なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか?(その2)
2023/05/24
昨日投稿した記事の続きです。
念のために書いておきますが、
昨日の記事で紹介した阿部謹也さんの
本のタイトルは『世間とは何か』なんですが、
「世間とは何か」を伝えたくて
引用したわけではなく、
対幻想という概念がなぜ日本で生まれたのかという
問いを考えるためのひとつの素材として、
〝世間〟という言葉があるという
入口を示すことが目的でした。
ペリーが浦賀にやってきた頃の話を
書きましたが、その後に江戸幕府が倒れて
明治の世の中がやって来たとき、
日本には「社会」という言葉も
「個人」という言葉も無かったんですね。
欧米でいう「社会」とは、
市民革命の歴史を経て
自らの力で獲得した「市民社会」のことで、
自分のアタマで考えて
自ら判断し行動できる「個人」の集まりを
「社会」というわけです。
ですから、明治の初め頃の日本には、
「社会」「個人」という言葉がなかったのは
当たり前であるばかりか、
「世間」というのは存在していても、
「社会」も「個人」も存在していなかったと
考えるのが自然でしょう。
阿部謹也さんの『世間とは何か』から、
昨日引用した箇所の続きを引用します。
(引用ここから)
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この点については特に知識人に責任がある。知識人の多くはわが国の現状分析をする中、常に欧米と比較し、欧米諸国に比べてわが国が遅れていると論じてきた。遅れているという判断の背後には、遅れを取り戻せるという見通しがなければならない。多くの知識人はそのような見通しもないままに遅れについて論じてきたのである。
たとえばカントの『啓蒙とは何か』という書物の中で、上官の命令が間違っていた場合に、部下のとるべき態度が論じられている。上官の命令が間違っていると考えた場合でも、部下はその命令に従わなければならない。さもなければ軍隊は成立しないからである。しかし軍務が終了したとき、その部下は上官の命令の誤りを公開の場で論じることができるとカントはいう。そしてその場合、彼は自分の理性を公的に使用しているのだというのである。
日本の事情を考えてみよう。ある会社員が会社の経理やその他に不正を発見して、それを公的な場で指弾した場合、彼は間違いなく首になるであろう。そしてもしそのことが公的に論じられるようなことが起こった場合、彼の行動が公的な理性に基づくものだという者が日本にいるだろうか。
このカントの言葉を引用して日本の社会の遅れを説く論者は今でもあとを絶たない。しかし問題はここからはじまるのであって、こういう状態だからわが国は遅れているといってみたところで、何もいっていないに等しいのである。
このように考えてくると、問題の一つは、わが国においては個人はどこまで自分の行動の責任をとる必要があるのかという問題であることが明らかになろう。それはいいかえれば世間の中で個人はどのような位置をもっているのかという問いでもある。以下においては世間や世の中という言葉がどのように用いられてきたのかを考察し、その中での個人の生き方についても考えてみたい。私達は西欧の歴史からよりも、自分達の過去から学ぶべきことが多いからである。
日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。わが国には人権という言葉はあるが、その実は言葉だけであって、個々人の真の意味の人権が守られているとは到底いえない状況である。こうした状況も世間という枠の中で許容されてきたのである。
序章「世間とは何か」〝知識人の責任〟 より
太字部分は井上
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(引用ここまで)
ところで、この『世間とは何か』が出版されたのは、
1995年だったんですが、
その前の年には大江健三郎さんがノーベル文学賞を
受賞されるという出来事がありました。
そのとき大江さんが受賞記念として
講演されたときの演題が、
『あいまいな日本の私』だったんですが、
今日の記事をここまで読まれると、
冒頭の写真の左側に
その記念講演を収めた新書本がなぜ映っていたのか、
その理由についてピンと来た方が
いらっしゃるかもしれません。
日本で「個人」という言葉が定着したのは
引用した阿部謹也さんの文章にあるように
明治17年頃らしいんですが、
結局、日本の場合は、
現実には西欧的な意味での「個人」が
成立していないところに
西欧の法制度や社会制度のみが受け容れられ、
資本主義体制がつくられていったわけです。
「社会」という言葉は皆が知っていても、
その実態は、欧米の「社会」とは
似て非なる状況だったというか、
それから100年以上経った今日でも、
あまり変わっていないのではないでしょうか。
さて、冒頭写真の右側には
夏目漱石『私の個人主義』なんですが、
漱石の作品が読み継がれてきた理由が
『世間とは何か』にも話題として
語られていたからです。
ちなみに、漱石のこの『私の個人主義』には、
漱石が亡くなる5年前の1911年に
和歌山で行われた「現代日本の開化」という
講演の内容が収録されているんですが、
この内容の一部を
旧ブログのこちらの記事に載せてあるので、
ご覧になってみてください。
この続きはまた明日に。
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