寺子屋塾

易経と教えない教育

お問い合わせはこちら

易経と教えない教育

易経と教えない教育

2022/08/14

日曜は古典研究カテゴリーの記事を投稿していて、

易経や仏典、論語などをとりあげています。

 

今日は先回の易経初級講座で

山水蒙について学んだことがきっかけに

易経と教えない教育の関連について

気がついたことがあり、

それについて書いてみようかと。

 

まずは、易経の基礎的な話を導入として少しだけ。

 

「太極図」というんですが、
つぎのような図形をみたことがあるとおもいます。

「この世界は陰(黒)と陽(白)という

2つの異なるエネルギーの組み合わせでできている」

というのが、中国の人々の世界観の原理なんですね。

 

 

陰と陽に分かれた(両義)が

それぞれまた

老陰 少陽 少陰 老陽 の四象に分かれ、

その四象がまたさらに陰陽に分かれたものが、

2×2×2=8

八卦(はっか)と呼ばれるものです。

 

これを2つ重ねて上卦と下卦とし、

易には8×8=64の卦があります。

 

易とは、こちらの記事にも書いたように、

変化(change)という意味ですから、

昔の中国の人々は、

この世界には64のシチュエーションがあり、

その間を常に変転しながら

動いているんだと解釈したわけですね。

これまでにも64卦については、いくつか記事を

書いていますのでご覧になってみて下さい。

臨と観・・・「見る」もいろいろ 

見たくないのはそこに関心があるから(火沢睽)

卦辞「雷山小過」の解説

 

それで今日は64卦の4番目「山水蒙」についてです。

まずは卦辞の原文を読んでみましょう。

 

[卦辞、読み下し文、かな文、直訳]

蒙亨。匪我求童蒙。童蒙求我。初筮告。再三涜。涜則不告。利貞。 
 
蒙(もう)は、亨(とお)る。我(われ)童蒙(どうもう)を求(もと)むるにあらず。童蒙来(きた)りて我(われ)に求(もと)む。初筮(しょぜい)は告(こく)す。再三(さいさん)すれば瀆(けが)る。瀆(けが)るれば告(つ)げず。貞(ただ)しきに利(り)あり。

 

もうは、とおる。われどうもうをもとむるにあらず。どうもうきたりてわれにもとむ。しょぜいはこくす。さいさんすればけがる。けがるればつげず。ただしきにりあり。
 
山水蒙の時、通じる。教える側が生徒を求めるのではなく、生徒が先生を求めて教えを乞うのが本来の姿である。第一回目の初筮は正しい答えを告げるが、何度も何度も占うと、疑う心によって天が正しい答えを告げない。貞正であればよい。

 


この卦は上卦が艮(山)で下卦が坎(水)です。

 

山中に清々しい水が湧き出ています。

前にどっしりとした大きい山があり、

その麓では水が流れているけど、

その水の源を前の山が遮っていて見えません。

 

つまり、濁ることも涸れることも知らない状態

というところから、

将来が未知数で、善悪など分別がつかない

幼児、子どもを象徴し「蒙」と名づけられました。

 

「無知蒙昧」の蒙ですから、

何かが覆いかぶさって見えない状態を言います。

 

物事がよくわからない、よく見えない子どもを

童蒙と言いますが、

年齢に関わりなく、物事がよくわからない人も

童蒙かも知れません。

 

まわりから啓蒙を受け、山をひとつ超えたとしても、
人生には超えなければならない山が

次々とやってくるものです。

 

そんなときには、

自分の頭の中だけで考えていても限界があるので、

信頼できる師に問うて何らかの導きを得なさいという

暗示とも受け止められますね。

 

それで、わたしが山水蒙の卦辞を読んで

「ナルホド!」とおもったのは、

教える側が生徒を求めるのではなく、

生徒の側から師を求めて教えを請うのが

本来の教育のあり方だと書かれているところです。


つまり、教育とは「教えてやるから来たまえ」と

先生から生徒を求めていくものではなく、

生徒の側から師を求めるのが順序であると。

 

生徒から質問する方が先であり、

学ぶ側の意欲に基づく自主性と謙虚さが

教育の原点には何よりも必要であると。

 

逆に言えば、教えを求めてもない人に、

教えることは教育とは言えないわけですから、

まさに、これって〝教えない教育〟で

問うことからはじまる、

インタビューゲームなんですね。笑

 

また、卦辞に「初筮は告す。再三すれば瀆る。

瀆るれば告げず」とあるのは、

初めて占ったときはちゃんと答えるけれども、

同じことを何度も占うと

答えてはもらえなくなりますよという意味です。

 

これを教育者と学習者の関係に置き換えると、

学習者からの質問には真摯に応じるけれど、

同じ質問を何度もくりかえしたり、

何度教えても忘れてしまったりというのであれば

学ぶ側が誠実さを欠いているわけですから、

そんなときは、教えない方がよいとなりますね。


生徒の側から言えば、教えを求めるのには

筮を執って神に問うがごとくの誠実さで、

求めるべきだと戒めているようにおもえます。

 

いずれにしても、学問においては、
教える側にも教えられる側にも

双方に信頼関係がないと成り立たず、

また教える側がやさしすぎても厳しすぎても、

真に相手の為にはならないことでしょう。

 

まさに自戒すべき言葉だとおもいました。

 

易経の初級講座第4回は8/21(日)開催です。

詳細はFacebookイベントページをご覧下さい。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
月曜:今日の名言
火曜:生活デザイン、ヘルス関連
水曜:つぶやき考現学
木曜:未来デザイン、経営ゲーム、
   ファシリテーション関連
金曜:読書関連、本の紹介
土曜:教室1週間をふりかえって、らくだメソッド
   塾生のblog紹介など
日曜:古典研究(易経・仏典・論語など)

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。