盲点の存在を自覚し、見えないモノを見ようとすること
2022/02/26
2014年に書かれたblog記事なので、
少し前の情報なんですが、
というblog記事を最近再度読み返しました。
改めてナルホド!とおもうところがいろいろあり、
また、今まで読んで来て興味を覚えた
他のいくつかの記事などをご紹介し、
そこに書かれている内容をとっかかりにしながら
書いてみようとおもいます。
当塾は「教えない教育」を看板にしているんですが、
これを現実に実践していくためには、
何をどのように教えるのかという発想から脱却し、
〝場づくり〟の視点にシフトすることが欠かせません。
でも、この場づくりという言葉は、
なかなかイメージしにくいかもしれませんね。
タネを育てようとするときにたとえるなら、
何のタネなのか,どんな花が咲くのかという
コンテンツに注視するのでなく、
どんなタネが蒔かれてもいいように、
そのタネを育む土や、陽当たりなどまわりの環境、
コンテキストまで含めて見るといえば
わかりやすいでしょうか。
さまざまな体験を積み、
知識を増やすことももちろん大切なんですが、
その一方でわたしたち人間は、
経験値や得た情報が増えれば増えるほど、
自分に見えている世界だけが真実であると
錯覚しがちという困った習性もあります。
物事を理解することの大切さはよく言われますが、
わかったつもりになるというリスクもまた
同時に背負うことを忘れてはならないでしょう。
よって、以前にシェアしたことがある
という記事の主旨にもつながりますが、
リーダーとなる人には、
先入観のない子どもの視点を
持ち続けることが必要だし、
自分が見えている世界だけが
真実だとおもいこまないための〝仕掛け〟を
日常のなかにどう組み込むかが大事なんですね。
ところで、人間の目には、
見えない「盲点」があることを知っていますか?
この盲点というのは、生物学的な特質という話で、
誰にでももれなく例外なくあり、
見えないから「盲点」というわけですが、
なぜ、目が一つではなく二つあるのかという
理由にもつながるようにおもいます。
盲点について書かれたこちらの記事にも
紹介されているように、
人間の脳には、見えない盲点を覆い隠すべく、
補うための機能があるんですが、
人間って本当にスゴイですよね。
また、以前にこちらの記事で紹介した
「論語」にも出て来た話ですが、
そもそも〝知る〟ということは、
自分は何を知っていて、何を知らないか、
その「境目」を知ることであるわけですから、
いろいろなことがわかっている人ほど、
そのわかっているものと同じくらい、
いや、それ以上の
見えていない「盲点」があるという自覚とともに、
自分には見えないからといって諦めるのでなく、
「盲点」を見ようとする姿勢が
大事だとおもうのです。
では、具体的にどうすれば、
自分の「盲点」を見ることができるのでしょうか。
こちらの記事は、
わたしが結構頻繁にfacebookでシェアしているので、
ご覧になった方もみえるかもしれません。
女性装で話題となった東京大学教授・安冨歩さんへの
インタビュー記事で、インタビューが行われた
日付が記されていないのですが、
たぶん教授に昇格された2009年頃行われたもので、
まだ女性装前の安冨教授の
凛々しい写真をみることができます。笑
この記事は、安冨さんのこれまでの経歴や
現在の研究テーマ〝魂の脱植民地化〟の
概要を知ることができるだけでなく、
とっても重要な指摘をされていて、
参考になる視点がいっぱいあるんですが、
この記事の後半部分に〝盲点〟という言葉が
頻繁に出てきていて、
わたしはそこが一番大事だと感じました。
寺子屋塾で提供しているプログラムで言うなら、
らくだメソッドの主軸教科がなぜ算数なのか?
という問いともつながるんですが。
おそらく多くの大人にとって
小学校時代に習った算数の計算問題を解く行為は
非日常的な行為で、なかなか
積極的にやる意味を見出しにくいことでしょう。
現在在籍する塾生は8割の方が社会人なんですが、
なぜ大人が、小中学校で習った
算数/数学の問題を解くのか、
フシギに思う方もすくなくないとおもいます。
でも、算数はあくまでひとつのトリガーにすぎず、
算数のお勉強ができるようになることが
最終目的ではありません。
計算問題であれば、電卓やコンピュータの方が
ずっと早く正確に答えを出しますし、
人間が計算問題が早く正確に
解けるようになったからといって、
誰も褒めてくれないでしょうから。笑
算数の勉強ができるようになるということは、
あくまで学習したことの結果のひとつにすぎず、
そのこと自体に大きな価値などないのですが、
その中身、内容といったコンテンツだけでなく、
学習するプロセスや基盤、背景という
見えないコンテキストの部分が、
どんな影響や波及効果をもたらすかという部分に
目を向けていただきたいのです。
安冨さんは、前のインタビュー記事の中で、
「直接には関係のない対象に没入し、
おのずから自分のまずい部分、
無意識に入っていた部分が現れてくるようにする」
と書かれているんですが、当塾のプログラムが
算数の計算問題を解くという、
日常生活と直接関係のない非日常的行為だからこそ、
それを学習するプロセスにおいて、
何かを身につけていくというよりは、
10日ほど前に書いたこちらの記事でも紹介した
アンラーン、アンラーニングという
不要なものを引き剥がしていくといった
自分に見えない〝盲点〟を
あぶり出してくれる可能性があり、
そこにこそ価値があるのだと。
話があれこれ拡散したので、すこし整理します。
旧来、教育においては「何を教えるか」つまり
学習コンテンツに価値が置かれてきました。
でも、今日ではインターネットで世界中がつながり、
パソコンやスマホさえあれば、
自分が学習したいコンテンツに対して、
誰もがそれほどコストをかけずに
いつでもアクセスできてしまうため、
提供される情報そのものの持っている価値、
質や希少性という面では、
優位性を保てないようになっているわけです
教育においても、形として目に見える中味、
コンテンツよりも、
形を持たない、目には見えにくいコンテキストへ
視点のシフトを促す姿勢が重要ではないかと。
たとえば、自分に合った〝学び方〟を
どう身につければよいかとか、
いま学習していることと現実の生活とが
どうつながっていて、どう活かせばよいかとか、
さまざまな学習コンテンツ同士の関連性が
どうなっているのかとか、
そういういったところが、
これからの教育においては、
重要になってくるのではないでしょうか。
そんな姿勢を、寺子屋塾では、
〝算数を学ぶ〟から〝算数で学ぶ〟へ
と表現しているんですが、目の前のことに
つい埋没してしまいがちな日常だからこそ、
そうした日常のなかで
非日常的な行為をし続けようとすることには、
つねに自分をアウェイな環境に身を置くよう努め、
見えない「盲点」を
見ようとすることにも直接つながっているし、
大きな価値があるようにおもうのです。
リライトしました。
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