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1円切手の人物・前島密のこと

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1円切手の人物・前島密のこと

1円切手の人物・前島密のこと

2023/05/04

今日はちょっと趣向を変えて切手の話題から。

切手収集は、わたしが小学生のときに始めた

趣味の一つでした。

 

小学校3年生のときには、

当時住んでいた自宅近くの郵便局に通って、

そこの局員さんがたと顔なじみになり、

中学生になった頃には、

郵便局の局員さんでも知らないような

ニッチな郵便サービスを知っていたり、

郵便法規上の細かいルールにも精通していて、

局員さんを驚かせたことも。

 

まあ、郵便オタクだったわけですが・・・笑

 

その後、ハガキや消印にも興味が拡がって、

中学生、高校生の時には風景印を集める

全国規模の同好会を

主宰していたこともありました。

 

ところで、本日これから書こうとしている

記事の焦点は、わたしが生まれる前の1951年から

郵便局で常時販売されている普通切手のうち、

この1円切手の図案についてです。

 

1円以外の料額印面の普通切手を見ると、

たとえば、次の10円切手などは、

この6種類でもまだ全部ではなく、

けっこう頻繁にデザインが変わってきました。

 

でも、1円の普通切手のデザインだけは、

次の画像のように、

何度かマイナーチェンジをしながらも、

今日まで70年以上にわたって

1度もデザインが変更されていません。

 

 

よってたぶん、全く見たことがないって人は

かなり少ないんじゃないかとおもいますが、

この肖像が誰なのか、知ってますか?

 

一応、中学校の歴史の教科書には

名前が出て来ていたんですが。

 

でも、なぜ1円切手がずっとこの図案なのか・・・

 

実は、一昨年2021年春に、

70年の伝統を覆し、

日本郵便のゆるキャラ「ぽすくま」を図案とした

新しいデザインの1円切手が発行されるという

歴史的な出来事があったんです。

 

 

最近では、消費税の変更などで、

1円のような少額切手でも

使用頻度はさらに高くなっていたようで、

「もっとカワイイ図案にして!」

「別のデザインがいい!」という

要望が相次ぎ、朝日新聞の「声」欄に、

 

「失礼ですが、

いかめしい顔のおじさんの切手を貼ると、

何だかテンションが下がってしまいます。

他の切手と組み合わせて貼った時に、

氏のいかめしい顔つきがどうにも違和感を伴います」

 

という意見が載ったことも追い風に。

 

でも、新しいデザインの1円切手を

発行することについては、

日本郵便の内部にも

「いままでの図案以外認められない」という

保守的な一派からの慎重論も根強かったようで。

 

よって、新デザインのぽすくま1円切手については、

従来デザインの前島1円切手を

これまで通り継続発行するとした上で、

・1シート50枚のシール式

・ばら売りをしない

・販売数を1億枚限定とし増刷しない

と従来デザインの切手との差別化を明確にし、

今回限りの条件付き発行とすることで

なんとか折り合いがついた模様!

 

さて、このように長年にわたって

「聖域」「不可侵」とされているだけでなく、

今後も発行し続けるという

1円切手のいかめしい顔つきのオジサンとは、

1871年に郵便事業を創始し、

「郵便の父」として讃えられている

前島密(まえじま ひそか)という人なんですが、

彼は1835年、新潟県上越市に生まれました。

 

次の切手は、前島の生誕150年を記念して

1985年に発行されたものです。

 

この切手の右上あたりを見ると、

東京開華名所図会なのに、

「四日市郵便駅逓寮」とあって、

東京なのに何で「四日市」なんだろう?って

おもったんですが、

この四日市郵便駅逓寮とは、

現在の日本橋郵便局とのことで、

建物のあった場所の「元四日市町」という地名から

名づけられたものだそうです。

 

日本橋は、

日本における郵便発祥の地とされているんですね。

 

