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ザ・メンタルモデルについて(その44)「自己表出と指示表出」

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ザ・メンタルモデルについて(その45)「自己表出と指示表出」

ザ・メンタルモデルについて(その45)「自己表出と指示表出」

2026/07/30

6/16からこの寺子屋塾ブログでは、
7/20(月・祝)に開催した
『レゾナント・コミュニケーション』読書会

の準備を兼ねて、

著者のおひとり、由佐美加子さんが発見された

〝ザ・メンタルモデル〟について書いてきました。

 

昨日までの投稿記事に未読分がある方は

まず次から先にどうぞ!
ザ・メンタルモデルについて(その1)「はたあそ(第1部)」

ザ・メンタルモデルについて(その2)「はたあそ(第2部)」
ザ・メンタルモデルについて(その3)「TEDx Talksプレゼン動画」

ザ・メンタルモデルについて(その4)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?①

ザ・メンタルモデルについて(その5)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?②

ザ・メンタルモデルについて(その6)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?③

ザ・メンタルモデルについて(その7)『学習する組織』と『U理論』

ザ・メンタルモデルについて(その8)「〝痛み〟とどう向き合うか」

ザ・メンタルモデルについて(その9)「〝源(みなもと)〟とは何か?①」

ザ・メンタルモデルについて(その10)「〝源(みなもと)〟とは何か?②」

ザ・メンタルモデルについて(その11)「〝源(みなもと)〟とは何か?③」

ザ・メンタルモデルについて(その12)「〝源(みなもと)〟とは何か?④」

ザ・メンタルモデルについて(その13)「〝源(みなもと)〟とは何か?⑤」

ザ・メンタルモデルについて(その14)「吉本隆明『共同幻想論』に重ね合わせてみて」

ザ・メンタルモデルについて(その15)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり①」

ザ・メンタルモデルについて(その16)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり②」

ザ・メンタルモデルについて(その17)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり③」

ザ・メンタルモデルについて(その18)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり④」

ザ・メンタルモデルについて(その19)「ライフタペストリーとプロセスデザイン」

ザ・メンタルモデルについて(その20)「ライフタペストリーと親鸞上人」

ザ・メンタルモデルについて(その21)「価値なしモデルと愛なしモデル」

ザ・メンタルモデルについて(その22)「欠陥欠損モデルとひとりぼっちモデル」

ザ・メンタルモデルについて(その23)「実存的変容とのつながり①」

ザ・メンタルモデルについて(その24)「実存的変容とのつながり②」

ザ・メンタルモデルについて(その25)「実存的変容とのつながり③」

ザ・メンタルモデルについて(その26)「動物脳と人間脳①」

ザ・メンタルモデルについて(その27)「動物脳と人間脳②」

ザ・メンタルモデルについて(その28)「動物脳と人間脳③」

ザ・メンタルモデルについて(その29)「脳と心の関係について」

ザ・メンタルモデルについて(その30)「原生的疎外と純粋疎外」

ザ・メンタルモデルについて(その31)「反応しちゃう自分の扱い方」

ザ・メンタルモデルについて(その32)「生存本能は痛みの回避が目的」

ザ・メンタルモデルについて(その33)「身体を使って感じる体験がモト」

ザ・メンタルモデルについて(その34)「仏教との関わり」

ザ・メンタルモデルについて(その35)「Co-Creationという世界の生き方①」

ザ・メンタルモデルについて(その36)「Co-Creationという世界の生き方②」

ザ・メンタルモデルについて(その37)「Co-Creationという世界の生き方③」

ザ・メンタルモデルについて(その38)「Co-Creationという世界の生き方④」

ザ・メンタルモデルについて(その39)「Co-Creationという世界の生き方⑤」

ザ・メンタルモデルについて(その40)「Co-Creationという世界の生き方⑥」

ザ・メンタルモデルについて(その41)「本の出版記念インタビュー①」

ザ・メンタルモデルについて(その42)「本の出版記念インタビュー②」

ザ・メンタルモデルについて(その43)「本の出版記念インタビュー③」

ザ・メンタルモデルについて(その44)「ユングの集合的無意識」

 

