日は、寺子屋塾生のひとりから誘ってもらって、

オンラインで行われたおしゃべり会に

初めて参加しました。

 

事前に聞いていた今回のテーマは

「日本文化・伝統について」で、

一人の持ち時間は10分程度です。

 

そもそも、コロナ騒動でリアルに

集まることが難しくなり、

オンラインの会議ばかりだと、

雑談がなかなかできないからということから

始まった企画とのこと。

 

よって、ガチにそのテーマについて論じる

というよりは、

テーマとどこかで接点があって、

引っかかるところがあればOKだし、

話さずに聞いてるだけの参加もアリだそう。

 

比較的ゆるい集まりだと聞いていて、

今回のテーマ自体がたまたまわたしには

普段から関心の深いものなので、

10分という分量なら、

以前blogに書いたことがあるような話や

その場でおもいついたことを話しても

大丈夫かなと

わたしは事前準備を殆どせず、

場に臨んだんですが、f^_^;

他の皆さんは、

 

・駅伝という日本人特有のスポーツ

・横笛の響き

・厄年について

・身近に日本を感じること

・舞妓、芸妓のこと

 

といったテーマで、

事前に準備されたレジュメ、資料や写真などを

画面共有しながら

興味深いお話しをされていました。

 

それで、今日わたしが話したことなんですが、

室町時代に能楽を大成したと伝えられる

世阿弥の『花鏡』に出てくる

「初心忘るべからず」という言葉の

真意についてです。

 

この「初心忘るべからず」は、多くの人が

「最初に始めた頃の謙虚な気持ちや高邁な志を

忘れてはいけない」と受け止めているようで、

ネット上にもそのような内容の記事が

たくさん見つかります。

 

もちろん、その解釈も100%間違っているとは

言えないんですが、この言葉を書いた

世阿弥の本意は実はそこにはないようなのです。

 

世阿弥の原文をあたると、

是非初心を忘るべからずとは、

若年の初心を不忘して、身に持ちてあれば、

老後にさまざまの徳あり。

「前々の非を知るを、後々の是とす」と言へり。

と書かれています。

 

この、「前々の非を知るを、後々の是とす」とは、

「以前の失敗を知ることが後々の糧となる」という

意味ですから、

「初心忘るべからず」の「初心」とは言うなれば、

ダイヤモンドになる前の〝原石〟の状態であり、

「何もできなかった自分の未熟さを受け入れ、

それまでに経験したことがないことに対しても、

挑戦していける心構え」

とも言っていいでしょう。

 

つまり、これまでをまとめて書くとすれば、

「芸事を学ぶには、さまざまな段階があり、

新しい状態に直面した最初の状態が大事である。

これまで体験してきた総てのプロセスに価値があり、

それらを捨てずに記憶しておくことができれば

常に新しいことにチャレンジしていけるし

何もできなかった頃に立ち戻ってやり直したり、

それまでに学んできたことの総てを

自由闊達に組み合わせたりして、

より幅の広い芸が可能になる」

ということらしいのです。

 

そうした最初の未熟な自分の姿さえ忘れなければ、

中年になっても、老年になっても、

新しい試練に向かっていくことができるわけで。

 

この内容の詳細については、

以前にこちらのblog記事に書いたので、

読んでみて下さい。

 

 

こうした世阿弥の学習についての考え方は

誰にも出来ない特別な能力や技術を

外側から持って来て身につけていく

〝足し算の発想〟ではなく、

元々持っているものを大事にしながら

無駄な動きや不要な部分をそぎ落とし研磨していく

〝引き算の発想〟がベースにあるように感じるんですが

そうした指摘も含め、最近

『おのずから出で来る能』と題された本(写真)が

春秋社から出版されたようです。

 

今日、話す内容について準備しているときに

この本の存在を知ったので、

わたしもまだ手に入れて読んではいないんですが、

幸いネットでこの本の内容に触れた記事を発見し、

原文のままご紹介することにしました。

朝日新聞のサイトに掲載されたこちらの紹介記事

わかりやすくまとめられているので

ご覧になってみてください。

 

 

(引用ここから)

