「できない自分を受け入れる」とは?
2023/07/17
今日7/17は、午後から中村教室で、
塾生・本田信英さん主催の
定員8名を超える9名の参加がありました。
贈与の読書会のときと同じように、
参加者全員で輪読して、
その後は意見交換したんですが、
会の交通整理役を務めた
本田さんの適切でタイムリーな
ファシリテーションのお陰もあって、
充実したやり取りができ、
参加された皆さんの満足度も高かったようです。
今回の読書会でとりあげたお題本
『言葉のズレと共感幻想』については
このblogではこれまでにも
何度か言及したことがあるので、
初見という方は、
こちらの記事などをご覧になってみて下さい。
また、今日読んだ箇所は第1章だったんですが、
この第1章 「言葉」という砂上の楼閣には、
細谷さんが開発されたダブリングが紹介されていて、
このダブリングについては、
今年の1/26に投稿した
こちらの記事で紹介しました。
第1章の全体を見渡してみて、
わたしが核心部分だとおもったのは、
書籍版の32ページにある次の箇所です。
(引用ここから)
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言葉って、人間の最強のツールであり、
かつ最大の弱点なんですね。
抽象化の話をしていると結局は言葉に行き着くし、
すべてのコミュニケーションギャップも
言葉から生まれる。
人が言葉を過信しているからで、
それはある意味当然の結果かもしれません。
言葉というのは、実際に起きている現象を
何らかの形で抜き出したものだといえます。
その抜き出す過程で、人が自分に都合のいいように
抽象化することが実は問題で、
抽象化の仕方がまさに千差万別なために、
同じ言葉でも人によって解釈の仕方が
変わってしまうんです。
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(引用ここまで・太字は井上)
さて、今日blog記事の本題なんですが、この
人が言葉を過信しているという話と
昨日投稿したblog記事に書いた内容を
ちょっと絡めてみようかと。
昨日の記事にわたしは次のように書きました。
1日1枚やると自分で決めて
プリントを持ち帰っても
自分の決めたようには
できない状況がやってきます。
でもそれは、至って順調なプロセスを
たどっているからであって、
できないことがダメだと
言いたいわけではありません。
「できないときがチャンス!」って
いつも教室では口癖のように言っているんですが、
セルフラーニングスタイルの学習では、
こんなふうにできない壁に突き当たってからが
いよいよ本番というか、
佳境にさしかかかったといえるので。
つまり、こういうときに、
自分を責めたり、状況のせいにしたりせずに
できない自分を
そのまま受け入れられるかどうか、
できない自分に
折り合いをつけていくプロセスはとても重要で、
できなくなったときにしかできない
体験学習だからです。
わたし自身も学生時代をふり返ってみれば
そうだったんですが、
まわりから一方的に強制され評価されるという
大きなバイアスのかかった環境のなかで
学習に取り組んできた人が
ほとんどと言ってよいでしょう。
寺子屋塾で採用している
セルフラーニングというのは、ひとことでいうと
「自分で決めて、自分でやる」学習なんですが、
ほとんどの人は、
過去にそうした体験がありません。
つまり、やったからといって褒められず、
やっていないからといって叱られないという
外的なインセンティブのない、
ニュートラルな環境下での学習のため、
それまでの習慣から
できない状態に陥るのは
まったく自然な状態であるわけです。
でも、そのような自然状態であるにもかかわらず、
できない自分を
そのまま受け入れられない人、
つまり、現状に対する現実視ができない人が
少なくないんですね。
とくに、あるべき姿や理想を
強くもつ傾向の人に見られるんですが。
いや、あるべき姿や理想をもつこと自体は
何ら問題はないんです。
たとえば、できることは良いことで、
できないことは悪いことだというような
良し悪しの評価は、
ある事実をどう認識し、どう解釈するかという
人間の脳内にある言葉次元のものであり、
幻想領域の話ですから、
自分の妄想にすぎないとわかっていればいいので。
でも、細谷さんが言われるように、
その言葉による抽象化の仕方は
千差万別で一律でないばかりか、
人によっても解釈はまちまちでしょうから、
自分の現実の姿を見ることよりも、
そのようなアタマの中の幻想や妄想ばかりに
囚われてしまうというのはどうでしょうか。
つまり、目の前の事実よりも、
言葉次元の認識にすぎない評価の方に
過度に信頼を置いたり、
そうした認識こそが
事実であるとおもいこんだりとなると、
いろいろ厄介な問題が生じてきて、
まさに、砂上に楼閣を建てることに
なってしまいかねないのではないかと。
つまり、できない自分を受け入れるというのは、
事実ではなく、
言葉次元の認識にすぎない評価に
自分自身が振り回されず、
重きを置きすぎないということであり、
事実を事実のまま
柔らかく受け止められるような心、姿勢を
自分の中にじっくり腰を据えて
育ててゆくことだとおもうのです。
もちろん、事実を事実のまま
柔らかく受け止めるというのは
言葉で書くほど易しくはない課題であって、
だからこそ、わたしは
それを学習できる場をつくっているわけです。
さて、『言葉のズレと共感幻想』読書会ですが、
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