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誰能出不由戸、何莫由斯道也(「論語499章1日1章読解」より)

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誰能出不由戸、何莫由斯道也(「論語499章1日1章読解」より)

誰能出不由戸、何莫由斯道也(「論語499章1日1章読解」より)

2022/10/09

日曜は古典研究カテゴリーの記事を投稿しています。

 

先々週に書いた記事では、古典といっても、

比較的新しい時代の幕末から明治にかけて活躍した

福澤諭吉をめずらしく取りあげてみたんですが、

先週は毎日立てている日筮1ヶ月間の

ふりかえりについて書きましたし、

易経、仏典、論語を中心に取りあげてきました。

 

これからは易経、仏典、論語以外も

時折取りあげていくつもりですが、今日は論語です。

 

2019年の元旦から翌年5月13日まで約1年半の間、

全部で499章ある論語を1日に1章ずつ読んで

その内容をFacebookに投稿することを

日課としていました。

 

そのことについて書いたふりかえり文を

2021年11月半ば頃に

3回にわたって紹介したことがありますので、

未読の方は次の記事をまずご覧ください。

論語499章1日1章解読ふりかえり(その1)

論語499章1日1章解読ふりかえり(その2)

論語499章1日1章解読ふりかえり(その3)


雍也篇については、

2月に冉求との対話について書いた
雍也第六の10番(通し番号129)を、

また、7月に中庸の徳について述べている

雍也第六の27番(通し番号146番)

紹介したことがありましたが、

今日も雍也篇からの1章(通し番号134番)を

ご紹介します。

 

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【雍也・第六】134-6-15
[要旨(大意)]
わたしの実践はけっして特別でなく、自然な道筋に沿ったものなのに、どうしてそうしないのか孔子が不思議がっている。
 

[白文]
子曰、誰能出不由戸、何莫由斯道也。
 
[訓読文]
子曰ク、誰カ能ク出ヅルニ戸ニ由ラザラン、何ゾ斯ノ道ニ由ル莫キヤ。
 
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、誰(たれ)カ能(よ)ク出(い)ヅルニ戸(こ)ニ由(よ)ラザラン、何(なん)ゾ斯(こ)ノ道(みち)ニ由(よ)ル莫(な)キヤ。
 
[ひらがな素読文]
しいわく、たれかよくいずるにこによらざらん、なんぞこのみちによるなきや。
 
[口語訳文]
先生がいわれた。「(家から)外に出る時には誰もが門戸を通ってゆく。それなのに、なぜ人々はこの道(仁徳の道)を通ろうとしないのだろう。」
 
[井上のコメント]
この章については、多くの人が「人間を人間たらしめる仁徳の道を軽視する人が多いことを孔子が嘆いている」という解釈をされていてだいたい共通しています。たしかにそういう世相を嘆く気持ちが孔子にはあったかもしれません。でも、孔子はそもそも「仁とは何か」を言葉で説明したり、アタマで分からせたりするようなことを善しとはしていませんから、門人たちにお説教したくてこう述べたわけではなく、また、お説教することで門人たちが何とかなるというふうにも考えていなかったのではないかとおもいました。
以前わたしは、論語に書かれている内容に対して、とてもお説教臭い印象がありましたが、それは孔子自身がお説教臭い人だったからではなく、論語を解釈し講釈してきた後世の儒学者や研究者がお説教臭かっただけだったといまはおもっています。よってこの章は、「わたしのやり方(仁徳の道)は、自然な道筋に沿ったアタリマエのことなのに、みんなはそうした普通のことをなぜ実践しようとしないのだろう」とただ不思議がっているという風に訳してみたのですが、いかがでしょうか。
「学問に王道なし」と言われるように、結局は何事も日々の地道な積み重ねを経ずして成ることなどあり得ないのに、それをやろうとせずして「どうしたらすぐお金が稼げるようになるのか」とか、「どうしたら立身出世できるのか」などノウハウばかりを知ろうとしたり、基礎を学ばずしていきなり奥義を知ろうとするような輩が孔子の時代から少なくなかったのかもしれません。

 


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