矢は行くべきときに勝手に行くから行かせなさい
2023/03/15
昨日の記事に書いた、
「性格、好み、思考力や知性が
大脳ではなく心臓に宿っていた」なんて、
眉唾な話ではあるんですが、
なかなか読み応えあったでしょう?
もちろん、「信じられない!」っておもわれる方も
少なくないでしょうが。
こんにち、わたしたちは、
科学的知見で測定できていることだけが
正しいというふうにおもいこんでいますが、
脳のはたらきが
医学や生物学ですべて解明できているかというと、
実は、そうでもないんですね。
たとえば、
「人間になぜ意識があるのか?」という問いや、
「人間の意志はどこにあるのか?」という問いは
最先端の脳科学をもってしても
まだ解明されたわけではないので。
以前もこちらの動画を紹介しました。
また、脳を持っていない単細胞生物の粘菌に
おそるべき知性が存在するという話も
仏教的世界観と絡めながら書いたことがあるので、
未読の方はご覧ください。
実は、わたしたちの身体には
大脳が持っているとおもわれているよりも
もっと優れた能力が眠っているんだということを
裏付ける話がありますので、今日はそれを。
『仕事ができるとはどういうことか?』については、
以前にも次の記事
闇雲に問題を数こなせばわけってわけじゃない で
内容を紹介したことがあるんですが、
10日ほどまえに投稿した
ご紹介した、記念すべき第1回めとして投稿した
オイゲン・ヘリゲルの名言 の内容に関連することを
詳しくコメントされている箇所がありましたので、
その部分を以下にご紹介しようとおもいます。
(引用ここから)
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山口 オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』は読まれたことはありますか?
楠木 いや、ないです。
山口 オイゲン・ヘリゲルというドイツの哲学者が大正時代に日本にやって来て、現在の東北大学で哲学を教えた。その彼がドイツに戻って書いた本が『弓と禅』です。彼は新カント派の哲学者なんですが、前々から禅に対して一方ならぬ興味があって、ぜひ禅の勉強をしたいということで手を挙げて日本にやって来た。それで東北大学の教授になって、禅の勉強をしたいと言ったときに「禅を勉強するんだったら弓をやったらいい」と言われたので、当時日本の弓の世界の第一人者で「弓聖」といわれていた阿波研造という人がちょうど東北の人だったので、その人に弟子入りするんですね。
ヘリゲルはもともとオリンピックの射撃の選手でもあったので、弓も射撃と同じようなもので物理法則がすべての世界だと思っています。確かに的に当たるか当たらないかは物理の問題であって、どれだけの初速でどういう角度で撃ち出せば的に当たるかは解析的に厳密な答えが出せます。だから弓も同じようなものだろうと思っていたわけですが、これがまったく異なることに非常に戸惑うわけです。
まず弓の修行においては矢を持たせてもらえない。弓の弦を引く練習だけをずっとやらされるんです。力を入れようとするとパシッと叩かれて「力を入れないで引きなさい」と。要するに呼吸の仕方をマスターさせるということなんですが、ヘリゲルからすると、もう意味がわからない。物理と呼吸ってなんの関係があるんだと。確か1年ぐらい、まず弦を引く練習だけをひたすらやらされるんです。
楠木 矢を持たずにですか。
山口 矢を持たずにです。ある日、弓を引けるようになったと言うので、じゃあ矢をつがえていいよ、打ちなさいと言われるんですけど、「目の前の藁束を撃て」と阿波研造は言うんです。本人は的を撃つほうが練習になると思っているのに、「ダメだ、藁束を撃て」と言われる。バスッと撃つとまたダメと言われる。何がダメかというと「あなた、撃とうと思って撃ってるでしょ。そうではなく、矢に行かせなさい」と。
僕も読んでいてここら辺からだんだん混乱してくるんですけど「矢は行くべきときに勝手に行くから行かせなさい」と。「笹の葉に積もった雪が、どこかでサッと滑り落ちる、そういうふうに矢に行かせなさい」と言われて、それでまた目の前の藁束をバスッと撃つと「まだ自分で撃ってるでしょ」と言われる。それがまた1年も続いて 「もう俺、日本での任期が終わるんだけどな......」と思いながらずっとやっていったら、バスッと撃ったのを見て阿波研造がある日ペコリとお辞儀をするんですね。その瞬間に「今のはあなたではなく、〝それ〟が撃ちました」と言う。見ているとわかるらしいんです。それでやっと弓矢を的に向かって撃たせてもらえるようになる。そうなるとどうしても的に当てようとしますよね。当たり前ですけど。すると直前にやってた「矢に行かせる」ということがなかなかできない。ということで今度は「的に当てようとして撃っちゃいけない」と言われるんですね。「あなたが的に当てようとしなくても、的に当たるように勝手に矢が出ていくから、矢に行かせなさい」と言うのを聞いて、ついにヘリゲルが爆発するんです。「そんなこと言うんだったら、先生は目隠しをしても当てられるに違いないでしょうね」と言ってケンカ腰になって迫った。
すると阿波研造が「こういう曲芸みたいなことは、本来は嫌いなんですが、そこまで言うんだったらお見せしましょう」と言って、夜半に道場へ来いと言うんですね。ここからがクライマックスなんですけど、真冬の夜半、弓道場にヘリゲルと阿波研造の二人がいて、火鉢の中でお湯がシュンシュン沸いている。東北の真冬なのでものすごく寒いんです。
的は漆黒の闇の中に沈んでいるんですが、阿波研造が弓をつがえて撃つと、遠くから「バシッ」と音がして「あ、当たったな」と。それからもう1本撃つと、今度は奇妙な破裂音がするんですね。何か変な音がしたので2本目は外れたかもしれないとヘリゲルが見にいってみると、1本目の矢が的のちょうど真ん中にあって、2本目の矢が1本目の矢を割いて的に当たっていたというんです。
これを見た瞬間にヘリゲルの認知のシステムが変わるんです。自分の思っていた世界観とまったく違う何かがある。そうしてヘリゲルはヨーロッパに帰ってから「西洋的な近代合理主義の考え方とまったく違う、まず効果が特定されない、トレーニングと成果の関係が説明されない、何かできるようになったときにはもうそれ以前には戻れないという、そういう世界がある」ということを『弓と禅』という本に書いたんです。
※楠木建・山口周『「仕事ができる」とはどういうことか』(宝島社)
第4章 センスを磨く(P.217〜221)より
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