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インタビューゲームでなぜ人生が変わるのか(番外編1・内田樹『先生はえらい』)

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インタビューゲームでなぜ人生が変わるのか(番外編1・内田樹『先生はえらい』)

インタビューゲームでなぜ人生が変わるのか(番外編1・内田樹『先生はえらい』)

2023/05/10

5/7から書き始めた

インタビューゲームを100回やったら

なぜ人生が変わってしまうのかを

考察する記事は、

昨日投稿した総括の記事で

終えるつもりでした。

 

というのは、インタビューゲームというのは、

わたしにとっては

30年やり続けてきているプログラムですから、

それこそ、インタビューゲームの話題であれば、

三日三晩ずっと語り続けても

時間が足らないほどのもので、

書ける話題は、さまざまな切り口から

いくらでも出てくるということは

自分で十分過ぎるほどわかっていましたから、

書き始める前から

敢えて3回という制約を設けた次第です。

 

ただ、3回で書いた記事を読みなおしてみると

正直なところ、密度が濃すぎるというか、

言葉が足りないところが

少なくないなぁという印象は否めません。

 

もちろん、そもそも前提として、

記事を読むだけで、

わたしの伝えたいことが

読まれた方に正しく伝わるということは

ほぼあり得ないことだとおもうんですが、

まあ、それを言ってしまうと

身もフタもないので。笑

 

おそらく今後もこのblogには、

インタビューゲームについての記事は

繰り返し何度も書き続けていくことでしょうし、

足らないところはそうした機会に

補足すればいいのですが、

せっかくこうして書き始めたテーマについて、

間を置いて昨日までの流れを止めてしまうよりは

今のこのタイミングで

もうちょっと補足しておくことにしました。

 

いつも、寺子屋デイや

インタビューゲーム4hセッションのときには、

参加された方にインタビューゲームの

ルール説明のシートを配布しているのですが、

そのルールの最後には、

インタビューゲームのプログラムに関連する

推薦参考図書リストを載せています。

 

それで、その推薦参考図書の1冊に、

内田樹さんの『先生はえらい』という本が

あるんですが、

インタビューゲームの参考図書として

この本をなぜリストアップしているのかについて

書いてみようかと。

 

一昨日書いたその2の記事の中に、

「個人幻想」と「対幻想」と「共同幻想」とは

次元が異なるものなので、

個人幻想の側に引き寄せてしまうのでも、

かといって、共同幻想の側に

呑み込まれてしまうのでもなく、

「自分が聞きたいこと」という個人幻想や、

「このようなシチュエーションであれば、

こういうことを聞くべきだ」という共同幻想を

いったん脇においた上で、

目の前の人とちゃんと向き合って

「聞くこと」を実践するということです。

というところがありました。

 

つまり、

インタビューゲームとは、

対幻想的コミュニケーションの実践である

というのは、いったいどういうことなのか

もうすこし補足説明が必要なように感じたんですが、

『先生はえらい』のなかに、

そのことの詳しい説明にもなっているように

感じられた部分があるので、

そのなかでも一番象徴的とおもわれる部分を

以下に引用してみます。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・・・じゃあ実際に、あなたが聞き手を前にして、過去を回想している場面を想像してみてください。

 

「あのさ・・・」とあなたが過去の出来事を語り出しました。聞き手があなたにとってどうでもいい相手の場合を考えてみてください。

 

どうですか?あなたの回想はあまり熱が入りませんね。だって、その人にどう思われようと、あまり関係ないから。

 

そういう場合に、あなたが語って聞かせるのは、たいていこれまでに何十回も繰り返した「いつもの話」です。自慢話でも、笑い話でもいい。とにかくある種の効果があることが経験的にわかっているので、何度も使い古した「できあいの物語」。そういう話はいくら繰り返しても、あなた自身には何の発見もありません。テープレコーダーで同じ曲をエンドレスで繰り返しているようなものですからね。

 

みなさんはまだあまり見聞する機会がないでしょうけれど、オフィス街の居酒屋にゆくと、カウンターで赤い顔をしたサラリーマンが話しているのは、85%くらいがこの手の話です。こういう話を聞くのも話すのも、ほんとうは時間の無駄なんですけれど、そのことに気づいている人はあまり多くありません。

 

それとは違って、あなたにとって特別にたいせつな人に向かって過去を回想する場合はどうなるでしょう?

 

話のとっかかりはやはり「いつもの話」です。これはしかたありません。でも、話の展開は微妙に変わってきます。

 

というのは、「いつもの話」のある箇所に来たとき、聴き手の反応がなんだかつまらなそうだなと、あなたはあわて出すからです。

 

「お、こりゃまずい。受けていない・・・」と思うと、あなたはとりあえず話の修正を始めます。口調を変えたり、余計な部分をはしょったり、説明が足りないところを補ったり、具体例を挙げたり・・・いろいろと手を加えます(こういう努力は「どうでもいい相手」のときには節約するものです)。

 

逆に、相手が乗ってきたら、「お、この話が受けるみたいだな。では・・・」というのでそこをどんどんふくらませてゆく。

 

そうやって何十分か話した後、話を語り終えたとします。

 

さて、この話を語ったのは誰でしょう?

