米光一成「自分について考えるためには他を観察せよ」(今日の名言・その27)
2022/07/18
自分が自を考えるとき、 歪んだレンズを 歪んだレンズで観察するような 歪みの拡張が進むので、 自分が自を考えるためには、 他を観察しなければならない。
※米光一成さんのことば ご本人のtwitterアカウントはこちら |
6月下旬はこのblogでずっと観察力について
書いていたんですが、
今日のこの記事も、その続編になりそうです。
米光一成さんは90年代に
「ぷよぷよ」「バロック」等のヒット作を生み出した
ゲーム作家といえば、ご存知の方も多いでしょう。
近年では、ゲーム製作についての著作はもとより、
ゲームクリエイターの立場から文学作品を論じたり、
「宣伝会議」の「編集・ライター養成講座」で
「発想力養成トレーニング」講師を務められるなど、
ライター、教育者として幅広い活動をされています。
2018年10月で投稿がストップしていて
残念ながら現在は発信されていないようですが、
名言がとても多いので、以前にも旧ブログに
・書くこと
・教えること
・自分との対話・内省
・正しさ暴力・信念の罠
・学びオタクからの脱却
・場づくり
・インタビュー
・チームビルディング
というテーマ別に編集して紹介したことがあり、
こちらの記事も是非ご覧ください。
さて、人間にはどうも、
「自分のことは自分が一番よくわかっている」という
おもいこみがあるようで、
「人は自分のみたいものだけみている」と
観察を妨げるさまざまな〝認知バイアス〟の存在に
言及されていました。
次の写真は『観察力の鍛え方』に巻かれた帯の裏です。
冒頭に紹介した米光さんの名言も、
ひとことで言えば、観察はいかに歪むのかという
〝認知バイアス〟のプロセスを言っているわけで。
自分を変えようと一所懸命頑張っているのに、
自分で自分を批判したり褒めたりという
ブレーキとアクセルを同時に踏むような、
エネルギーばかり浪費してしまうことを
延々繰り返していて、
なかなかおもうように成果を上げられない人も
少なくないように見受けられます。
また、そうした自分自身の
あまりの変わらなさ加減に嫌気が差し、
落ち込んでいる人を見かけることもあるんですが、
結局のところ、そうした人たちも、
自分の〝あまりの変わらなさ加減〟を捉えている、
「自分の眼」自体を無条件に疑っていないのです。
「自分の眼」で「自分の眼」を
じかに見るなんてことはできないはずで、
大脳思考が生み出した錯覚にすぎません。
自分自身のことをダメだと言いつつ、
その自分を対象として観察している自分の「眼」や
その自分を対象として判断している
自分という「主体」についてはダメじゃないって
矛盾ですよね?
たぶん、「そもそも〝自分で自分のコトを考える〟って
どういうこと? そんなことができるの?」
という問いが浮かばないのでしょう。
だから米光さんは、そうした人たちは、
「観察力」以前の問題として、
自分で自分のことを考えようとしたところで、
実際には、
「歪んだレンズで歪んだレンズを観察するくらい
歪んだ像でしか自分を捉えられていないんだ」という
〝自覚〟をもつことが、まず必要なんだと
言われているんだとおもうんですね。
もし、自分で自分のコトを考えることが、
歪んだレンズで
歪んだレンズを観察するようなものだとわかれば、
自分の視野を広くしたり、視座を変えたり、
見ることについての解像度を上げていったりといった、
別のことにエネルギーを注いだ方が
得策なんだときっと気づけることでしょうし。
わたし自身も、「自己観察が大事!」ということを
教室でも常々口にしているんですが、
自分がどういう思考パターンに
嵌まってしまっているのかを自分で知るというのは、
けっして容易なことではありません。
結局、自分で自分をありのままに知るには、
自分の思考枠からいったん外に出なければならず、
そのことがいかに一筋縄でいかない、
難易度の高い作業であるかを
自覚していればこそであるわけで。
たとえば、らくだメソッドの学習において、
学習記録表に、やったプリントの番号、
かかった時間、ミスの数のみ記入するようにして、
そこに書かれた事実データに基づいて
対話する姿勢を何より大切にしています。
詳しくは、こちらの記事などをご覧頂きたいんですが
歪んだレンズ越しに自分を見ていても、
自分の想像力やイメージ、おもいこみを
どんどん膨らませてしまうばかりなので、
自分の足跡を学習記録表にいったん外在化させて、
事実ベースで捉えられるようにしているわけで、
自己認識の歪みに陥ってしまうことなく
観察力の解像度を上げていくための
具体的方法のひとつといっていいでしょう。
また、米光さんは、
「自分が自を考えるためには、
他を観察しなければならない。」
と、この言葉を結んでいますが、
これは、室町時代に能を大成した世阿弥が、
芸事における極意としてのこした言葉、
「離見の見」につながるんじゃないかと。
離見・・・つまり、離れたところから見る、とは、
自分から離れたところに、
自分を見る「もう一人の自分」を置くことですが、
これは極意であって、誰にでもすぐできるような
簡単なことではありません。
「自分を客観視する」と言い換えて
よいとおもうのですが、
既に自分の視界に入っている身近な人だけをもとに
自分と比べて一喜一憂していても意味がないので、
数え切れないほどたくさんの他者をつぶさに観察し、
ようやく獲得できるような他者目線を
自己観察の判断軸に据えるということではないかと。
最近このことに触れた米光さんの記事を見つけたので、
是非ご覧になってみてください。
人と比べて落ち込まないために(米光一成の表現道場)
この記事の最後に引用されている
次の言葉も名言ですよね〜
調べなければ無知、比較しなければ無理、
他人ごとでは無力
もし、自分自身をずっと見続けている状態が
間断なく持続するようになって、
なおかつ、判断軸となる「もう一人の自分」を
獲得しようと常に努めているなら、
自己観察の解像度はきっとぐっと上がることでしょう。
ちなみに、7/15の記事で書いた
吉本隆明さんの『15歳の寺子屋 ひとり』という本を
100回繰り返して読むという話も
この話につながる内容なので、
未読の方はぜひご覧になってみて下さい。