顔淵問仁、子曰、克己復禮爲仁(「論語499章1日1章読解」より)
2023/04/20
今日は久しぶりに論語499章1日1章読解から。
わたしは学生時代は漢文が苦手で、
それ以後も論語はほとんど
読んだことがありませんでした。
それでも、毎日少しずつ学んで行く
寺子屋塾方式でアプローチすれば、
499章ある論語も、1日に1章ずつ読めば
499日あれば終えられますから、
2019年の元旦から翌年5月13日まで約1年半の間、
全部で499章ある論語を
1日1章ずつ読んで
その内容をFacebookに投稿することを
日課としていたことがあります。
それで、このblogでは、
その中からわたしが個人的に大事だとおもう章を
少しずつ紹介してきました。
そのことについて書いたふりかえり文を
昨年11月半ば頃に3回にわたって
ご紹介したことがありますので、
未読の方は次の記事をまずご覧ください。
また、これまで紹介してきた章についてなど、
論語関係の記事をご覧になりたい方は
タグ「論語」をクリックして頂ければとおもいます。
今日は、孔子が顔淵から仁について問われた
顔淵第十二の1番(通し番号279)をご紹介します。
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【顔淵・第十二】279-12-1
[要旨(大意)]
孔子が顔淵から問われ仁について語っている章。
[白文]
顔淵問仁、子曰、克己復禮爲仁、一日克己復禮、天下歸仁焉、爲仁由己、而由人乎哉、顔淵曰、請問其目、子曰、非禮勿視、非禮勿視、非禮勿言、非禮勿動、顔淵曰、囘雖不敏、請事斯語矣。
[訓読文]
顔淵仁ヲ問フ、子曰ク、己ニ克チテ禮ニ復ルヲ仁ト爲ス、一日己ニ克チテ禮ニ復レバ、天下仁ニ歸ス、仁ヲ爲スハ己ニ由ル、人ニ由ランヤ、顔淵曰ク、其ノ目ヲ請ヒ問フ、子曰ク、非禮視ル勿レ、非禮視ル勿レ、非禮言フ勿レ、非禮動ク勿レ、顔淵曰ク、囘、不敏ナリト雖モ、請フ斯ノ語ヲ事トセン。
[カナ付き訓読文]
顔淵(がんえん)仁(じん)ヲ問(と)フ、子(し)曰(いわ)ク、己(おのれ)ニ克(か)チテ礼(れい)ニ復(かえ)ルヲ仁(じん)ト為(な)ス、一日(いちじつ)己(おのれ)ニ克(か)チテ礼(れい)ニ復(かえ)レバ、天下(てんか)仁(じん)ニ帰(き)ス、仁(じん)ヲ為(な)スハ己(おのれ)ニ由(よ)ル、人(ひと)ニ由(よ)ランヤ、顔淵(がんえん)曰(いわ)ク、其(そ)ノ目(もく)ヲ請(こ)ヒ問(と)フ、子(し)曰(いわ)ク、非礼(ひれい)視(ミ)ル勿、非礼(ひれい)視(み)ル勿(なか)レ、非礼(ひれい)言(い)フ勿(なか)レ、非礼(ひれい)動(うご)ク勿(なか)レ、顔淵(がんえん)曰(いわ)ク、回(かい)、不敏(ふびん)ナリト雖(いえど)モ、請(こ)フ斯(こ)ノ語(ご)ヲ事(こと)トセン。
[ひらがな素読文]
がんえんじんをとう、しいわく、おのれにかちてれいにかえるをじんとなす、いちじつおのれにかちてれいにかえれば、てんかじんにきせん、じんをなすはおのれによる、ひとによらんや、がんえんいわく、そのもくをこいとう、しいわく、ひれいみることなかれ、ひれいきくことなかれ、ひれいいうなかれ、ひれいうごくなかれ、がんえんいわく、かいふびんなりといえども、こうこのごをこととせん。
[口語訳文]
顔淵が仁について質問した。先生(孔子)が言われた。「自己に打ち克って礼に復帰することが仁の道である。たとえ一日でも、自己に打ち克って礼の規則に立ち返ることができれば、天下はその仁徳に帰服するだろう。仁の実践は自己に由来するので、他人に頼って実践することはできない。」。顔淵がさらに質問をした。「どうか、仁徳の具体的な実践項目について教えてください。」。先生が言われた。「礼法から外れて見てはいけない、礼法から外れて聴いてはいけない、礼法から外れて発言をしてはいけない、礼法から外れて行動をしてはいけない。」。顔淵が言われた。「わたしは至らない者ではありますが、先生の言葉を実行しようと思います。」。
[井上のコメント]
論語では、さまざまな門人たちが孔子に仁について問うていますが、これまで読んで来たとおり、孔子の答は人によって異なり一つではありません。この章は孔門の一番弟子とも目された顔淵からの問いに対してですから、孔子も最大限の配慮をもって、精一杯言葉を尽くしているように感じられ、とても重要な章だとおもいました。
それだけに、この章に対する解釈もさまざまに分かれているようで、孔子の真意を汲み取っているようにはおもえないものもあり、ひとつのポイントは、「克己復礼」と記された言葉の解釈にあるようにおもいました。たとえば、「克己心」という言葉は、今日の日本でも「己に打ち勝つ」という意味でよく使われるのですが、そもそもこの「己に打ち勝つ」という言葉がいったいどういう意味なのかと問うと、なかなかハッキリとは定まっていないようにおもうからです。
孔子は、述而第七の1番(通し番号148)で、「子曰ク、述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム、竊ニ我ガ老彭ニ比ス。(自分は古くから伝わるものを祖述しているだけで、それを自分勝手に作り替えたり、新しいものを創ろうとしているわけではない)」と記していたとおり、新しい学説を唱えようとしていたわけではなく、人間本来の姿に立ち戻ることを大事にしていたわけですから、「仁ヲ爲スハ己ニ由ル、人ニ由ランヤ」というのは、他者や外側にある社会の規律に自分を合わせようとする姿勢ではなく、自らの内在するものに自覚的になることが大切だと言っていると考えてよいでしょう。
ただ、自ら内在するものとひとくちに言っても、いまの自分で意識できている部分(釈迦の五蘊観「色受想行識」の〝識[ヴィニヤーナ]〟)だけにフォーカスしても片手落ちで、心理学で言うところの無意識領域、五蘊観「色受想行識」での〝行[サンカーラ]〟を含めた人間の精神構造全体を踏まえた上での自覚が求められるようにおもうのですが、このテーマについてはこれ以上深入りすると本章の焦点からは逸脱してしまうことになるため、日を改めて詳しく書いてみようとおもいます。
子罕第九の10番(通し番号215)に「之ニ從ハント欲スルト雖モ、由末キノミ(教えについていこうとおもうのですが、どうすれば良いのかは分からないのです)。」とあったように、その章との前後関係は不明ですが、本章の孔子の言葉を顔淵がどこまで理解できたかは疑問で、顔淵がなぜ若死にしなければならなかったのかという問いととともに、継続して考えていく必要があるようにおもいました。
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