寺子屋塾生のらくだメソッドふりかえり文を紹介(その3)
2023/08/22
8/20からこのblogでは、
寺子屋塾生・本田信英さんが
入塾時から3年間、3ヶ月毎に書いていた
らくだメソッド学習のふりかえり文を
少しずつ紹介しながら、
わたしのコメントを記しているんですが、
今日で3回目となりました。
なぜこのような記事を投稿しようとしたかなど、
きっかけなどの前口上をあれこれ書いたので
関心のある方は、
8/19に投稿した(その0)をご覧ください。
また、学習を始めてから2年3ヶ月経った時に
なぜこのような記事をblogに公開するのか、
本田さん自身によって書かれた前口上の記事が
2本ありますので、
そちらもご覧になってみてください。
さて、一昨日の記事(その1)では
3ヶ月目と6ヶ月目のふりかえりを、
9ヶ月目と1年目紹介しましたが、
今日は1年3ヶ月めと1年半のふりかえり文です。
まず、最初は1年3ヶ月めを。
(引用ここから)
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らくだメソッド1年3ヶ月の振り返り
また、3ヶ月が過ぎた。
3ヶ月前中学三年生のプリントをやっていて、
未だに三年生のプリントをやっている。
後半に行くに従って難しくなり、
足踏みをすることが多くなってきた。
私の学力はこの辺りで止まっていたのだと
実感している。
自分の中で学びが多いのはきっと
今の自分のギリギリの学力範囲をやっているからだ。
できるかできないか、毎回毎回わからない。
その時に人は頭をフル回転させるのかもしれない。
そしてそれは喜びであり、楽しさなのだ。
そう、楽しさ。
プリントに取り組むのがこれまでになく楽しい。
毎日のように新しい発見がある。
しかも、それは私にとっては結構大きな発見だ。
止まっていた時が今、動き出している。
遅くても一歩一歩前に進む。そんなことを思う。
最近、大発見をした。
”1/19 中3-35(めやす12分)12:13①
理解の幅がだいぶ深まって来た。一度、35で具体例を学んだ36、37で公式へと抽象化して理解することで35をやる時に混乱することが全くなくなった。具体→抽象→具体を何度も流して対流させることが大事なんだ!”
プリントをやってから毎回感じたことの
記録を取っている。その中で太字にしたことだ。
2次方程式の公式は
中学時代に確実に習っていたはずだ。
でも、私は完全平等式のことを
すっかり記憶から忘れていた。
それは意味が全くわかっていなかったからだと思う。
問題を解くための道具をありがたがって、
使っていただけだ。
だから記憶から抹消されてしまった。
けれど、具体的な問題から
抽象的な記号式にされた時に、
すごくよくわかった。腑に落ちた瞬間だった。
抽象的に考えることの大事さ。
それは色んなものに
応用できるということだけでなく、
計算を単純にするのだ。
抽象的な思考をすることで、近道を作る。
例えば、S字のカーブがあったとする。
私達はありがたがってその道に沿って進もうとする。
けれど、S字を縦に貫く道筋を作ってしまえば、
一気に時間短縮だ。
もちろんたった一回しか通らないならば、
いちいち抽象思考する必要性もないけれど、
何度も通る道ならば、それは作った方が絶対に楽だ。
そして、改めて不自由を感じることも
必要だと感じる。
だってS字を通るのが不便だと思うからこそ
頭を働かせようとするのだ。
そこに不満と違和感を覚えない人間は
何年経っても同じことを続けるのだ。
できないことは大切なこと。
その意味をまた1つ深い次元で知れた気がする。
広げていくことよりも深めることに
今は興味が向いているのかもしれない。
(2017.3.22)
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(引用ここまで)
1年3ヶ月が経過し、
本田さんがそれまでとまったく違う場面に
遭遇していることがわかりますね。
もちろん、そもそもわたしたちの体験は、
一つとして同じ場面など存在しないのが当然で、
常に新しい毎日を迎えているはずなんですが。
今回のふりかえり文のポイントは2つあって、
1つめは自ら壁を乗り越える楽しさで、
2つめは抽象思考の大事さです。
まず、1つめについてですが、
らくだメソッドの場合、
個別学習、個別対応を基本にしているので、
一人ひとりがそれぞれに
異なるペースで学習しているということを
前提にして考える必要があります。
つまり、学ぶべき課題というのは一律でなく、
個別に異なりますし、各々が、
「いまの自分に最も優先すべき課題は何か?」
という問いを立てながら、
自分の固有の課題を見つけながら、
急がず自分のペースでやればいいわけで。
ですから、そのことについての良し悪しを考えたり、