 

あなたでしょうか?

 

なんだか違うような気がしますね。だって、たしかに語ったのはあなたなんですが、話し始める前に「こういう話をしよう」と予定していたあなたと、語り終えたあなたは、微妙に別人だからです。あなたは聞き手が「聴きたがっている話」を選択的にたどって、いつのまにかこんな話をしてしまってたわけです。

 

では、この話を導いたのは「こんな話を聴きたい」と願った聴き手の側の願望なのでしょうか?

 

これも違うような気がします。だって、「この人は、私からこんな話が聞きたがっているのではないか」と想像したのはあなたなんですから。

 

つまり、あなたの話をここまでひっぱってきたのは、あなた自身がはじめに用意しておいた「言いたいこと」でもなく、聴き手の(「こんな話が聴きたい」という)欲望でもなく(だって、他人の心の中なんて、あなたにはわかるはずがないから)、あなたが「聴き手の欲望」だと思い込んでいたものの効果だということです。

 

そういうものなんです。

 

あなたが話したことは「あなたがあらかじめ話そうと用意しておいたこと」でも、「聴き手があらかじめ聴きたいと思ったこと」でもなく、あなたが「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ってたこと」によって創作された話なんです。

 

奇妙に聞こえるかも知れませんが、この話を最後まで導いたのは、対話している二人の当事者のどちらでもなく、あるいは「合作」というものでもなく、そこに存在しないものなんです。二人の人間がまっすぐ向き合って、相手の気持ちを真剣に配慮しながら対話をしているとき、そこで話しているのは、二人のうちのどちらかでもないものなんです。

 

対話において語っているのは「第三者」です。

 

対話において第三者が語り出したとき、それが対話がいちばん白熱しているときです。

 

言う気がなかったことばが、どんどんわき出るように口からあふれてくる。自分のものではないんだけれど、はじめてのかたちをとった「自分の思い」であるような、そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。

 

見知らぬ、しかし、懐かしいことば。そういうことばが口について出てくるとき、私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります。

 

 ※内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)「前未来形で語られる過去」(p.57〜62)より抜粋 太字は井上

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

この、終わりの方に登場している

対話において語っているのは「第三者」です。

と書かれた部分なんですが、

対話的なコミュニケーション

実体験していない人が、この箇所を読んでも、

何が書いてあるのか

全くピンとこないことでしょう。

 

なぜなら、わたしたちのふだんの生活のなかで、

目の前の人ときちんと向き合って

コミュニケーションするということや、

相手に質問するというシチュエーション自体が

あまり起きませんし、

まわりの人が聞きたいとおもっているかどうかの

確認することなく、

自分の喋りたいことをただ喋っているというのが

すくなくないからです。

 

一昨日の記事内でもシェアした

3つの幻想領域の〝次元が違う〟ってどういうことですか?

 

という記事の中に、

 

 対幻想 ≠ 個人幻想+個人幻想 

 共同幻想 ≠ 個人幻想+個人幻想+個人幻想・・・

 

つまり、対幻想というのは、

相手と自分の個人幻想を足したモノではなく、

共同幻想も、個人幻想の単純加算ではない

ということを書いた箇所があるんですが、

それがまさに、内田さんの書かれた

 

対話している二人の当事者のどちらでもなく、

あるいは「合作」というものでもなく、

そこに存在しないもの

 

であり、

 

二人の人間がまっすぐ向き合って、

相手の気持ちを真剣に配慮しながら

対話をしているとき、

そこで話しているのは、

二人のうちのどちらかでもないもの

 

ということであり、

 

対話において語っているのは「第三者」です。

 

ということなのです。

 

ね?

 

インタビューゲームを体験されていない方が

この話を読まれても

全然わからないでしょう?

 

なぜなら、

わたしたちの日常のコミュニケーションでは、

ほとんどが会話、つまり単なるオシャベリか、

議論、つまり何が正しいか、どちらが正しいか、

ぶつけ合うようなやりとりかのどちらかで、

「対話的なやりとり」というのが、

ほとんど存在しないからです。

 

そもそも対話というのは、単なるオシャベリでも

お互いの考えをぶつけ合う議論でもなく

相互に相手の考えを受け入れながら、

変化していくことなんですが、

そのことについては、明日の記事で、

これまた、インタビューゲームについての

推薦参考図書の1冊として紹介している

二村ヒトシさんの本に書かれている箇所を

紹介しながら

さらに補足してみようとおもいます。

 

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