自己表出と指示表出について(宇田亮一『吉本隆明「マスイメージ論」の読み方』より)
2026/08/10
8月に入ってから、この寺子屋塾ブログでは、
らくだメソッドで学習している塾生のひとりが、
自己観察をめぐって生成AI(Gemini)と
対話した記録を紹介したり、
また、山口周さんのブログ記事や対談動画を紹介し、
AI時代の人間らしい働き方について
考察したりしてきました。
・生成AIとの対話記録(その1) 〜らくだメソッドによる自己観察をめぐって〜
・生成AIとの対話記録(その2) 〜らくだメソッドによる自己観察をめぐって〜
・今井むつみ『AIにはない思考力の身につけ方 ことばの学びはなぜ大切なのか?』
・AI時代に「人間らしく働く」には? 〜山口周さんのインタビュー記事、動画より〜
・AI時代に「人間らしく働く」には? 〜山口周さんの対談動画・文字起こし(その1)〜
・AI時代に「人間らしく働く」には? 〜山口周さんの対談動画・文字起こし(その2)〜
また、6〜7月には、46回にわたって
由佐美加子さんの〝ザ・メンタルモデル〟について
連載記事を書いていたんですが、
コミュニケーションの問題を考える上で、
吉本隆明さんが『言語にとって美とはなにか』で
提唱された「自己表出と指示表出」を
理解することがひとつのカギになるのでは?
という話を書きました。
・ザ・メンタルモデルについて(その45)「自己表出と指示表出」
美しさとは何か、アートとは何かが
テーマの焦点でしたが、
この2週間ほどは
同じところをずっとグルグル回っているように
感じられたかもしれません。
結局のところ、AIの問題にしても、
アートの問題にしても
コミュニケーションの問題においても、
この「自己表出性」というものの正体が何なのか
しっかり掴んでいるかどうかが大事だと
浮き彫りになってきたとも言えます。
ということで、本日投稿する記事の
メインコンテンツは、
「自己表出と指示表出」なんですが、
言語以前の世界に触れていて
言葉で説明することができないために
なかなか厄介なんですね。
この厄介さとは、たとえば、『論語』で孔子が
〝仁とは何か?〟について語ろうとするときに、
語る相手や語るときと場合によって、
語り方や語る内容を変えていたこととも
近いようにわたし自身は感じています。
とはいえ、こうしたブログのような場では、
「言葉で簡単に説明できない」と書いていても
話が先にすすまないし、
「自己表出と指示表出」については、
旧ブログを書いていた時代から
吉本さんの著書や講演テキスト、批評文など
いろいろ紹介してきたわけなんですが。
・精神構造と言語表現と作品(吉本隆明さんの最後の講演会より③)
・幻想論の根柢
ということで、今日はこのテーマに触れている本を
1冊紹介しようとおもうんですが、
宇田亮一さんが2021年に書かれたガイド本、

本書の表紙絵を描かれたのが、
吉本さんの長女・ハルノ宵子さん。
宇田さんは、本書で吉本さんの
「自己表出と指示表出」については、
より突っ込んだ提案をされています。
「自己表出と指示表出」という
言い方自体が
簿記会計における「貸方」「借方」のように、
イメージしにくく分かりにくいので、
この二つの概念の
違いをより分かりやすくするためには、
表現自体を変えた方がいいと。
具体的に、自己表出は、
「計算せずとも自ずと生まれてくる
人と人をつなげる表出」という意味から、
〝非分離・非対象化表出〟とし、
指示表出は、
「計算して生み出そうする
人と人をつなげない表出」という意味から、
「分離・対象化表出」と
変えてみてはどうかと書かれています。
ただ、これだけでは、宇田さんの意図や主旨まで
読みとることは難しいように感じるので、
本書の結語のところに整理されている
「自己表出と指示表出」についての文章を
引用して紹介しますので読んでみて下さい。
(引用ここから)
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1.指示表出、自己表出とはなにか