 

さて、7/20に『レゾナント・コミュニケーション』

第1回の読書会も無事開催し終え、

この連載記事も回を重ね45回めとなり、

締め括りのステップも終盤となりました。

 

(その41)の記事に紹介した、

『ザ・メンタルモデル』が出版される直前に行われた

由佐さんへのインタビュー動画の

文字起こしテキストに

次のような話がありました。

 

・わたしはその場の意識が作り出すものを感じ取り、

 言葉に転換してその人の意識に訴えかけて

 変容を促していくやり方が自分のスタイル

 

・間がないからソースが分からず、
 人と自分の間にある空白の空間が感じ取れないと、

 自分の手が完全に封じられた感じになる。

 

・ひとつずつ遂行していくプロセスは一切なく

「できた」っていうよりそこにあったっていう感じ。

 

・何かがクリエイトされるときって、
「すでに出来ているものがある」という感覚になる。

 

・自分の意識がそれをダウンロードする感覚。
 だけど、意識を研ぎ澄ませていかないと、
 ダウンロードできない。

 

・巫女体質だから自分がつながって降ろしてきてる、

 みたいな感覚のほうが強い。

 

まあ、これから書くことは、

あくまでわたしの勝手な解釈なので、

あまり真に受けないでほしいんですが。

 

『ザ・メンタルモデル』は、

由佐さんと天外伺朗さん共著の著作物ですが、

由佐さんがインタビューで語られていた内容から

わたしが推測したことは、

由佐さんはユングの言う〝集合的無意識〟に

アクセスして下ろしてきたものなんじゃないかと。

 

また(その23)から(その25)の記事で触れた

「実存的変容」という言葉は、

フロイトやユングに端を発する

深層心理学の文脈で生まれたものでした。

 

それで、昨日投稿した(その44)の記事では

「集合的無意識」について

山田玲司さんが語られている動画をシェアした次第。

 

 

さて、本日のメインコンテンツは、

(その12)の記事でも引用して紹介した

宇田亮一さんが2017年に書かれた

『吉本隆明「言語にとって美とはなにか」の読み方』
より表現転移論に触れた箇所です。
 

ちなみに、自己表出と指示表出については、

理解が十分でない方は、

TVドラマ『逃げ恥』の次の記事

TBSドラマ『逃げ恥』名セリフ&名場面集(その14)

TBSドラマ『逃げ恥』名セリフ&名場面集(その34)

TBSドラマ『逃げ恥』名セリフ&名場面集(その62)


また、タグ「自己表出と指示表出」の過去記事や、

旧ブログ〝往来物手習い〟の

次の記事などをご覧になってみて下さい。

「自己表出」と「指示表出」

言語と沈黙(吉本隆明さんの最後の講演会より)

表現とは何か(吉本隆明さんの最後の講演会より②)

精神構造と言語表現と作品(吉本隆明さんの最後の講演会より③)
幻想論の根柢

『心的現象論序説』改版解説(三浦雅士)

 

(引用ここから)
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【4】表現転移論 

これまでみてきた【1】「言語の本質」から3】「韻律・選択・転換・喩」までの理論編に続いて、いよいよここから実践編に入ります。『言語にとって美とはなにか』は、世間的には、いつも【1】から3】までの理論編だけが話題になりますが、実は4】と【5】の実践編もすごい内容です。理論編を裏付ける、示唆に富む見事な内容なのです。ただ、これをうまく案内できるかどうか、というのが今のわたしのプレッシャーです。 

 