それで、日本橋郵便局で使われている風景印には、

前島密の銅像に「郵便発祥の地」という文言が

記されていました。

当時の日本橋郵便局付近を描いたスケッチ


馬の姿がみえますが、

明治時代の初め頃は郵便を

馬車で運んでいたんですね〜。

 

実は、ぽすくま1円切手の出た2021年は、

郵便創業150周年という

メモリアルイヤーでもあったんですが、

そのときには、最少額の1円切手ではなく、

500円に格上げされ、

次のような6色のカラフルな記念シートも。

 

わたしたちがいま普通に使っている、

この「郵便」「切手」「葉書」という言葉を

考案したのも前島でした。

 

ちなみに、前島の功績は、

日本郵政のこちらのページ

詳しくまとめられていますし、

戦国ヒストリーの次の記事など

なかなか読み応えがありますので、

関心の向きはご覧になってみてください。

 


前島は12歳のときに医師を目指して

江戸に出たものの、

その後、学校らしい学校は出ておらず、

ほとんど独学だったと伝えられています。

 

当塾で大事にしている学び方を実践する

セルフラーニングの人だったわけですね。

 

1853年、前島が18歳のとき、

浦賀にやってきたペリーの黒船を見て

大きな衝撃を受け、

前島は医師を目指すことをやめたとのこと。

 

さて、越後の地方出身で、

学校を出ていない前島が、

明治政府の要人となり、

なぜ郵便事業をはじめとする

数々の先駆的な事業を

成し遂げることができたのでしょうか?

 

全国を旅して歩いていた19歳の頃の前島が

母親に送った手紙文がのこされていて、

次にその内容をご紹介するので、

これを読んで考えてみてください。

 

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母上様 
先日は早々のうちにおいとまし、

たいへん失礼しました。
あのとき申し上げたとおり、

私は、北陸道を西へと向かう旅の途次にあります。
いまは越前国、敦賀の近くの

大桐という村におります。 
大桐には、見るべきものはありません。
ただ山ばかり。
なのに、もう五日も滞在しているのは、

庄屋の松兵衛という人が私を足止めして、

毎夜毎夜、話をせがむからです。
昨晩いちおう話も尽きたのですが、松兵衛は、

「明日からは客を呼ぶので、

またいちから話してください」
大桐に限らず、私がこの旅で痛感するのは、

田舎には田舎の勉強家がいるということです。
松兵衛は、そのひとりです。
彼らは江戸や京から書物を取り寄せ、それを読み、

同好の士同士で集まって茶事や酒宴を催しています。
しかしそれだけでは、狭い村のこと、

おなじ話の繰り返しになる。たとえ

黒船来航というような大きな事件があったところで、

江戸のように次々と情報が入って来るわけでもなく、

考えを深めようにも材料がない。
そういう環境が物足りないから

旅人をつかまえて話を聞くのが、

それが彼らには何よりの学問であり、慰安であり、

また心を高く保つための拠りどころでもある。
どうも、そうらしいのです。 
私はさながら、その勉強好きの蜘蛛の網にかかった

一匹のとんぼでもありましょうか。
何しろ江戸を知っている。
西洋の知識がある。
さらには、アメリカと日本のあいだで交わされた

儀式の実景をまのあたりにしている。 
もちろん、私にも利はあります。
何といっても、食事や酒や夜具の用意を

そっくり持ってもらえるのはありがたい。

これまでは出立の日に

当座路銀ももらえることが多かったので、

今回もそうなるのではないでしょうか。
旅というのは、意外にも、

お金がなくともつづけられるものなのです。
なので、母上はどうか安心して

子供たちの手習いを助けてあげてください。
江戸で世話になった本屋の主人は

「字を書くとは身二つになること」と

言っていましたが、はたしてそうなら、

母上はその分身の術を教えている。
世にも尊いお仕事だと思います。
兄上様とは仲よく。
今後も印象ぶかい土地に出会ったら手紙を書きます。

 

房五郎

 

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