言葉は、その言葉を発する人の思いを表現することになるが、この発語の奥に〝指示表出〟と〝自己表出〟という二つの表出があるというのが吉本言語学のエッセンスである。〝指示表出〟と〝自己表出〟という概念は一般にはとてもわかりにくいので、本書ではこれを〝言葉の意味〟〝沈黙のメッセージ(沈黙が示唆するもの)〟と表現しているのだが、そのことをここでもう少し説明したい。
一般に心理学の教科書に出てくる〝コミュニケーション〟というテーマは〝バーバル〟〝ノンバーバル〟という二つのコミュニケーションルートの話から始まることが多い。ここでいうバーバルとは言語コミュニケーション(言葉の意味)のことであり、ノンバーバルとは非言語コミュニケーション(まなざし、態度、雰囲気、声の大きさ……)を意味している。
だから、先ほど述べた〝言葉の意味〟とはバーバルコミュニケーション、〝沈黙のメッセージ(沈黙が示唆するもの)〟とはノンバーバルコミュニケーションということにつながりやすいのだが、吉本言語学と心理学の教科書が語っていることは同じではない。全く違うのである。吉本言語学では言語表現そのものの中に沈黙のメッセージが宿るということが大事なのだ。
吉本自身の〝コミュニケーション〟定義から言えば、〝沈黙のメッセージ(沈黙が示唆するもの)〟とは〝非コミュニケーション〟ということになる。これが〝自己表出〟なのである。『マス・イメージ論』では、この〝非コミュニケーション(自己表出)〟を多数の作品の中から取り出し、この「共同性」を〝差異〟〝縮合〟〝地勢〟〝接合〟〝全体的な暗喩〟〝微分〟という言葉によって「現在という巨きな作者」を探り当てようとするのである。具体的に言えば、たとえば【喩法論】における女流詩人は、言葉の意味として〝男殺し〟を語っているわけではない。全くそのことを語っていないのである。
しかし、〝沈黙のメッセージ(自己表出)〟が〝男殺し〟を語るのだ。言い換えれば、吉本言語学では、書かれていない〝男殺し〟という言葉を嗅ぎつけ、探し当てることが大事なのである。つまり、〝沈黙のメッセージ(自己表出)〟への〝気づき〟がとても大事なのである。さらに言えば、吉本はこの〝沈黙のメッセージ(自己表出)〟を〝非コミュニケーション〟と定義するのだが、人と人とが本当の意味でつながるのは、実はこの〝非コミュニケーション〟にほかならないと言うのである。だから、アカデミックな学問体系が吉本言語学を受け入れるわけがないのだ。
そういう意味で、〝自己表出〟という概念は今も世の中では、ほとんど理解されていない。学校で習う〝言語学〟は基本的に「言語は意味」と考えているからである。バーバルコミュニケーションとは、まさに「言葉は意味」ととらえたコミュニケーションのあり方なのだ。だから意味以外のものはすべて、ノンバーバル(非言語)で構成されることになる。これに対して、吉本が言っていることは「言葉は言葉自体の中に意味を超えるもの(沈黙のメッセージ)を内包している」ということなのである。
実はこのことは実生活では誰もがはっきり分かっていることなのだ。たとえば、あなたが街中で「あんたなんか大っ嫌い!」と言われたとする。このとき、あなたは「言葉の意味」だけでその言葉を受け取るだろうか。そんなはずはない。あなたが好きな人から、あるいは嫌いな人から、あるいはロボットからそういわれたとき、受け取り方は全然違うはずだ。
そして、それこそが大事なのだ。一般の心理学の教科書では、この発語のニュアンスの違いを言葉の外側にあるノンバーバルなものとして構成する。つまり、相手という〝個体〟が醸し出す雰囲気としてノンバーバルを構成するのだ。しかし、吉本言語学では「あんたなんか大っ嫌い!」という言葉のニュアンスの違いをそれだけではなく、相手と自分との〝関係性〟から引き出そうとするのである。よく考えれば、当然のことである。
言葉の中にこうした可能性が眠っていなければ、17文字の俳句が芸術として成り立つわけがない。17文字の言葉の意味はたいてい、たわいのないものだ。だから、17文字の言葉を〝言葉の意味〟だけでとらえている限り、逆立ちしても芸術にはたどり着けないのである。