〈1〉「表現転移論」は〝自己表出〟の歴史論である 

では「表現転移論」に入ります。「表現転移論」では具体的な言語の表現史をみていくことになります。「文学作品の歴史を〈表現史〉という観点でとらえる」ことは自己表出、指示表出という考え方と同じく、これまで世界中で誰も考えたことのない吉本さんの独創的な着想です。わたしたちにとっては、「表現転移論」を読み解くことは「何が世界普遍の言語学なのか」を考えるよい機会になると思います。吉本さんは、このことを冒頭で次のように述べています。 

 

ひとつの作品は、ひとりの作家をもっている。ある個性的な、いちばん類を拒絶した中心的な思想をどこかに秘しているひとりの作家を。そして、ひとりの作家は、かれにとってそれ以外はありえなかったぬきさしならない環境や生活をもち、その生活、その環境は中心的なところで一回かぎりの、かれだけしか体験したことのない核をかくしている。まだあるのだ。あるひとつの生活、ひとつの環境は、もっとも宿命的にある時代、ひとつの社会、そしてある支配の形態のなかに在り、その中心的な部分は、けっして他の時代、他の社会、他の支配からはうかがうことのできない秘められた時代性の殻をもっている。 

こんなふうに、ある時代、ある社会、ある支配形態の下では、ひとつの作品はたんに異った時代のちがった社会の他の作品にたいしてばかりでなく、同じ時代、同じ社会、おなじ支配の下での他の作品にたいしてはっきりと異質な中心をもっている。そればかりでなく、おなじひとりの作家にとってさえ、あるひとつの作品は、べつのひとつの作品とまったくちがっているのだ。言語の指示表出の中心がこれに対応している。言語の指示意識は外皮では対他的な関係にありながら中心では孤立しているといっていい。 

しかし、これにたいしては、おなじ論拠からまったくはんたいの結論をくだすこともできる。つまり、あるひとつの作品は、たんにおなじ時代のおなじ社会のおなじ個性がうんだ作品にたいしてばかりではなく、ちがった時代のちがった社会のちがった個性にたいしても、まったくの類似性や共通性の中心をもっているというように。この類似性や共通性の中心は、言語の自己表出の歴史として時間的に連続しているとかんがえられる。言語の自己表出性は、外皮では対他的関係を拒絶しながらその中心では連帯しているのだ。(『言語にとって美とはなにか』第I章「表現転移論」第I部 表出史の概念より)

 

個別の文学作品の異質性と共通性とがここに簡潔にまとめられています。文学作品には「まったく違う個性、まったく違う生活環境、まったく違う時代という〈異質性〉がある」のです。しかし、一方で、文学作品には「個性、生活環境、時代がどんなに違っても〈共通性〉がある」(罫線部)のです。つまり、文学作品はそれぞれひとつひとつがすべてバラバラであると同時に、逆にすべての文学作品が時代や社会を超えてつながっていると吉本さんは言うのです。言外に吉本さんは「言語とはそういうものだ」「言語とはそういうものとしてとらえない限り、本質にたどりつけない」と言っているのです。この見識が吉本文学理論の見事さです。ここで大事なことは、〝作品一つ一つがバラバラである〟ことは指示表出のちがいに由来し、〝作品一つ一つが時代や社会を超えてつながっている〟ことは自己表出の働きに由来しているということになります。これが吉本さんの文学作品に関する根源的な洞察なのです。吉本さんは、さらに次のように語ります。 

 

(一般的な世間の考え方によれば)文学作品の歴史を本質をうしなわずにあつかえる方法は極端にいえばふたつに帰する。そのひとつは中心が社会そのものにくるような抽出であり、このばあいには個的な環境や生活史がその環のなかにはいってくることが必須の条件になる。もうひとつはその中心が作品そのものに来るような抽出であり、そのばあいには環境や人格や社会は想像力の根源として表出自体のなかに凝縮される。いまここでわたしがやろうとしているのは、(こうした)ふつう文学史論があつかっている仕方とはまったく逆向きのことだ。ひとつの作品から、作家の個性をとりのけ、環境や性格や生活をとりのけ、作品がうみ出された時代や社会をとりのけたうえで、作品の歴史を、その転移をかんがえることができるかということだ。いままで言語について考えてきたところでは、この一見すると不可能なようにみえる課題は、ただ文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげるときだけ可能なことをおしえている。いわば、自己表出からみられた言語表現の全体を、自己表出としての言語から時間的にあつかうのだ。 

