福澤諭吉「学問の本趣意は、読書に非ず」(「今日の名言・その16」)
2022/05/13
学問の本趣意は、読書に非ず、 精神の働きに在り。 ※福沢諭吉『学問のすゝめ』より |
今日は金曜なので、
読書関連の話題を投稿する日なんですが、
月曜に書いている「今日の名言」のスタイルを借りて、
福澤諭吉が読書について書いた言葉を
ご紹介しようかと。
『学問のすゝめ』にあるこの諭吉の言葉は、
とても短く、あまりに端的に過ぎるため、
その意味を正確に掴みかねるかもしれません。
ただ、ひとつだけ確実に言えることは、
本を読むことは
あくまで学問のひとつの手段にすぎなくて、
「学問=読書」ではないというのはもちろんのこと、
読むことで、その学問が
完結してしまうわけではないのです。
諭吉の言葉からはすこし離れますが、
わたしが最近痛感していることのひとつに、
何のために学んでいるか、
その動機がとても大切だということがあります。
問うて学び、そして学んで問う・・・
つまり、最初に、
自分の中にどんな〝問い〟があるかが
とても大切なのではないかと。
たとえば、モチベーションの高さ、低さということは
とくに教育のフィールドでは
よく問題にされるテーマといってよいでしょう。
でも、本を読むことに対する
モチベーションがどんなに高くても
そもそも、何のために本を読んでいるのか、
その動機が恐怖心から出発していたとしたら
どうでしょうか?
どんなにたくさんの本を読んでも、
その恐怖心が埋まらないのはもちろん、
むしろ、たくさん読めば読むほど、
その恐怖心そのものが
助長され、膨らんでいってしまいかねず、
モチベーションが高いからといって、
それは、必ずしも手放しで喜べることでは
ないようにおもえるのです。
社会の落ちこぼれになってしまわないために
本を読もうとしているのか、それとも
楽しく充実した人生を送るために
本を読もうとしているのか、ということです。
とくに、日本の学校教育の場合、
どれだけたくさんの知識を正確に記憶しているかが
問われることが少なくなく、
何のために読書をするのかということは、
ほとんど問われることはありません。
また、知識を得るために教科書や本を読んでも、
得た知識をもとに
自分の問い自体を熟成させていくことや、
自分の頭で考察し、体系づけてみる
というプロセスが
すっかり抜け落ちてしまうということが
起きてしまいがちだということもいえるでしょう。
つまり、本に書かれていることというのは、
すでに誰かが考えたことであって、
あくまで、自分とは異なる
他者の言葉の断片にすぎませんから。
諭吉は〝実学〟の人であったということも言われます。
教科書に書いてある知識は、死んだものですが、
目の前にある現実世界は、生きて動いていて、
教科書通りに展開するなんてコトは
まず起こりませんから、
書いてあることをただ頭の中に入れるだけでは
現実には使い物になりません。
つまり学問とは、
どんなにたくさんのことを学んでいたとしても、
それだけでは意味をなさず、
その学んだことを、
その人の生活や仕事において、
どこまで活用しようとしているかが
大事なのではないかと。
本をどんなにたくさん読んでいても、
もし、それを自分の頭に
単にストックするだけにとどまっているなら、
たしかに、物知りではあるかもしれませんが、
それを学問とは言えないし、
ただ、読書しただけに終わってしまうわけです。
まして、その他者の言葉をそのまま鵜呑みにしたり、
自分の辞書で解釈したりしたところで、
筆者が言いたいことを
正確に理解したことにはなりませんから。
さて、あなたは、
あなたの中にどんな〝問い〟がありますか?
その問いのために、
そして、その問いを深め、生かすために、
読書で得られたことをもとに、自分自身で考察し、
現実の生活の中で、活用しようとしていますか?