古 池 や 蛙 飛 び こ む 水 の 音
芭蕉のこの俳句は誰もが知っているが、意味だけで言えば、「古い池にカエルが跳びこんだら、水の音がした」というたわいないものである。ではなぜ、この句が350年の時空を超えて生命力を保ち続けているのか。吉本言語学では、こう説明するのだ。そこに〝沈黙のメッセージ〟の存在があるからだと。
これまで述べてきたことで少し訂正したいことがある。先ほど、世の中の多くの学説が「言葉は意味である」と考えていると述べたが、これは言い過ぎている。西欧近代の学問体系すべてが「言葉は意味である」と単純に考えているわけではない。たとえば、ソシュールは言葉をシニフィアン(音)とシニフィエ(意味)から成り立つものとしてとらえる。
そして、ソシュールは〝言語本質〟をシニフィエ(意味)ではなく、シニフィアン(音)にあると考えるのである。これは、吉本が〝言語本質〟を指示表出(意味)ではなく、自己表出(沈黙のメッセージ)にあると考えるのと構造が同じである。そういう意味で、ソシュールと吉本との言語学の枠組みには共通した基盤があると言ってよい。しかし、もちろん違いもある。ソシュール言語学の根底には〝音楽〟があるが、吉本言語学の根底には〝沈黙〟があるのだ。つまり、ソシュール言語学は、赤ちゃんの〝あわわ言葉〟や動物の鳴き声も言語の射程圏内に組み込み、吉本言語学は〝非言語(沈黙)〟をも言語の射程圏内に組み込んだのだ。
〝沈黙〟に焦点を当てる吉本言語学では〝沈黙のメッセージ(自己表出)〟がどこに宿るかに注目することになる。その宿りやすい場所は「韻律、撰択、転換、喩」という場面にある。また、品詞によっても宿り方に違いがあるのだ。これはこれまで吉本以外に誰も語っていないことである。ここに『言語にとって美とはなにか』のすごさがあるのだ(関心があれば、拙書『吉本隆明「言語にとって美とはなにか」の読み方』を参照されたい)。

ただ、こうした議論は現在の学問体系から言えば、亜流にすぎない。なぜなら、あまりにもわかりにくいのである。「言語表現には〝意味〟と〝意味でないもの(沈黙のメッセージ)〟が存在する」という枠組み自体がわかりにくいのである。だから、わたしは最近、このことを【図11】の「図と地」(ルビンの壺)を用いて説明するようにしている。
指示表出(〝言語の意味〟)だけを追いかければ、【図11】は白地の〝壺〟がみえるのだが、黒地の方をみれば、人の横顔が浮かんでくる。悲しそうな、あるいは寂しそうな、あるいはニタっと笑ったような横顔······これは言葉の意味ではない······これこそが自己表出(〝沈黙のメッセージ〟)なのである。
「世界はどう変化したのか」という問いに対して、ほとんどすべての人は〝壺〟を語る。しかし、吉本はそうではないのだ。「現在」から「未来」への通路を見定めるためには〝言葉の意味〟として浮上してこない〝黒い横顔〟を注視せよ、と吉本は言っているのである。『マス・イメージ論』とはそういう本なのだ。
ちなみに吉本は敗戦以来、ずっとこの〝黒い横顔〟に注目し続けてきたのである。キリスト教(共同幻想)の原典、〝聖書〟についていえば、吉本は〝聖書〟に書かれている言葉の意味よりも、〝聖書〟を作成・編集した作者の意図(沈黙のメッセージ)に注目するのだ(『マチウ書試論』)。また、天皇制(共同幻想)の原典、〝古事記〟についていえば、〝古事記〝に書かれている言葉の意味よりも、〝古事記〟を作成・編集した作者の意図(沈黙のメッセージ)に注目するのだ(『共同幻想論』)。これが吉本なのだ。一貫して作者の〝自己表出〟に耳をすませるのである。
※宇田亮一『吉本隆明「マスイメージ論」の読み方』
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(引用ここまで)
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