人と比較したりする必要が一切無く、
落ちこぼれるということがありません。
よって、いままで体験したことがないような、
どんなに難しい問題に遭遇しても、
それをどのように乗り越えればいいのか、
自分でいろいろ工夫をしたり、
まわりの人に相談したりしながら、
やっていけばいいのです。
壁を自力で乗り越える体験を積み重ねていけば、
次第に見通しが立つようになってきますし、
そういう経験の繰り返しが
結果的に自分のアタマでモノを考える姿勢や
学ぶことの喜びや楽しさを感じることにも
つながっていくのではないでしょうか。
2つめの抽象化については、
ファシリテーションを学ぶこととの関連性も含め、
わたしも日々その重要さを痛感しています。
〝ファシリテーション〟という言葉だけきくと、
何となくふわっとした感じで、
文系のイメージを持たれる方が少なくないようで、
ファシリテーションと抽象化ということや、
算数の計算、数学の学習がつながっている話は、
あまり聞いたことがないかもしれません。
でも、ファシリテーターとして活躍されている方、
ファシリテーションを学ぶ場づくりに
関わっているような方は、
理系の方の比率が非常に高いんです。
たとえば、わたしの身近におもい浮かぶ人で、
かつてわたしのアシスタントをしてくれていた
Oさんは高専の出身でしたし、
Sさんは数学の先生だし、
Kさんはデザイン事務所の代表、
Mさんは大学は建築系の工学部出身・・・
つまり、具象化と抽象化というテーマは、
文系と理系の関係、
アナログとデジタルという風に
言い換えることもできるとおもうのですが、
そのどちらか一方だけに偏らないような
両方の視点を踏まえながら、
その両軸を自由に往復できる発想が
求められているということではないかと。
理系といえども、結局は小学校で習う算数や
中学校の数学的思考が土台ですから、
その小中学校の算数・数学については、
単にやり方を知っているレベルにとどまらずに、
自在に使いこなせるレベルにまで
しっかり身につけておくことは、
デジタル発想や抽象化という部分において、
驚くほどの威力を発揮するように
自分自身の体験からも感じているところです。
さて次に、1年半のタイミングで書かれた
ふりかえり文を。
(引用ここから)
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らくだメソッド1年6ヶ月の振り返り
ついに念願の高校数学に入った。
高校数学をほぼやっていないと言っても
過言ではない私にとっては
未知の領域に入ったとも言える。
ただ、ここにたどり着くまでに受難の道があった。
それは記録を見返してみてもわかる。
プリントを始めてからずっと撮り続けてきた
毎日の記録が3月で1度途絶えている。
当時はひたすらに忙しく、
また精神的な余裕がなかったために
プリントが週に1回しかできないという日が
当たり前のように続いていた。
4月の終わり頃から5月にかけてで
ようやくリズムを取り戻してきているのが現状だ。
進捗としてはかなり悪いと言わざるを得ないけれど、
亀のように鈍くても前に進んでいるということは
紛れもない事実で、
高校の単元に入ったことが証明している。
そして、実はこのできなくなった時期が
自分にとってとても意味のあるものだった。
最近、久々に会う人にことごとく
「雰囲気が変わったね」と言われる。
久々と言っても、半年から1年程度の期間だ。
劇的な変化が起こるものではないかもしれない。
けれど、外から見ると明らかにわかるほどの
変化が起こっているらしい。
「できなくなること」そのものは
ただの事実でしかない。
大事なのは、自らに
大きな変化が起こっているということだ。
もう起こってしまっている。
「これから」でも「かつて」でもない。
「今」起こっている。
内因・外因はわからないけれど、
昨日までの延長線上で臨もうとすると
たちゆかなくなってしまった。
見ないふりをしようとしても、
空白という形で用紙に記録されてしまう。
逃げても追ってくる現状に対して、
一体どういうアプローチをしていくのか
(あるいはアプローチをしないのか)。
流れの変わった川の中では
同じ場所に居続けるためにも
泳ぎ方を変えなくてはいけない。
例えば、増水して流れが速くなっているならば、
少し頑張って泳がなくては
あれよあれよと下流にながされてしまう。
その時、有無を言わさず変容を迫られるだろう。
今回私の場合は大きな変化ではあったけれど、
人と場合によって、
それは些細な変化かもしれない。
でも間違いのない変化だ。
それにしても不思議だ。
2017年5月に入って
2日以上空けることなく取り組めるようになり、
個人記録も復活したのに、「できること」に
気持ち悪さを感じている自分がいる。
なんで私はできるようになったのだろう?
