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「論語499章1日1章読解」より易経の内容に触れた2章

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「論語499章1日1章読解」より易経の内容に触れた2章

「論語499章1日1章読解」より易経の内容に触れた2章

2022/06/19

日曜は古典研究カテゴリーの記事を書いていて、

易経や仏典、論語などを採りあげています。

 

2019年の元旦から翌年5月13日まで約1年半の間、

全部で499章ある論語を1日に1章ずつ読んで

その内容をfacebookに投稿することを

日課としていたので、

その中からわたしが個人的に大事だとおもう章を

少しずつ紹介してきました。

 

今日は、論語と易経の関係を述べている章として、

今日は孔子が易を学ぶことについて述べている

述而・第七の16盤(通し番号163)と、

易経の雷風恆爻辞が登場する

子路・第十三の22(通し番号324)の2章を

併せてご紹介します。

 

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【述而・第七】163-7-16
[要旨(大意)]
孔子が易経を学び直すことへの期待を述べた章。
 
[白文]
子曰、如我數年、五十以學、易可以無大過矣。
 
[訓読文]
子曰ク、我ニ數年ヲ加エ、五十ニシテ以テ易ヲ學バシメバ、大過無カル可シ。
 
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、我(われ)ニ数年(すうねん)ヲ加(くわ)エ、五十(ごじゅう)ニシテ以(もっ)テ易(えき)ヲ学(まな)バシメバ、大過(たいか)無(な)カル可(べ)シ。
 
[ひらがな素読文]
しいわく、われにすうねんをくわえ、ごじゅうにしてもってえきをまなばしめば、たいかなかるべし。
 
[口語訳文]
先生が言われた。「わたしがもう少し年を重ね、50歳になったのちに易経を学び直せば、大きくやりすぎることはなくなるだろう。」

 
[井上のコメント]
この章は古注、新注で大きく解釈が異なり、またそのいずれでもない新説もあり、いつの時点で語られた言葉で、どう解釈するかが定まらないと言う点で問題が多い章とされています。ただ、別の角度から見れば、だからこそ、未知の可能性の詰まった面白い章と言うべきかもしれません。

 

易経64卦のひとつに沢風大過があるんですが、大過の「大」は、陰陽の「陽」を指すので、過(あやまち)といっても、失敗や誤ちの意味ではなく、やりすぎることを言っていると解すのが適切でしょう。


「易経を学び直すことへの期待を述べた」と書いた要旨は、古注にもとづいたものですが、新注では、五十を卒(終えるの意)の誤字として、「もしわたしにあと数年の寿命があったなら、易経を学んで大過なきを得るだろう」と解しています。つまり、この新注は、司馬遷の『史記』などに、孔子は晩年に易を研究して、『十翼』と呼ばれる易の注釈書を著したと記されているため、その記述に合わせたものなのですが、こんにちでは『十翼』の編者は孔子ではないという説が有力ですし、そもそも『史記』自体が論語の記述をもとに編まれて成立したものですから、いずれも事実を記したものとは言えないわけです。


また、本田成之、武内義雄、銭穆(せんぼく:1895~1990)らは古注、新注にも異を唱え、漢の時代の論語の異本『魯論』では「易」の字が「亦(また)」となっていることをもとにするなら、「わたしがもう少し勉強して五十まで続けたら、過ちも少なくなるだろう」という謙遜の言葉と解釈できるとしています。この説は、B.C.505年、孔子が48歳のとき、季氏の執事であった陽虎(あるいは陽貨)が季氏を支配し、季桓子を捕えようとしたとき、魯の大学者として評判の高かった孔子を召し出し顧問にしようとして、孔子に拒絶された。この頃の孔子はどこにも仕官しておらず、B.C.501年、孔子が52歳になってようやく魯の定公に仕えたことにも合っているから、この章の内容は、B.C.505年の時点で語られたものと主張しているようです。孔子の時代に易経はすでに存在していましたが、論語には易経からの引用は、わずかしか見られず(子路第十三の22番、通し番号324)、易経が孔子が生きていた時代に「四書五経」として儒教の経典に位置づけられていなかったことはもちろん、初期の孔子学団では、易経を正式な教科書としていなかったという説もあるので、かなり信憑性の高い面白い解釈ではあるように感じました。


ただ、易経を正式な教科書としていなかったことがそのまま、孔子が易を学んでいなかったということにはなりませんし、この章の解釈や孔子と易経との関わりについては、まだまだ未知の部分が沢山あるので、ひとつの解釈のみに結論づけず、引き続き研究テーマとして問い続けていこうとおもいます。
 
[参考]
易経『十翼』についてはこちらのページなどを参考にしてください。

 

【子路・第十三】324-13-22
[要旨(大意)]
恒心、不動心の大事さを述べた章。
 
[白文]
子曰、南人有言、曰、人而無恆、不可以作巫醫、善夫、不恆其德、或承之羞、子曰、不占而已矣。
 
[訓読文]
子曰ク、南人、言ヘル有リ、曰ク、人ニシテ恆ナクンバ、以テ巫醫ヲ作ス可カラズト、善イカナ、其ノ德ヲ恆ニセザレバ、或ハ之ニ羞ヲ承グト、子曰ク、占ハザルノミ。
 