ーーーーーーーー

・そもそも世阿弥は<初心忘るべからず>とは言うが、<初心へ返れ>とは言っていないことに注意しなければならない。初心を忘れなければ初心へ返ることができる、初心に返れるように初心を忘れないようにする、そのように現代人は考えるだろう。

 

・だがこれは、話が逆なのだ。「返す返す、初心を忘るれば初心へかへる理を、よくよく工夫すべし」、初心を忘れると初心に返ってしまう、初心に返らないために初心を忘れないようにせよ、と世阿弥は言うのである。

 

・初心とは、かつての、未熟な時の自分である。初心を忘れるべきでないのは、今の自分を、ひいては、将来の自分の進みゆきを、的確に把握するためである。

 

・世阿弥によれば、人の成長とはそもそも二次元的に表象されるようなものではない。一本の線でないどころではない。線ですらない。育つとは新しいものが順次積み重なっていくことだ、これまでになかった何物かが付け加わり、大きくなっていくことだといったような、おそらく現代の我々が最も素朴にイメージする成長のモデルを、世阿弥はとらない。

 

・成長とは、<かつての自分>を保ちつつ、能力を伸張してゆくことである。その過程では、持っていた可能性をできるだけ毀損しないままで保つことが望ましい。なぜなら、<かつての自分>(初心)には、今の自分(後心)が捨ててしまう(であろう)可能性が胚胎しているのだから。

 

・時間をかけて身につけ、醸成したわざは、しっかりと身体に根を張り、やがて当人にとって<第二の自然>となるだろう。しかも世阿弥は、(・・・)役者の内にもともと備わっていたもの、いわば<内なる自然>を掬い取り、それを生かすような形で演技を組み立てることを企てた。子どもの身体という<内なる自然>が、時間を経て<第二の自然>へと変成する。いわば、自然のさらなる自然化である。


・自然なものは舞台の上にどのように現れるか。それが自然であればあるほど、作為を感じさせることなく、あたかもそれが一つの自律した生命を持ったかのように、「造作の一つもなく、風体心をも求めず、無感の感、離見の見にあらはれ」るのではないか。「風体心をも求めず」、すなわち、おのずから。理想の上演は<成就>である、つまり<おのずから出で来る>のだ、というのが世阿弥の表現論の核心をなすテーゼであった。自然を志向する世阿弥の教育論は、<成就>の土台を作る営みである。


・さらに、修練の体系それ自体が自然を志向する。世阿弥はいくつかの伝書で、<下地>つまり天性の素質について論じている。言うまでもなく、役者にとって<下地>は重要である。<下地>が整っていることは役者として身を立てていく上で大きなアドバンテージになるし、師匠の立場の役者も、後進の指導に当たっては素質の如何を見極めなければならない。

 

・むろん、<下地>だけですべてが解決するわけではない。<下地>の土台の上に<習道>がなされ、芸が磨かれていくのでなければならない。しかし、<習道>は<下地>に対して破壊的・強権的に作用するものであってはならない。

 

・<成就>を担うべき役者をどう育てるか。役者の成長もまた<おのずから出で来る>べきなのだ、そのように育てなければならない、そう彼は考えていたのではなかったか。<内なる自然>を<第二の自然>へと変えていく、そのプロセス自体がまた自然なものであるべきだ----世阿弥の習道論は、二重・三重の<自然化>の試みである。

 

・役者が成長するとは、〈見物衆の気色(けしき)〉との兼ね合いの中で、自己の進むべき道・採るべきやり方を──あるいは、進むべきでない道・採るべきでないやり方を──見出してゆくことである。このような〈成長〉の捉えは、〈付加・蓄積〉のモデルで表象されるそれとはいささか性格が異なるだろう。何かを外から〈付け加え〉たり、新たなものを〈積み重ね〉たりする必要はない。〈成長〉の種は、当人の内に既にある。

 

・なすべきなのは、それを通用するものに整えること、足したり乗じたりするのではなく、磨きをかけることである。

 

玉村恭『おのずから出で来る能/世阿弥の能楽論、または<成就>の詩学』より

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