これは現実逃避の手段と化してないだろうか?
そんな疑念が脳裏をよぎる。
もう気づく前には戻れない。
でも戻りたいかと尋ねられると、
別にいいかな、と身体が答える。
ほのかな郷愁と現状への充足を天秤にかけてみると、
どちらに傾くかは目に見えている。
(2017年5月27日)
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(引用ここまで)
本田さんが、ちょうど真ん中ぐらいのところで、
できなくなることそのものは
ただの事実でしかないと、
自分自身の変化と
対比させながら書かれているんですが、
この部分が、このふりかえり文の
焦点と言ってよいでしょう。
最近、久々に会う人にことごとく
「雰囲気が変わったね」と言われる。
とありましたが、
本田さんのいったい何が変わったのでしょうか?
わたしたちは、日々様々な事件に遭遇しますが、
その多くは、事実そのものに揺らいでいるのでなく、
事実を自分流に解釈し、
その自分で生み出した認識に対して
一喜一憂しているところがあるんですね。
もちろん、現実の状況は常に変化し続けていて、
変わらないものなど世の中にありませんし、
そうした変化のなかにあって
さまざまな「感情」や「観念」をもち、
「意味づけ」ができるからこそ人間なので、
このはたらきや行為自体を
止めることはできません。
人間は生きがいを求め、自分の人生に対して
さまざまな意味づけをすることで
幸せを感じたりするものですが、
その一方で、
好ましいと感じる「事実」ばかりに執着し、
好ましくないと感じる「事実」に対しては、
遠ざけたくなってしまうということにも
なりがちです。
ようするに、そもそも事実には
「好ましい」「好ましくない」という区別など
存在しないので、
端的に言えば、脳の働きすぎによって
起こってくることなんですが、
そうした「意味づけ」のはたらきを
必要以上に肥大化させてしまうと、
「事実」と「観念」の境目がわからなくなって、
心を病んでしまったり、
人間によって意味づけられた「幻想」に
翻弄される人生を送ってしまったりすることに
なりかねません。
よって、寺子屋塾でやっている学習を
ひとことで言ってしまうと、
「事実」を「事実」としてあるがままを見る・・・
ということになるんですが、
こんなふうに、日常のなかで
「事実」と「認識」の切り離しができ、
「できる」「できない」という言葉に
まとわりついている
さまざまな「幻想」を見抜いて
振り回されない姿勢が板に付いてくると、
「学ぶ」ことって本当に楽しいことなんだと
自然におもえるようになってくるんですね。
そして、この「事実」と「観念」を混同しないで、
現実に具体的に対処していく姿勢さえ
失わなければ、
物事を確実に先に進めていけるし、
自分自身をも変化、成長させていけるのでしょう。
「できることに気持ち悪さを感じている
自分がいる」とか
「できることが現実逃避の手段と化していないか」
といった表現は、
1年半にわたって学習を積み重ねてきている
本田さんだからこそ
書ける言葉だとはおもいますが、
それもまたひとつの「観念」であるわけで、
そのように気づいてしまったならば、
観念や解釈に苦しめられていた頃に
戻りたいとはおもえないでしょうから。
なお、本田さんのnoteにアップされている記事には、
このふりかえり文を書かれた時から
すこし時間を置いたタイミング(2018年2月)で
本田さん自身が書かれたコメントも付されていて、
わたしとは異なった視座、視点が垣間見えますから、
是非ご覧になってみてください。
この続きはまた明日に!
【関連する参考記事】
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