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、南人(なんじん)、言(い)ヘル有(あ)リ、曰(いわ)ク、人(ひと)ニシテ恒(つね)ナクンバ、以(もって)テ巫医(ふい)ヲ作(な)ス可(べ)カラズト、善(よ)イカナ、其(そ)ノ徳(とく)ヲ恒(つね)ニセザレバ、或(あるい)ハ之(これ)ニ羞(はじ)ヲ承(そそ)グト、子(し)曰(いわ)ク、占(うらな)ハザルノミ。
 
[ひらがな素読文]
しいわく、なんじん、いえるあり、いわく、ひとにしてつねなくんば、もってふいをなすべべからずと、よいかな、そのとくをつねにせざれば、あるいはこれにはじをそそぐと、しいわく、うらなわざるのみ。
 
[口語訳文1(逐語訳)]
先生が言った。「南方のことわざに言われたこととは、つまり、人であって不動心がなければ、呪術医の仕事をしてはならないと。意味ある言葉だな。人格を安定させないと、時として恥をかくともいう。」先生が言った。「占わなければよろしい。」
 
[口語訳文2(意訳)]
南国の人の言葉に「恒に安定した心を持たない人は、巫女が祈っても誠意が足りないため、鬼神と通じることができず、その効験が顕れない。また医師が薬を投じてもその術が旨くないため効果が現れない」というのがあるが、これも誠に良い言葉だ。南国の人の言葉だけでなく、易にも「徳の実践に一貫性がなければ、いつも辱めを受けることになる」(雷風恒九三の爻辞)とあり、恒心なき者には占う以前の問題というか、そうした人間が未来を占ったところで仕方が無い(占わなくても同じだ)。
 
[口語訳文3(従来訳)]
先師がいわれた。――
「南国の人の諺に、人間の移り気だけには、祈禱師のお祈りも役に立たないし、医者の薬もきかない、ということがあるが、名言だ。また、易経に、徳がぐらついていると、いつかは、だれかに恥辱というお土産をいただくだろう、という言葉があるが、これもまちがいのないことだ」(下村湖人『現代訳論語』)
 
[語釈]
南人:南国の人。
言:「げん」と読んでもよい。言葉。ことわざ。
無恒:恒常性がない。移り気。気まぐれ。
巫医:巫と医者。古代では巫と医者は同じで、賤業とされていた。
作:「為す」に同じ。
善夫:いい言葉だなあ。文末・句末に置かれる「夫」は「かな」と読み、「~だなあ」と訳す。詠嘆の意を示す。
不恒其徳、或承之羞:『易経』雷風恒九三の爻辞で、移り気な人は、恥をかくことになる。「承」は「すすむ」とも読む。
不占而已矣:占ってみるまでもない。占わなくてもわかっている。「而已矣」は「のみ」と読み、「~だけだ」「~にすぎない」と訳す。
 
[井上のコメント]
この章は、後半に『易経』恒卦の九三爻辞「不恆其德、或承之羞」が登場していることが、物議を醸しているおおきな要因だとおもうのですが、変化の小さい恒心が大事なのは、占う人自身や病気を治療する医師というのが古注の解釈で、占う相手や医師にかかる病人のことについて言っているというのが新注の解釈のようです。


ただ、その点に関しては、どちらが片方だけを正しいと考えるよりは、両方が正しいと考えるのもありだとおもいました。なぜなら、世にはさまざまな占い師や医師が多く存在しているわけですが、その対象となるクライアントは、誰でもいいとはおもわないにしても、その総てを比較検討した上で選択することは現実には不可能なことで、結局は自分と同じ意識レベルの人のところに行くしかありません。つまり、クライアントが占い師や医師を選んだ時点で、その結果についてもほぼ決まっているんだと考えるのが妥当ではないかとおもうからです。


また、易経の扱いについては、述而第七の16番(通し番号163)との兼ね合いをどう考えるかという問題があるわけですが、その章のコメントとして書いたとおり、孔子学団では易経を教科書テキストに学んでいたという記述はなく、四書五経が儒教の経典となるのは後世のことですし、かつて易経の解説書『十翼』は孔子が編纂されたものだという説も、こんにちでは否定されています。この章では、「子曰、不占而已矣」と「子曰」が付け加えられていることも不自然さを助長していて、「不恆其德、或承之羞」以降は、後世の儒学者によって後から挿入されたもので、孔子自身の言葉ではないという見方まであるようです。

 

とはいえ、通し番号163のコメントで記したとおり、易経を正式な教科書としていなかったことがそのまま、孔子が易を学んでいなかったということにはなりませんし、そもそも易経は天然自然の理や人生哲学を論じたもので、占筮のテキストというのはひとつの側面にすぎず、「占わざるのみ(占ってもしかたがない)」という言葉は、けっして易経の価値を貶めているわけではないように感じました。

 

ちなみに、荀子も「善く詩を爲(おさ)むる者は說かず、善く易を爲むる者は占せず、善く禮を爲むる者は相せざるは、其の心は同じなり(詩をよく修める者はむやみに解説したりせず、易をよく修める者はむやみに占ったりせず、礼をよく修める者はむやみに儀式の介助役を引き受けたりしないが、これらの趣旨もまたすべて同一なのである)」と言っていて、孔子の精神波動に近い言葉だとおもいます(『荀子』大略篇第二十七の67)。

 

九去堂の解釈も興味深いのでこちらのページを参照してみて下さい。


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