何だって?個々の作家が自由につくりだした作品を、それだけで必然的な史的な転移としてかんがえられるはずがないではないか。いったいなにを基準にしてどんな具合にそれが可能だというのか?どの作品とどの作品をつなげることによってこの連鎖と転移をかんがえるのか? 

もちろん、自己表出としての言語というところまで抽出することなしには、ただでさえ強烈な個性が自由にそれぞれの時代環境のなかでつくりあげた作品を、時間的な連鎖としてつなぐことはできない。(中略)自己表出としての言語の表現史というところまで抽出することで、必然史は成り立つはずだ。なぜならば、言語の表出の歴史は、自己表出としては連続的に転化しながら、指示表出としては時代や環境や個性や社会によっておびただしい変化をこうむるものだからだ。 (『言語にとって美とはなにか』第1章「表現転移論」第I部 表出史の概念 カッコ内注:宇田)

 

吉本さんは、文学作品の歴史を〝社会〟でもなく、〝作品〟でもなく、〝自己表出〟という観点で取り扱うと宣言しているのです。これが「表現転移論」のいわば根源的な方法論です。文学作品の歴史を読み解くうえで、これまでだれも言わなかったことを、吉本さんはここで公然と、しかもはっきりと述べたのです。

 

〝自己表出としての言語〟という観点からみれば、ある時代の文学作品全体がひとつの大きな志向性(ベクトル)をもっていることがみえてくるのだと。簡単にいえば、文学作品はすべてがまったく別の作品だけれども、〝自己表出としての言語〟という観点からみれば〝すべての作品がつながっている〟〝すべての作品の根っこはひとつなんだ〟と吉本さんは述べているのです。いいかえれば、〝自己表出は作家個々人のものではなく、すべての作家に共通しているのだ〟と言っているのです。

 

つまり、自己表出とは個体の表出ではないのです。だからこそ、自己表出によって言語表現の歴史をとらえることが可能となるのです。「ほんまかいや」と思われる方も多いと思いますので、これから実際にその内容をご覧いただきたいと思います。ただ、そのまえにもうすこし、いくつかのことにふれておきます。 

 

ここでふれておきたいことは「時代や社会とりのけたうえで」という吉本さんの言葉は誤解しないでください、ということです。吉本さんは〝時代や社会の変化は文学表現に影響がない〟と言っているのではないのです。吉本さんの真意を吉本さん自身の言葉で言うとこうなります。「社会というのは文学の表現にとって何ごとかなのだが、わたしたちはいまのところそれを確かな言葉でいうまでにいたっていない。このもんだいを解くことは、一般にかんがえられているよりもはるかに難しいことだ。ルカーチなどが文学理論と文学史的な考察で失敗しているのは、難しさ難しさとしてみるよりも、理念によっておしきろうとするからだとおもえる」と。 

 

つまり、吉本さんは〝社会というものは文学の表現にとって何の意味もない〟といっているのではなく、〝なにごとか〟だと言っているのです。ただ、それを因果関係でむすびつけると、とんでもない間違いをおかすと言っているのです。ですから、「言語にとって美とはなにか』では〝時代や社会をとりのけたうえで〟考察をすすめていくのです。そして、そのことによって、逆に時代や社会を照らし返すのです。 

 

宇田亮一『吉本隆明「言語にとって美とはなにか」の読み方』第二部第三章より
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(引用ここから)

 

 

この続きはまた明日に!(^^)/

 

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